令和元年11月23日、38年ぶりでフランシス・ローマ教皇が来日した。そして長崎や広島を訪れ、核兵器廃絶や平和へのメッセージを発信した。教皇は、国々の競争や生産性を重視する現代社会に警鐘を鳴らして、「物質的に豊かであっても社会的孤独になっている人が多いこと」を指摘。
「最も重要なことは、何を手にしたかではなく、それを誰と共有するかだ」と述べ、他者と分かち合う必要性を訴えた。今回の訪問を通じて教皇は、「日本は経済的な豊かさの反面、社会的孤立に悩む人が多くいることを知った」と述べ、「孤立に抗しえるのは、他者との分かち合いしかない」と強調した。そして、障害や病気の有無に関係なく、多様な人々を受け入れるよう促した。日本は、世界で唯一の被爆国である。だから、日本しか出来ないことがある。
なお教皇はふつう、バチカン市国に住んでいる。バチカン市国とは、イタリアのローマの中にある小さな国で、衛兵のいる「サン・ピエトロ広場」・「サン・ピエトロ大聖堂」が有名である。
「十勝の活性化を考える会」会員
注) バチカン市国 (世界遺産)
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(大聖堂内部)
バチカン市国は、ユネスコの世界遺産のひとつ。イタリア・ローマにある世界最小の国家バチカンの国土全域が世界遺産として登録されている。
バチカンはテベレ川の西側に位置し、カトリックの総本山として知られる。前述のとおり、バチカン全域が世界遺産として登録されている。また、イタリアの世界遺産物件であるローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂と隣接している。
[サン・ピエトロ大聖堂[
イタリア・バロック様式の代表的な建築物。サン・ピエトロとはイタリア語で"聖ペトロ"の意味で、64年に皇帝ネロの迫害により殉教した使徒ペトロの墓の上に建築されたといわれている。建築を命じたのはコンスタンティヌス帝で、324年のことであった。このとき立てられた聖堂(旧サン・ピエトロ聖堂)は15世紀末まで存在し、新聖堂は1502年に建築が始まった。その後、1514年にラファエロ・サンティが主任建築家に、1546年にミケランジェロが主任建築家となり工事が再開。献堂式が行われたのは、1626年のことであった。
さらにサン・ピエトロ広場の工事がジャン・ロレンツォ・ベルニーニの設計により始まり、1667年に完成した。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)