私はゴーギャン(1848-1903)の絵はよくわかりませんし、あまり好きでもありません。タヒチの女性を描いた絵が有名でしょうが、どこか鈍重な物憂いような感じが南の島へのあこがれを誘ってくれるわけでもありません。でも、タヒチの映像を見るとゴーギャンの絵を思い浮かべてしまうのはやはり力があるのでしょう。
そう、ゴーギャンの絵はとても力があると思います。美しさよりも。その原因の一つは彼の性格によるものでしょう。そんなに彼の伝記的事実を知っているわけではありませんが、妻子を捨てたことといい、ゴッホとの付き合い方といい、道徳的な批判をするつもりはありませんが、まあよほど自分の才能に自信があって、利己的だったんだろうと思います。……晩年の大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」(1897-98)を見ても、およそ近代の画家とは思えない、キリスト気取りの誇大妄想の持ち主じゃないかという気がします。ゴーギャン不遜なんちてw。
それにしてもこの自画像は異様です。ゴッホと劇的な事件で決別した翌年1889年に描かれたのですが、悪魔のような格好をしながら、キリストか天使のような輪っかが頭上に描かれていますし、手には蛇を持ち、リンゴがぶら下がってるわけですから、善悪の両方を股にかけた知恵の象徴のような……でも、ピエロかトランプのジョーカーのように見えますね。
画面は赤と黄色の面と青い茎(黄色の四方形は花なんでしょう)で極めて平面的に分割され、そこからにゅっと傲慢とも自嘲的とも見える首が出ていて、自尊と自虐が並存しているように思えます。このようにこの作品はおよそ正反対の要素が無理やり同居させられていながら、絵としての統一感を失ってはいません。才能の大きさと言うべきなんでしょう。しかし、私にはそんなことをやってしまう精神はとても健全とは思えず、ゴッホの作品以上に狂気を感じてしまうのです。
理解に苦しむ作品はすべて芸術だからだと自分で思い込まないと鑑賞が辛くなります。
でもその絵の持つ奇妙な存在感に気づかされることはありますよね。
私はダリ作品が大好きな時期がありまして、今でも特定のものを見るとダリの絵を自然と思い出しています。
ダリの絵はとても好きなんで、またここでも紹介したいと思います。