初冠雪
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現在(いま)の時代に撮るべき風景写真とは何だろう?
写真が記録である以上、現在を象徴する何か、または時代を超えて残しておくべき何か(失われてゆく何か)
を切り取ってゆくのが自然風景を撮り続ける私たちの仕事だろう。
それは現時点では何か?
ここ数年の目に見えて顕在化してきた異常な気象現象。
毎年のように、それまでの常識を遥かに超える自然災害に見舞われる。
それは、当たり前のように毎年繰り返してきた春夏秋冬の四季のサイクルが、
最早(もはや)正常に働かなくなってきていることを意味しているのじゃないだろうか?
温室効果ガスによる地球に対する負荷は、もう閾値を超え、
なし崩しに急激な気候変動が常態化してゆく…
そんな最悪のシナリオが真実味を帯び始めた。
私たちの観ている美しい四季の風景は、いつまでも続くわけじゃない。
特に生命の揺り籠(温床)、源流域の森は危機的状況だ。
これからの毎年まいとし、訪れる季節それぞれが衰退の(消滅の)記録となるかもしれない。
そんな覚悟で山へ入りたい。
と、大風呂敷を広げたのも、
まったく写真的成果が得られなかったから(笑)
石鎚山上は日没後、重く垂れ込めた昏い空から粉雪が降り続け、
翌朝には、うっすら冠雪した。
樹々は、びっしり着氷して白い霧氷が視界いっぱいを覆う。
風向きも夜半から北東へと変わり、石鎚北壁を吹き上げる。
後は、厚く垂れ込めた雲が切れて、朝陽に輝く天狗岳が雲間から、
その神々しい姿を現わすだけ。
山上の気温-6℃。
明け方前に登ってきた今治のKさんと宇和島からの写真ヤさんと3人、
ひたすら、その瞬間を待ちわび続けた。
待つ続けること5時間以上…
ついに一度も天狗岳は、その姿を見せることなかった。
(冬は、このパターンが多い)
重い足を引きづりながら下山していると、なんと「のんびり山歩さん」が登ってくる。
下記の画像のように下山後、みるみる厚い雲が切れて石鎚山は、その全容を現わしたのです。
山歩さん、通い続ける者に山の神様は微笑むのです。
きっと夕映えに染まる天狗岳を見事、撮影されたことでしょう。
う~ん、この1年以上、山から遠ざかっていたからなぁ~。
この冬は頑張って通いますよ。
夜行バスを降り立ち第一声が「寒!!!!!」
旅先で西熊山登山の友人から樹氷画像が届き、心が暫く落ち着かなかった事を思い出しました
異常気象は古都京都でも見られ、落葉の光悦寺・緑の真如堂の筈が見事に裏切られ何れも見頃近しといったところ・・・・
確かにおかしいですね、地球が壊れかけています
念願の桂離宮は感動、母子三人川の字になって石塀小路定宿で寝ました
画像は少しお待ちくださいね、たいして良くは無いのですが
そして、目線を少し上にあげると、正面に初冠雪の石鎚山がみえます。
そして、35度程右に視線を移すとこの前登った皿ヶ嶺。90度まで移すと、谷上山です。
見上げる石鎚山は、分厚い雲に覆われ、時折
雲の隙間から雪が積もった頂上が顔をみせます。
まだ、ランスケさんは、サクサク歩きながら、写真を撮っているだろうなと頂上付近を暫く目を凝らしながら見て(捜して、見える訳ない)いました。
前日は、(20日)女房と谷上山のえひめ森林公園のらくらくコースと鍛錬コースをハイキング気分で楽しんできました。
今日23日は、北条の腰折れ山に女房と行く予定でしたが、あいにくの雨で、中止27日に変更です。
12月4日か11日ランスケさん時間取れれば、「初心者コースの上」位のどこか連れて行ってくれませんか?
