夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

何が正しいか?と詮索するのは無意味だと思う

2020年01月13日 11時49分14秒 | 日記
ネットを見ていると今現在我々が持っている聖書の真偽に関わる詮索やイエス・キリストは二人居ただとか、色々な記事があってあたかも市中で手に入る聖書を真面目に読んで信じている事にチャチャを入れるような言辞がある。書いているご本人は【学術的な正確さ】を【金科玉条】としておいでかもしれないが【信仰】と言うモノが分っていない。

そして人類を最終的に救済するのは【学術】でも【学術的な正確さの追求】でも【正確さそのもの】でもない。【信仰】である。古人はこれを【イワシの頭も信仰があれば後光が射す】と言っている。これが信心深い愚か者を馬鹿にした言辞ではないことは最新の物理学、量子論を少し覗いた者らば『そうかもしらん!』と思う筈だ。

【数千年の時を経て未だに聖書なるものが読める】、【イエス・キリスト】の言葉を聞ける、と言う事の持つ意味を洞察しなければならない。【それが人類に必要】であるから時代の荒波を潜り抜けて今、在るのだ。またそれが正確か否かが問題ではない、必要な記事は正確なのだ。いや、厳密に言うと記事が問題なのではない、【そこにそういう書籍があって誰でも読む事が出来る】ように備えられていると言う事の【深遠な意味】を洞察し得るかどうかである。

こうして【賢くて学識があるか否か】と言うモノサシではなく【幼子のように純朴であるか否か】と言うモノサシで人類は選別される。多分・・・創世の神に取って価値ある事は人類にとっては愚かな事かもしれない。


死とは極楽へのワープであるかもしれない。

2020年01月13日 11時34分51秒 | 日記
旧約聖書のダニエル書12:13に言う、
【汝終りに進み行け 汝は安息に入り日の終りに至り起て汝の分を享ん】

黙示録21:3、4にはこう書かれている。
【また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり】

これを見るとどうやら聖書は極楽なるものは【日の終わり】にやってきてそこでは【死や嘆き】がないところらしい。そしてその終わりの時までは【安息】に入っているらしい。有体に言えば【眠っている】

しかし誰もが体験している通り、熟睡していれば【時間】を意識していない、【もう朝か?!】 である。

『はてな? 薄ら思うに俺はどうやら死んだらしいがここは何処か?? エッ!何だって? 極楽だって? ここが?』 となるのではないか?