十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

ローマ教皇の来日

2019-11-30 05:00:00 | 投稿

令和元年1123日、38年ぶりでフランシス・ローマ教皇が来日した。そして長崎や広島を訪れ、核兵器廃絶や平和へのメッセージを発信した。教皇は、国々の競争や生産性を重視する現代社会に警鐘を鳴らして、「物質的に豊かであっても社会的孤独になっている人が多いこと」を指摘。

 「最も重要なことは、何を手にしたかではなく、それを誰と共有するかだ」と述べ、他者と分かち合う必要性を訴えた。今回の訪問を通じて教皇は、「日本は経済的な豊かさの反面、社会的孤立に悩む人が多くいることを知った」と述べ、「孤立に抗しえるのは、他者との分かち合いしかない」と強調した。そして、障害や病気の有無に関係なく、多様な人々を受け入れるよう促した。日本は、世界で唯一の被爆国である。だから、日本しか出来ないことがある。

 なお教皇はふつう、バチカン市国に住んでいる。バチカン市国とは、イタリアのローマの中にある小さな国で、衛兵のいる「サン・ピエトロ広場」・「サン・ピエトロ大聖堂」が有名である。

「十勝の活性化を考える会」会員

 

注) バチカン市国 (世界遺産)

 


 

 

 

(大聖堂内部)

バチカン市国は、ユネスコ世界遺産のひとつ。イタリア・ローマにある世界最小の国家バチカンの国土全域が世界遺産として登録されている。

バチカンはテベレ川の西側に位置し、カトリックの総本山として知られる。前述のとおり、バチカン全域が世界遺産として登録されている。また、イタリアの世界遺産物件であるローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂と隣接している。

 

[サン・ピエトロ大聖堂[

イタリア・バロック様式の代表的な建築物。サン・ピエトロとはイタリア語で"聖ペトロ"の意味で、64年に皇帝ネロの迫害により殉教した使徒ペトロの墓の上に建築されたといわれている。建築を命じたのはコンスタンティヌス帝で、324年のことであった。このとき立てられた聖堂(旧サン・ピエトロ聖堂)は15世紀末まで存在し、新聖堂は1502年に建築が始まった。その後、1514年ラファエロ・サンティが主任建築家に、1546年にミケランジェロが主任建築家となり工事が再開。献堂式が行われたのは、1626年のことであった。

さらにサン・ピエトロ広場の工事がジャン・ロレンツォ・ベルニーニの設計により始まり、1667年に完成した。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)


 十勝の活性化を考える会」会員募集    


連載:関寛斎翁 その9 凱旋そして辞職

2019-11-29 05:00:00 | 投稿

『奥羽出張病院では、頭取の関寛斎が、毎日超多忙の生活の中で、就寝前に必ず筆を取って、綴じた延べ紙に、その日の出来事を細大漏らさず書いた、『奥羽出張病院日記』が、五冊と、付記一冊がある。その第壱号に、驚くべきひとつの出来事が、書いてある。

 「六月二十五日、曇り微雨。当番医小松秀謙・下山田主計」と書き出し、次に三国丸出船で、横浜の基地病院へ後送する、長期要治療の患者十七名と付添医師一名の、姓名と所属隊名、および患者が舟中で用いる布団・浴衣・下着類や、創傷処置用の医療品・薬品、その他患者に舟中で食べさせる梨や鶏などの食料を、細部まで詳しく書いた後、次の事を付記した。

 「一、御使番より召捕人不快に付き付属の内罷り越し、診療致すべき旨来状に付き小松秀謙罷リ出診察の上処置致候事」。これは寛斎が目立たぬよう、当番医に命じて敵の捕虜を、病気から救ってやったという記載だが、さりげなくさらりと二行に、当日の多様の業務を記載した行間に、うずめるようにして載せている。こうした寛斎の考えと行動は、彼が生后三歳にして母に死別し、養父関俊輔の、世に稗益する志を忘れるなとの、教育と感化、次に十八歳で佐倉順天堂に入門、師佐藤泰然の薫陶と教育、さらに長崎で蘭医ポンペより受けた、基礎医学および臨床医学の徹底した西洋医学教育、およびドイツ国立イエナ大学医学部教授フーヘランドの著作を読んで深い感動と影響を受け、寛斎の心に確立していた、博愛人道主義の発露であろう。
 徳川幕府が、武家の守るべき義務を、定めた法令『武家諸法度』が、まだ生きていた時世である。敵に利を与える行為は、死罪にも該当し兼ねない時、寛斎の行為は、ほんとうに勇気ある行動で、フーヘランドが「医師の義務」に載せた言葉「医の世に生活するは人の為のみ、己がために非ずという事を其の業の本旨とす。病者に対しては、唯病者を見るべし、貴賊貧富を顧みることなかれ」。寛斎が戦の最中にあって、敵味方や人権・宗教の差異を顧みず、その本務を全うしたことは、やがて明治の世となり、日本にも生まれて来た、「日本赤十字社」の先駆となったといってよい。』


