十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

#中川一郎大臣の自殺

2021-10-31 05:00:00 | 投稿

先日、ビジネスホテルのシャワーを浴びながら、故中川一郎大臣のことを思い出した。彼は、私の生まれた宇宙基地である大樹町の隣町広尾町で、1925年(大正14)に生まれた。数学が出来たようで十勝農業高校~九州帝国大学を卒業している。北海道開発庁長官であった大野伴睦氏の秘書官を務め、農林水産大臣などを歴任したあと、総裁選に立候補して落選、その後に札幌のパークホテルで首つり自殺で人生を終えている(享年57歳)。シャワールームにあるカーテンの高さが約200センチなので、首つり自殺は可能であったのだろう。

アダ名は、北海のヒグマ”。 人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺に追いやった。」というのが、自殺原因の定説である。国会議事堂の敷地で立ち小便をするとか、事務次官に向かって灰皿を投げ捨てるなど、天衣無縫、豪快さと繊細さの二面性を持っていたとも言われている。

ただ、日本の食料基地である十勝にとって、農業トラクターなどが使う“農免道路”など、日本一と思えるほどの道路を作ったのは事実だし、オホーツク海に面したある町の経営者が、「あの政治家ほどやさしい政治家はいない。」と言ったのは、事実であろう。

彼は貧しい農家育ちだったから、いつも下から目線で物事を見ていたのだろう。今の政治家とは大違いである。政治が国を作ると言ったのは前菅義偉首相であったが、私もそのように思う。今回の衆議院選挙は、どのような結果になるのだろう。投票率は前回を大幅に上がる予想になっているが、政治が国を作るのは確かだろう。

十勝の広尾町は漁業のまちである。いま地球温暖化の原因とみられる“赤潮被害”で、鮭やツブが死んでいる。私達が食べる魚はもういなくなるのでないかと大変心配である。なお、彼の息子であった財務大臣中川昭一氏も自殺で人生を終えている(享年57歳)。

「十勝の活性化を考える会」会員

注) 農免道路

農免道路の正式名称は、「農林漁業用揮発油税財源身替農道」といいます。略して、農免道路・農免農道といいます。農林漁業の従事者には、「農業や漁業用機械に消費される揮発油税については免税して欲しい」という要望がありました。

しかし、税金を免除することはとても困難です。そのため、農林漁業の従事者のために揮発油税を財源とした道路が身替りとして作られたのです。農林漁業用揮発油税財源身替農道整備事業は、昭和40年から行われましたが、民主党政権で有名になった事業仕分けによって廃止となりました。したがって、廃止された平成20年を最後に農免道路は作られていません。平成20年度には115億円の予算がついていたことからも、大規模な事業だったことが分かります。

(出典:yahoo検索から抜粋)


北海道十勝の深掘り 赤潮の原因

2021-10-30 05:00:00 | 投稿

北海道十勝の深掘り 赤潮の原因

全国の読者の皆様に、「北海道十勝ってどんなところ?」の疑問に深掘りしてお伝えしてまいります。


赤潮の原因、ロシアから南下か サケ・ウニ大量死を北海道大が分析

北海道東部の太平洋沿岸の広い範囲で9月中旬以降、赤潮が原因とみられるサケやウニなどの大量死が発生している問題で、北海道大学の研究グループが、赤潮を引き起こす植物プランクトンがロシア方面から親潮(千島海流)に乗って南下してきた可能性を示す分析結果を発表した。9月中旬~10月にプランクトンが増殖し、沿岸に沿って南下したことが明らかになった。

分析したのは、北大水産学部の飯田高大助教(衛星海洋学)と、北大大学院水産科学研究院の芳村毅准教授(海洋化学)らの研究グループ。10月5~13日、水産学部付属練習船うしお丸で北海道東部の厚岸町の厚岸湾沖合を調査した。帯状の赤潮を観測し、沖合2~20キロの約30カ所で塩分濃度、水温、流れの向きなどを測定した。  その結果、塩分濃度や水温から親潮の特徴を示すことがわかった。親潮はロシアから千島列島に沿って南下し、北海道から東北沖に達する寒流で、東シナ海を北上して日本の南岸を沿って流れる黒潮に比べて、塩分濃度や水温が低い。

朝日新聞社

https://news.yahoo.co.jp/articles/2b36366542f389a20152804d45a917d67b60c396

 

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因果応報

2021-10-29 05:00:00 | 投稿

“因果応報 ”という仏教語がある。
因果応報は、生きる意味を知る上で重要である。因果応報が分からないと、私たちは何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、なぜ生きねばならないのかなど、本当の生きる意味が分からなくなるからである。

生きる意味も因果応報も大切なことであり、それを教えているのが仏教である。仏教には因果の道理を根幹として、本当の生きる意味を教えている。仏教は、約2,600年前にお釈迦さまが説かれた教えである。 35歳で仏の悟りを開かれて、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、お釈迦さまが説かれた教えが仏教である。その仏教をそのまま教えたのが、親鸞聖人である。

