夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

自己実現と愛

2016年05月03日 09時17分08秒 | 日記
 昔、ある心理学書籍で『人は自己実現』の切なる願いを持って居る、と言う記事を読んだ。

 自己実現こそが『己の存在』を確信させるものである。人が敷いたレールの上を走ることは『存在しているとの意識』を希薄にする。その事は自分自身の経験でよく解っている。私は聡明で大人しい少年だった。親たちは自分たちの理想とする道に私を歩ませようとした。私は従順にその道を歩み秀才、優等生コースを歩く少年の模範のような存在だった。だが、今その日々を振り返ると『生きたと言う意識』が希薄である。『あの日々は本当にあったのだろうか?』と思う。丁度、目に豪華な食事、しかし味がない!そんな感じだ。

 一方、会社が倒産して独立してからの地獄の日々は強烈な輝きを伴って想起される。ピカレスクと言う言葉があるが、悪党に近い生活の生々しさは今も『生きた!』と言う実感を伴い胸中に昇る。愛する・・・と本人たちは思い込んでいるが、その実は自己愛の言い訳としての愛であり、執着が本質なのだが・・・子供に自分たちが安全と思う道を用意して『自分が安心したいがために』その道を歩ます事はその子供本人の聖域に手を突っ込む所業である。

 人がこの世に生まれ出て来るのは『存在の確認の為』であり、それは『自己実現』を通してしか可能ではない。そして自己実現の為には『愛』と言う支えがどうしても必要なのである。キリスト教文化圏発祥の『あらゆることを言語化せずにはおかない』性向は何事も顕在意識で処理するようになった。解りやすく言えば総てをマニュアル化、数値化、数式化、記号化してしまうことでありそれがロケットを宇宙に飛ばすことを可能にはしたが潜在無意識の領域である衝動については無力である。

 『愛』と言う支えを得られない少年少女の潜在無意識に起こる衝動・・・はけ口のない怒りは結局自己破壊衝動として自分の人生を破壊する方向に発散される。破滅型性格と妻に評される私は多分その、辛うじて踏みとどまった一例かもしれない。『優しくしてちょうだいよ』と縋るように言った母、諦めの域に達した父、この犠牲の上に僥倖があったのだろう。

 無論、踏みとどまるには他の・・・もしかしたらもっと大きな理由があったかもしれない。男は家庭を持ったら妻子を護らなければならない。その観念が意識には昇らずにあったと思う。両親が自分の息子達にまで自己愛執着の手を伸ばしかねないのを察知して私は険悪になったことを否めない。
コメント
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