「松村病院史 第一巻」松村亨先生著

  

『 凱旋、そして辞職

 一八六八(慶応四)年9月22日には会津鶴が城が落ち、翌日には庄内藩も降伏して、奥羽追討の戦いは終わりを告げた。寛斎は、10月26日平病院をたたみ、傷病兵約60名を護送しながら飢旋の途についた。
途中一泊した土浦藩での出来事である。この藩では、維新のカゴ?に乗り遅れたのを挽回するつもりがあったのか、一行を下にもおかぬもてなしで、官軍の高官である寛斎を大名格の駕寵にむりやり乗せ、大名行列並みに送った。日記に「不図、下ニ下ニト町同心ノ触立ノ声アリ、恥入侯」これが寛斎の感想だった。
東京に帰還した彼は、その功により総督府や太政官から褒詞と恩賞金100両、黄八丈の羽織などを受け、面目を施した。官軍の実質は諸藩連合軍であったから、各藩は野戦病院で受けた手厚い看護への感謝のしるしにと、寛斎にいろいろと金品を贈ったが、彼はすべて直ちに上司にこれを提出し、一切、私しなかったという。彼はまた恩賞金のうち10両を、自分の臍の緒を納めてある故郷の面足神社に寄進した。その板額が今も同社にある。後年、父寛斎を偲んで息子たちが出版し、恩賞の黄八丈で装訂した『関寛斎』(鈴木要吾著)特製版が濱口家に贈られ、現在銚子のヤマサ本社に所蔵されている。
凱旋した寛斎は、この時、世俗的な栄達の道という点から見れば、後に徳冨蘆花が「順に行けば軍医総監男爵は造作もない」と評したことが、必ずしも誇張ではない地点にいたと言える。しかし彼は、奥羽戦終結の時点で、すでに病気を理由に辞職願を出して却下されている。そして、東京帰還後残務整理を終えると、松本良順の逮捕から10日ほどたった12月17日に、大村あて再び辞表を出し、あっさりと身を引いてしまった。
この辺に関しての彼自身の記録や、それを裏付けるような傍証は、何も残されていない。
しかしその前後の彼の言動などから、ある程度推測することはできる。
その一つは、彼の恩師泰然や養父俊輔から影響された彼の思想と処世そのものであろう。貧しくとも自由であれ、上官に膝を屈するな。そのためには「公事にかゝわるべからず」というのが、農民の知恵ともいうべき養父の口癖であった。初めて宮仕えをした寛斎にとって、維新前後のこの時代は、矛盾撞着・朝令暮改の最もひどい時期であり、寛斎は身にしみて養父らの教えをかみしめたことであろう。』

 

 

「関寛斎 最後の蘭医」 戸石四朗著


「十勝の活性化を考える会」会員 K

 十勝の活性化を考える会」会員募集  



本気とは・・・

2019-11-28 05:00:00 | 投稿

先日、お寺の本堂でのバイオリンと電子ピアノの合奏を聞いてきた。私は体育系なので音楽のことは全く分からないが、「宗教」に興味があるので演奏を聞いてきた。奏者の方々はまだ若く、東京の音楽学校で学び全国のイベントで、演奏しているらしい。

妻が楽器に造詣が深いので、民間ロケットの打ち上げで有名になった大樹町という田舎で行なったプロの演奏を聞いてきて、次のように語っていた。「プロの演奏家は、田舎の人は音楽を知らないと思ってバカにして、演奏を手抜きしている」と。妻にとっては、手抜きの演奏を許せなかったらしい。私も学生時代、手抜きを絶対にしなかった。なぜなら、武道は殺すか殺されるかの真剣勝負で戦うからである。

