前回と同様、私がクラシックを聴き始めた頃の話です。グレン・グルードの81年の新盤が出る前なので、隔世の感がありますが、音大に進学した友人たち先達に言わせると、グールドの演奏は、おもしろいけれどやりすぎっていう評価でした。そうか、際物みたいなものなのか、やっぱりチェンバロで弾かないとねと今も変わらぬ生判りをしていたんですが、LPを買って聴いてみると、こんなにわくわくする曲だったのか、いやいやこれは恣意的な演奏で、よい子wは聴いちゃいけないんだなんて、複雑な気持ちになりました。
でも、今聴いてみると、55年の旧盤は意外なほどおとなしく聞こえます。それは新盤を聴いてしまっていることももちろんあるのですが、グールドがこの曲の演奏のパラダイムを決定的に変えてしまったからでしょう。例えば、Trompe-l'oeil(だまし絵)の一種で何が描いてあるかわからない絵がいったんある物に見えてしまうと、それ以外には見えないというのと似ています。表面的な類似があるとかないとかは別にして、チェンバロによる演奏でもグールドによって確実に演奏と聴く側の耳が変化させられています。すなわち、彼の演奏は極めて稀な“創造的なもの”なのです。通常の演奏家は、コンサートにおける演奏を第一義に考えているはずで、優れた演奏家ほどそうした一回しかない(Einmaligkeit)観客と共有された体験を重視し、録音はその影のようなものとみなしているでしょう。それに背を向けたからこそ、(作曲家の聴かせたかったことの)単なる再現でしかないはずの演奏が創造性を持つようになったように思います。
こうしたことは、楽譜を知的に分析するというだけで得られるものではありません。およそバッハの演奏においては知的アプローチがなければ箸にも棒にもかかりませんが、感情面でも深いものが要求されます。では、知と情が50%、50%ならいいかというとそれでは足りません。どちらも100%でなくては本当の演奏にならないと思いますが、それは生身の人間には不可能だとしても常識よりずっと高いレヴェルでバランスが取れていることが要求されるので、そんなことは実際の演奏家が骨身に沁みてわかっているでしょう。
とは言え、そうでもないように思える人もいます。園田高弘のCDが図書館にあったので、借りたことがありますが、エドウィン・フィッシャーとかの名前を出しながら、わざとグールドには言及せず、でも彼を暗に批判してるのだろうというようなライナーノーツを書いていて、それはそれでいいんですが、ともかく文章として権威ぶっているけれど、思考がゆるいと言うか、知的レヴェルが低いと言うか、旧世代(だけであることを祈りますが)の演奏家の漫筆って感じでした。演奏はつまんないの一言、曲本来の不眠症解消という目的にはぴったりw。
ホッフスタッターの「ゲーデル・エッシャー・バッハ」もグールドの演奏なくしては生まれなかったでしょうが、ゲーデルやエッシャーについてはいざ知らず、バッハについては何も教えてはくれません。バッハは自分の好きなように演奏しても、ネタにして料理しても全然かまわないと思いますが、つかまえたと思ったら自分のうぬぼれ顔だったっていう、鏡のような人です。
グールドの演奏については、DVDで聴くのがいいように思います。音楽が目の前で生まれていくダイナミズムを如実に見ることができますし、何より音がすばらしいです。どのように調律しているのか知りませんが、ものすごい合い方をしていて、純正律的な音がします。それが”情”の部分ですが、そうした音を聴いていると、彼のレコード録音の最初と最後がこの曲だったことに思いが及びます。アリアで始まり、変奏を重ねて、アリアに戻るこの曲の中に閉じ込められているかのように。
今、エドウィン・フィシャーのバッハを聞いていますが大変立派なものです。アルフレード・ブレンデルなどは、これを現代風にピアノアレンジして継承していますね。
前者は、兎に角、偉い大先生としてどうしても祀り上げれてしまうので、柔軟では居られなくなったのでしょうか。
さらに、このグールドは優れた演奏家とも隔して、録音した演奏に創造性を持たせた「本当の演奏」である…。
とっても難しいです。家でフンフン機嫌よく聴き流してしまってはいけないような気がしてきました。
ただ、それが一時代の産物に過ぎないという自己相対化ができないと、煮ても焼いても食えない代物になります。ベームが死んで評価が急降下したのを思い出します。
リスナーである我々は、コンサートでもCDでも演奏家がどれだけ芸があるのか、ないのか自由に判断できる「主人」なんですから、CDを鼻歌まじりに聴いても叱られる筋合いはないと思いますよ。