八月十五夜のこの行事は今年はなかったようだ。
川内川を跨いで国道三号線が走っている。そこに架かる橋を太平橋と言う。昔はもう少し上流側にあった。その橋の下に港があり鹿児島方言で【トトンクッ】と言う。漢字で書くと【渡唐口】である。
朝鮮征伐の時、島津の軍船はここから出港した。下流左岸に【ぐみざき(久見崎)】、右岸に【からはま(唐浜)】がある。久見崎には【想夫恋】と言う踊りがある。今は絶えたかもしれないがみな、この朝鮮出兵に由来している。
昔の太平橋は鉄骨トラス構造の立派なものだった。聞くところではロンドンのテムズ川に架橋する予定を誰かがねじ込んで川内に持って来たとか来なかったとか。終戦直後、よくこの橋を渡って銭湯に行った。橋板がところどころぬけていたが気にも留めなかった。
川の左岸を向田と言った。一面の湿地で満潮時には海水が、干潮時には川の水が辺りに満ちた。我が先祖は代々この辺りに居たようだが何を生業にしていたのかさっぱり分からない。もう少し遠くに日暮丘と言って昔、室町時代に日暮乃長者なる分限者が住んでいたらしい。その奥方【巣山おかめ殿】(絶世の美女)と幼い子供達の悲しい物語が謡曲【鳥追い】で知られている。古来この辺りを巣山と言って代々美女が出る事で有名であった。私が知っている美女は今、埼玉県和光市に、今一人は川崎市高津区に健在である。
その山側に行った地域、現在の薩摩川内駅の山側を平佐と言った。有名な作曲家【武満徹】氏はここの出身、有島生馬、武郎もまたこの地の出身である。
川の右岸一帯を大小路と言う。何とも雅な地名であるが往古、薩摩国府、国分寺等があったからであろう。そこに可愛(エノ)山稜があって天孫ニニギノミコトが祀られている。薩摩国一ノ宮新田八幡宮もここにある。この山は航空写真で見ると亀が川に向かっているような形をしている。古老たちは『こいが出亀じゃっでや、入い(り)亀ならよかいどん』と言い合った・・・要は財が出て行くばかりで入って来ないと言う意味である。
いくらでも出て来るが朝までかかりそうなのでやめる。で、その綱引きだが、曳く前に押す、つまり両岸から走って行って橋の上で衝突、相手を川に投げ落とす。だから高校生以上でなければ危なくって・・・。
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