いつでも成り立つものが仏教では道理と言われており、昔は正しかったけれど、いまでは正しくなくなったというものは道理ではない。お釈迦さまが生きていた2,600年前も、また現代日本でも正しくて間違いないことが道理である。

従って、インドでは成り立っても日本では成り立たないものは道理ではない。だから、いつでもどこでも変わらない真理を教えたのが仏教なのである。

因果応報の因であるが、「因」とは原因で、「果」とは結果のことである。因果の道理とは、すべての結果には必ず原因があるということである。この世のこと全ては、どんな小さな結果にもそれに応じた原因がある。この因果の道理に立って、合理的に教えられているのが仏教なのである。

自分のまいた種は、自分が刈り取らなければならないということである。善いこと、悪いこと、それぞれに応じた幸せや不幸を受ける。自分がまいた種は、すべて自分が刈り取らなければならないということで自業自得である。

人は何のために生きているのかというと、幸せになるためである。生きる目的は幸福であり、幸福になることが生きる意味である。この善い運命や悪い運命がどうして造られたのかを教えるのが仏教である。お釈迦さまも親鸞聖人も、善い行いをすれば必ず幸せが生じ、悪い行いをすれば不幸や災難が引き起こされる。善いのも悪いのも、自分のまいた種まきの結果だと教えている。

ところで、勧善懲悪という言葉がある。勧善懲悪は、 “善を勧め悪を懲らしめる”ことである。善を勧め悪を戒める倫理規範や因果応報を説く思想は、様々な社会集団や宗教でみられる。米軍が撤退したアフガニスタンでは、「女性問題省」を「勧善懲悪省」と書いたに看板に替わったそうである。このまま女性問題省が廃止され、女性の権利が再び制限されるのではないかという懸念が、アフガンでは広がっているそうだ。

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北海道十勝の深掘り 狩勝高原エコトロッコ鉄道

2021-10-28 05:00:00 | 投稿

北海道十勝の深掘り 狩勝高原エコトロッコ鉄道

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大人の鉄道ファンへ!電車運転部門「狩勝電鉄」が開業します。
電動モーターで動く運転体験をお楽しみください。

 

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中国共産党~一党独裁の宿命~

2021-10-27 05:00:00 | 投稿

先日、NHK「日曜スペシャル」“中国共産党~一党独裁も宿命~を放映していた。内容は、毛沢東の秘書も務めた中国共産党幹部で、体制内の改革派を代表する論客でもあった李鋭氏(享年101歳)の目を通して、中国を批判するものであった。

秦の始皇帝から始まり、毛沢東、鄧小平、周恩来、習近平などを紹介し、中国共産党の一党独裁体制を論じていたが、特に天安門事件が、胡耀邦元総書記の死がきっかけとなったことも報じていた。中国には2,000年の歴史があり、一党独裁は変わっていないことを非常に危惧していた。

中国はいま、社会主義市場主義のもとで世界一にならんとしているが、この番組を見てとても恐ろしい国と感じた。中国は多民族国家で約14億人もいるそうであるが、一国で統一するのは難しいと思っている。

1989年に起こった天安門事件の5カ月後、家族と一緒に中国旅行で天安門に行ったので、あの事件がこの場所で起ったことを思うと複雑な気持ちになったことを覚えている。天安門事件の後、ベルリンの壁が崩壊、ポーランドの崩壊と立て続けに起こり、1991のソ連の崩壊と続くのである。

また、ノーベル物理学賞を受賞した90歳になる真鍋叔郎氏が、二酸化炭素の温室効果ガスが気候に与える影響を明らかにしたのも天安門事件が起こった1989年である。彼が、30歳も若い58歳の時である。

「十勝の活性化を考える会」員

注) 六四天安門事件

六四天安門事件は、1989年6月4日日曜日)に中華人民共和国北京市にある天安門広場民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件である。通常「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指す。

民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦(フー・ヤオパン)元総書記の死がきっかけとなった。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった。

抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989415日から自然発生的に始まった。抗議の参加者たちは統制がなされておらず、指導者もいなかったが、中には中国共産党の党員、トロツキスト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声 に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。

デモは最初は天安門広場で、そして広場周辺に集中していたが、のちに上海市を含めた国中の都市に波及していった。鄧小平中軍委主席の決定により519日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモ継続を強行したため首都機能は麻痺に陥った。198964日未明、中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始した。

衝突のあと、中国共産党当局は広範囲に亘って抗議者とその支持者の逮捕を実行し、外国の報道機関を国から締め出し、自国の報道機関に対しては事件の報道を厳格に統制させた。戒厳令布告に反対した趙紫陽は、総書記ほか全役職を解任され、2005年に死去するまで、自宅軟禁下に置かれた。