何事も、真剣であらねばならないと思う。「本気」で取り組めば、道は開かれるのである。

「十勝の活性化を考える会」会員


注) 武道

武道は、広義には古武道を含むが、狭義には明治維新以降に古武道から発展したもので、人を殺傷・制圧する技術に、その技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざす、といったの理念が加わったもの。

古武道と明確に区別する場合、現代武道と呼ぶ。道の追求という点については、残心(残身、残芯)などの共通する心構え所作などから茶道日本舞踊芸道ともかかわりを持つ。また、乱取りや自由組手などを行うことからスポーツとの共通点がある。

武道の理念は、時代あるいは組織や個人により様々であり、正反対の考え方さえ存在しているが、主要武道9連盟が加盟する日本武道協議会は、「武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道空手道剣道相撲弓道合気道少林寺拳法なぎなた銃剣道などを修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である。」と制定している。

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)


 十勝の活性化を考える会」会員募集  


エコノミック・アニマルとは・・・

2019-11-27 05:00:00 | 投稿

エコノミック・アニマルとは、経済的利益を追い求める動物の意味である。昭和40年代、国際社会における日本人の利己的且つ打算的な態度を皮肉った言葉であるが、今の日本は残念ながら奈落の底に落ち始めている。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言葉もあったが、日本の一人当たり労働生産性は、OECD加盟36カ国中で21位と下位にランクされる。(日本生産性本部調べ) だから、これからの日本を考える時、世界で秀でた国を作るためには、「教育」が一番大切であると思っている。

「十勝の活性化を考える会」会員


注) エコノミック・アニマル

経済上の利潤追求を第一義として活動する人間を侮蔑的にいう。高度成長期の日本人に対して欧米人が呼んだ語。

ニューシンク入門(1969)ビジネスと水平思考〈浅井敬三〉繁栄の七〇年代の思考法 「エコノミック・アニマルとそしられ、文化レベルをうんぬんされても」[語誌]昭和四〇年(1965)、アジアアフリカ会議でパキスタンのブット外相が、日本人の経済活動を評価する意味で、「日本人はエコノミック・アニマルのようだ」と評したのが初めとされる。

その後、主として東南アジア諸国への日本の経済進出に対する反発から日本人への蔑称となった。

(出典: 精選版 日本国語大辞典精選版

注) ジャパン・アズ・ナンバーワン

『ジャパン・アズ・ナンバーワン』は、社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書。

戦後の日本経済の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価している。日本語版は、広中和歌子・木本彰子の訳により『ジャパン アズ ナンバーワン: アメリカへの教訓』として、TBSブリタニカから英語版より1ヶ月遅れで出版された。日本人が日本特有の経済・社会制度を再評価するきっかけのひとつとなり、70万部を超えるベストセラーとなるなど、一世を風靡した。

現在でも、日本経済の黄金期1980年代の安定成長期、ハイテク景気〜バブル景気)を象徴的に表す語としてしばしば用いられる。 この著作の主要なテーマは、単に日本人の特性を美化するにとどまらず、何を学ぶべきで、何を学ぶべきでないかを明瞭に示唆した点である。実際最後の章はアメリカへのレッスンと書かれている。 

具体的には、まず日本の高い経済成長の基盤になったのは、日本人の学習への意欲と読書習慣であるとしている。ヴォーゲルによれば、この当時の日本人の数学力はイスラエルに次ぎ2位で、情報については7位だが、他の科学分野についても2位から3位であるという。ヴォーゲルは日本人の1日の読書時間の合計が米国人の2倍に当たることや、新聞の発行部数の多さなどにより日本人の学習への意欲と読書習慣を例証している。

また、ヴォーゲルは、この本が出た当時、日本人は他の国の人たちより英語力は明らかに劣っているが今はまだそれは大きな問題ではない、優秀な通商産業省や大蔵省主導の経済への強烈な関与がまた日本の競争力を高めていると語っている。

CCCメディアハウス調べによると、日本での累計発行部数は70万部を超える。1984年出版の、同著者による『ジャパン アズ ナンバーワン再考』は日本で13万部を発行。

21世紀に入ってから、ヴォーゲルが中国研究者ということもあり、高度成長からバブル経済に差し掛かっているとされる中国でも注目され、翻訳と発売もされている(題名は『日本第一』)。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)


