夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

素数とπは星月夜に戯れる

2005-04-26 | tale

  すべてがデータになる前に(11)

 新月の夜、ママたちがぼくのベッドにやってくる。少し寒いけれど、毛布をめくって仰向けになる。大山椒魚が歩いてくるような音がして、すぐにぼくの体は暖かくなる。潮が満ちてくる、静かに、おそろしいほどの高さまで。周りのベッドの患者は死んでいる、夜明けまで。ママたちは微笑みながら見つめている、粘液質の闇の奥まで。無数の手と脚がからみついてくる、ぼくの脊髄の中まで。バッソ・オスティナートのような動き。……

 暗い夜には、黒い血が飛び散り、流れない。痛みはすべての感覚の母親なんだろう。ぼくは若いのだろうか? こんなに痛みが繰り返されるのは。「今、どこにいるの?」ママたちが訊く。ぼくは答える代わりに巨きな魚に呑み込まれたヨナのことを考える。それだけでぼくを呑み込んでくれる。くすくす含み笑いをしながら。ぼくはごぼごぼ言いながら消化されていく、生もなく、死もない、どろりとしたただの蛋白質に。

 空に時折、ピカピカと閃光が走る。誰かが誰かに合図を送っている。神々だろうか、巨人族だろうか。ぼくには関係がない、ぼくは取り残されている。ママたちは去って行った。ぼくの息が整って、眠そうなふりをしているのを信じたかのように。バラ色の匂いをベッドに残して。

 ……誰かがデイルームで、何か考えてる。はっきり伝わってくる。とても寝られたものじゃない。だるい体を引きずりながら行くと、非常口のライトに照らされて、ソファの上に白い塊が見える。大きな繭のようなそれに近づいて行くにつれて、タオルケットのようなものに誰かがくるまっていることがわかった。まだ考えている、でも身動き一つしない。さっきからやめてくれないか、と声に出さないで叫んでいるのに手ごたえがない。いくら叫んでも時間の向こうに吸い込まれていく。

 仕方ないので少し離れて座る、そっと、雨の上がった公園のベンチのように。ああ、そうか。これはゲームをしているときの感じだ。楽しんでいる。こっちも昔やったいろんなゲームを頭の中で動かしてみる(ここではできないからできるようになった)。

 HPが151貯まったところで、タオルケットから顔が出て「どうしたの?」あの女の声だ、少ししゃがれている。「別に……何を考えてたの?」「数学の問題。……ゼータ関数って知ってる?」知ってるわけがないという顔をした。暗くてもわかるだろう。「でも、すごくおもしろいんだよ。いろんなおもちゃが次から次へと出てくるみたいで」うん、それはわかるよ。

 それからぼくは彼女が熱心にリーマン予想だのカシミール元だのについて、まるで友だちのことを話すみたいにしゃべるのを聴いていた。繭から巨きな大水青が出かかっているのを想像しながら。月に導かれなくても羽化するのだろうか、青白い翅はもう乾き始めているのだろうかと。

「ね?なんかお酒でも飲みたいね」親密な声で言う。ここでは酒は飲めないし、ぼくは飲まない。「どんなの飲みたい?」「カクテル……例えば」「そこ!誰かいるの?!」いるに決まってるだろ。愚鈍な言い方はやめてくれ。懐中電灯でひとの顔を照らしながら、規則を暗唱するのもやめてくれ。何よりぼくらが粘膜的なことをしていたと下品な頭で想像するのはやめてくれ。

 ……女はタオルケットをかぶったまま体を痙攣するように伸ばしていく、蛾は消えていく。うまいやり方だ、慣れてきたね。「……だいじょうぶ?」嫉妬する女から夜勤のナースに戻りながら声をかけているのを目の端で見て、青ざめた蛍光灯に斜めから照らされて、いつも以上に凹凸だらけに見えるリノリュームの床をぼくは戻り始めた。


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