夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

形見

2016年12月15日 12時10分04秒 | 日記
       かたみ   野田宇太郎

書棚のかたすみのほの暗いところで、いつも一冊の
聖書の金文字が光っている。誰か磨きに来る人が
あるかのように、いつもあたらしく光っている。

あの人は死んでしまった。私に聖書をわたすために
此の世にあらわれてきたような ほのかなひとであった。

あのひとを想い出す日はひそかに聖書を取り出して
あの日枝折を入れたままのピリピ書のページを開く。

そのたびに私のまえに悔いほどに煌めく淡い埃り。
そのたまゆらにあのひとの声を私はきく。

・・・埃はこうして窓の外ではたくものよ、いいこと・・・
窓の外にはあの日と同じ風が流れている。


父は私の苦しみを洞察出来なかった。外見、外面のみを見て『このバチ当たりが』と言うだけだった。私の事を芯から心配し嘆いたのは母だった。その母に私は冷酷だった・・・後悔している、とても・・・!
そのような経緯からか私には母の形見は一切なかった。しかしどういうわけか、母の使っていた聖書が私の手元にただ一つの形見として残っている。母が他界してもう30年は過ぎた。その聖書がまだまだ多くの困難を乗り越えなければならなかった日々にどんなに励ましになったことだろう。

すずめ一羽と雖も神の許しなしには地に落ちない、のだよ!と行間から囁くイエス・キリストの言葉を頼りに、行く末暗い息子と共々歩いた日々であった。

若かりし頃の母を彷彿とさせる画像を貼っておく。



ピカソの絵

2016年12月15日 09時46分59秒 | 日記
 ピカソが少年の頃の絵は実に端正な非の打ちどころのない絵である。しかしそれが歳を重ねるごとに崩れて来ておよそ凡人には理解し難い絵になってくる。

 ピカソ曰く、『子供のように描けるようになるまで70(?記憶曖昧)年かかった!』

 『指呼すれば国境はひとすじの白い流れ・・・』と詩人津村信夫は書いた。

 いずれも凡人には成しがたい表現である。では何が違うのか?


・・我々は人間社会でその社会構成員として生きる為に、不本意ではあっても仮面を被って生きて居る。これをペルソナと言う。子供は天真爛漫であるのはこのペルソナが薄いからである。
我々の、自分自身も忘れ去ったあの黄金の日々の少年少女は実は失われたのではない、この厳しい世を渡る為に心底深く封印されてしまっているのである。

 タテマエと本音と言う言葉があるがこの本音はその封印されてしまった少年少女の叫びである。でもその叫びはペルソナなる前頭葉論理理性思考の仮面によって却下される。

 ところが偶にその前頭葉理性思考を突き破って潜在無意識が表に出て来る人が居る。これがつまりは芸術家である。ピカソは殆ど一生かけてこのペルソナと格闘したのだろう。次男息子は昔、ホアン・ミロの絵を見てわははと大笑いした。巨大な画面にわけのわからない線や点、ドンゴロスの袋などが貼り付けてあるのだ、常識人は理解に苦しむ。甚だ失礼ながら日本の多くの画家と称する人々の絵が面白くないのは潜在無意識の叫びではなく前頭葉論理理性思考の産物としての絵だからである。

 長男息子はこのペルソナが薄い、従ってその発する言葉、描く絵は幼い少年のものである。それがこの世俗社会で生きなければならない時、我々と違った苦痛を味わっているであろうことは容易に推察できる。彼の場合、妻や家族を犠牲にしてまで黄金の日々を回顧乃至は再現するほどの我儘ではないから。

 家族がどのようであるか否か全く感性がなくただひたすら己の少年時代の夢を追いかける男を私はピーター・パンと呼ぶ。

私に世間を教えた人

2016年12月15日 02時12分08秒 | 日記
 勤めていた造船所が潰れた。あと数年居れば博士論文まで漕ぎつけられたのではないかともうぬぼれる。普通の大学造船科卒は製図員が描いた図面を見て・・早い話、ケチをつける、実はそれは上等の方でメクラサインをして出図する。