友達の、中也(のんびり山歩さんと同じ名字)にこの前、皿ヶ嶺に行った事を話すと、オレも一緒に山登りしたい、写真も撮りたいと言ってますので近直紹介させてください。
神秘的な石鎚山の写真に、感謝・合掌です。
私は、どちらかと云うと、青空の下、くっきりと世界が鮮やかに浮き立つ
総天然色世界よりも
何か境界があやふやな、この世ならざる風景に惹かれます。
深い霧に閉ざされた森や月夜に照らされた、かそけき世界…
今回の画像でいうと3番目や4番目。
前回の画像も3番目と4番目ですね。
misaさん、私たちの惹かれる山は、昔から異界への入り口なのです。
それを忘れずに…
結構です。色んなキャラクターを使い分け分裂してゆく人格を補ってください(笑)
あれ?今日は私が参加していないのに雨でした。
どうも雨男は、私だけではなく山案山子さんも同様なのかもしれません。
二人も雨男が被ると次回は、きっと雪ですよ(笑)
次回の山行、ちょっと天候次第です。
今回のブログ記事でも宣言したように、
残された時間を考えると私の山で撮影出来る年数は、
おそらく10年未満。
後10シーズンしか残っていないのです。
山案山子さん、気温の高い日曜日なら大丈夫です。
そして土日ともにピーカンならば撮影にならないのでOKです。
また天気予報をみて連絡しますね。
ランスケさんが残したいものと変わらないものを切り取り蓄積されているように・・・
しかし、最近になって特にこの「普遍と変化」に対する概念が崩れているように思います。
今年から来年にかけての冬山、ランスケチームができそうですね。
自分を見直す山行と自然を楽しむ山行、どちらもすばらしい。
山はいい!ランスケさんの好みの写真、分かる気がします。
進んでいる自然破壊、東北の紅葉もおかしかった。
芯冷えする京都、写真待ってますよ。
来年の伊達本家との企画展の準備も着々と進行している様子。
ブログ記事を楽しみにしています。
私は、この世界に普遍のものは無いと思っています。
今、読んでいる「スノーボール・アース」は6億年前、
それまで単細胞生物だけだった地球上の生命が、一気に多細胞生物へと進化した時期、
この地球は、最も熱い赤道まで氷に覆われていた。
文字通りスノーボール(雪玉)だったという、今までの常識を覆す刺激的な内容です。
諸行無常、諸法無我…
私たちは世界との関わりのなかで、常に変化してゆく。
近頃、この言葉を反芻しています。
「古本屋の殴り書き」小野不一さんのブログ記事、
歩く瞑想「君あり故に、我あり、依存の宣言」は出色の内容でした。
私たちは、山歩きのなかで無意識の内に身体運動と同調するように
五感を解き放ち世界との一体感を得ているときがあります。
呼吸と呼吸の間をみつめる歩く瞑想…好いですね。
計算通り、予想通りが続かないから、常で無いからこそ面白い。
想定外の出来事も時にあり面白い。
気候の急激な変動も、地球的には永いスパンの中ではあったことだろう。
ただ、人間が起こした結果の変動は地球復元がどれだけ可能か?
虫も草も変動に会わせて変化していますよ。人間はどうですかね?
あえて儀式と書かせてもらいました。
大切な人を送ることを、共通の記憶を分かつ人たちで共有する場が設けられることを
とても羨ましく思いました。
私には父母の死を、その記憶を共有する場もなく、
独りで抱え込むことで袋小路へ陥ってしまいました。
人の死は、個人で抱え込むには大き過ぎる。
もっと連綿と続く世界の繋がりの枠組みで、その死を捉えると、
とても気持ちが楽になります。
自我という楔から自由になると、もっと生き物としての
世界との関わりが見えてくるように思えます。
諸行無常、諸法無我…
この言葉は、本当に私たちを自由にしてくれます。
彼は以前からズッーとin-door派だったと記憶しておりますが・・・とうとう(やはり)...
ときどき、ブログ拝見させていただいておりますが、いつも素晴らしい写真(書)をありがとうございます。
噂は、山案山子さんから聞いています。
暗黒世界の使徒、ほっほさん(救いようもない真っ黒なラース・フォン・トリアーの世界に
引きずり込んだ張本人)を、アウトドア派のゆるキャラに変えたランスケです。
中也さんも面白いキャラクターみたいなので、今度3人で一緒に山へ行きましょう。
ブログに登場して人格を弄ばれても怒らないでくださいね(笑)