 十勝の活性化を考える会」会員募集 



心の病気

2019-11-26 05:00:00 | 投稿

心の病気」の回復には、相当の時間が必要であると友人のメールに書かれていたが、私もそのように思う。なぜなら、息子が大学時代に「心の病気」にかかり、回復するのに10年近くかかったからである。息子の症状は、高校時代にスポーツクラブに所属し全道大会まで出場したが、大学時代ではどこにも所属せず体重も40㎏を割って、声も出せない状態であった。

今では、子供にも恵まれ元気で働いている。メールの方の娘さんも都会の大学生活で心の病気を患い家族も心を痛めたが、今では子育てや農業の手伝いで頑張っているそうだ。

私は医者でないので専門的なことは分からないが、心の病気の原因は多種多様とみられ、多くの人が心の病を患っているのではないだろうか。回復には、本人の「こころ」の整理と周りのいたわり・おもいやりが不可欠で、相当の時間がかかるだろう。

心の病気にかかり、社会的な生活が円滑にできなくなった症状を「適応障害」という。生活の中で生じる様々なストレスに対処できず、抑うつや不安感などの精神状態が現れて、日常生活に支障をきたす病気のことである。

症状は、うつ病や不安障害と類似しているが、これらの判断基準に明確に当てはまる場合、そちらの診断が優先される。息子の場合、精神科医に相談すると「うつ病ではない」と言われたが、フィギュアスケートの鈴木明子選手も一時は痩せて「摂食障害」だったので、あとになって思うと息子も摂食障害だったと思う。

 医学をはじめとして分析・技術開発が顕著に進んでいるが、一方で価値観も多様化してストレスの要因も多くなり、「こころ」の疎外化が進んでいるのではないかと思う。

 10月22日、天皇・皇后両陛下の即位の礼が国内外に向けて挙行され、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であることを宣明された。宮内庁によると皇后陛下も一時、「適応障害」を患われたそうであり、高貴な笑顔で祝儀に当たられたことを心よりお慶びしたい。そして、「嵐」が奉祝曲を歌っている時、皇后陛下の眼に光るものが見えたが、辛かった適応障害のことを思い出したのだろう。

 

「十勝の活性化を考える会」会員

 

注) 摂食障害

摂食障害は、食行動の重篤な障害を呈する精神障害の一種である。近年では嚥下障害等の機能的な摂食障害との区別をつけるため、中枢性摂食異常症とも呼ばれる。厚生労働省の難治性疾患(難病)に指定されている。患者の極端な食事制限や、過度な量の食事の摂取などを伴い、それによって患者の健康に様々な問題が引き起こされる。主に拒食症過食症の総称である。人間関係の問題などの心理的なストレスが原因となる場合が多い。

摂食障害は大きく拒食症過食症に分類される。拒食と過食は相反するもののように捉えがちだが、拒食症から過食症に移行するケースが約60 - 70%みられたり、「極端なやせ願望」あるいは「肥満恐怖」などが共通し、病気のステージが異なるだけの同一疾患と考えられている。よって拒食症過食症を区別する指標は、基本的には正常下限体重を維持しているかどうかのみである。

アメリカ合衆国ではBMIによる標準体重85%以下が拒食症に分類されているが、日本では80%以下とされている。

 

               (出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 注)象徴天皇制 

象徴天皇制とは、日本国憲法で規定された、天皇日本国及び日本国民統合の象徴とする制度を指していう。

 日本国憲法第1条は、天皇を日本国と日本国民統合の「象徴」と規定する。その地位は、主権者(主権在民)たる日本国民の総意に基づくものとされ(前文、第1条)、国会の議決する皇室典範に基づき、世襲によって受け継がれる(第2条)。天皇の職務は、国事行為を行うことに限定され(第7条)、内閣の助言と承認を必要とする(第3条)。国政に関する権能を全く有さない(第4条)。

なお、帝国憲法においても、元首たる天皇は、明文規定がなくとも、当然に国家の象徴であった。現行憲法においては、実質的な(=内閣総理大臣が行使する行政上の)権限がない点で帝国憲法と異なる。これを強調し、「象徴天皇制」という。 

      (出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)


十勝の活性化を考える会」会員募集