 やがてそれが現場に回って工事が始まった時に図面の不備が露見したりする。すると一番下っ端のその図面を描いた製図員が現場で吊るし上げられ平謝りに誤り事後処理に奔走する。

 私は何が学卒か?と、そういうのを内心軽蔑していたので製図員にはこういうふうに設計せよ、と指示するようになった。そして出来た図面が指示通りかをチェックする、時には難しい図面は製図机を二つ持って居て日常業務の合間に描いたりした。

 そのような経験があったので潰れた会社を辞めて個人で図面屋を始めた。その時、組織の設立、印鑑、請求書の書き方、客先や官庁役人への仁義の切り方等々を教えてくれたのが半分はゴロツキの長崎遊び人だった。

 それまでの私は母親のお人形さん遊びの人形として純粋培養された水もしたたるひ弱な美青年だった。私の無意識は結局それを知っていて、それでは妻を護り、子供たちを育てられないことを知っていたのだろう、母によって着せられたすべてのもの、つまり学歴も捨ててゼロから自分を作り直し始めた。

 無論意識はしていない、ただ無意識は私をそのような行動に駆り立てて行った。大酒飲みの真似事をして粋がったり、一見ヤクザ風の風体で闊歩したり、同業者を潰したり、気に入らぬ孫請けにイジワルしたり、まあろくなことをしていない。

 ある時、母が言った・・・『昔はホントに綺麗な顔してたのにキッタナラシイ顔つきになって』と。嬉しかった、人相が悪くなったと言われるのは男になったという事だ!ゴロツキ親父の薫陶よろしく一見煮ても焼いても食えぬヤツに成り下がった。

 そのゴロツキ親父はごろつきの常で国法を無視していた。『そげな法律をだいが作ったとや、俺は相談受け取らんぞ』と。というわけで健康保険がなかった。天罰覿面、酒ばかり飲んでいたツケが廻って結腸癌になった。多額の治療費は私が出した。亡くなった時死亡保険金から利子無しで返してもらった。

 それから長くせぬ裡に私は仲間から追い出された。そこで別の、今度はコンピュータシステムを作る会社を昔の上司と立ち上げた。そして数年、会社の運営で意見が対立し又しても追い出された。しかたなく土建屋に就職した。

 給料が安く、これでは息子達の学費が出せない、と考えてかつて蛇蝎の如く嫌った造船所なる組織に舞い戻った。そして十数年、その中手造船所の設計部門の一部を近代化して退職した。

 その近代化の図面は私が形を作り方式を確立したが故においそれと他人が描けない、そこで職の無かった息子に図面作成個人事業を設立させて仕事を受注、当初はかなり稼いだ。

 やがて不況の波が押し寄せて息子は別の方面に奔り今は私が一人でやっぱり図面を描いている。仕事の合間に鏡を見る・・・キッタナラシイ顔になって!と母の嘆きが胸中去来する。

 時たま、あのゴロツキオヤジが夢に出て来る・・・『ターさん、飲みいこで!』ああ、苦しくも充実していた懐かしい昔、あの頃駆け上がった坂を今はヨタヨタ登る。『ターさん、アータよくろて箪笥の抽斗ば開けてションベンしょとしたで!』『ウッソ言うな!』

母上様、輝いていた娘時代の想い出を、その時々の衣装と共に私の食べる裸麦に替えて、女の幸せをひとつまた一つと捨てて養育、保護下さった恩は忘れません。図らずも母上の思い描かれたとは全く異なる人生を歩み、今ここにハゲオヤジとなった自分が居ります。しかし、私は真剣に妻を護り、息子達を支えようとして生きた事を多として親不孝の限りを尽くしたことをお赦しください。

イノマタさん、私に『男』を教えて下さったことを感謝します