夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

あの時の職業軍人に対する百姓根性日本人の卑劣な扱い

2015年09月22日 08時03分16秒 | 日記
自分はそう思っている。身内に職業軍人は沢山居た。明治になって廃藩置県、殿さまは居なくなり、かつての郷士も田地田畑はあっても現金収入はない。子供たちに財産を分ければ誰も立ち行かなくなる。従って長男に総てを譲る、次男以下は学問や技能を身に着けて生きるしかない。当時、官費で勉強するには兵学校、士官学校、師範学校などがすぐに思いつく進路としてあった。

祖父は師範学校、祖父の兄弟は士官学校に進んだ。一人は美術学校に行きたかったが父親が学費を出せなかったので士官学校に進んだ。みんな真面目に職務に精励して、祖父は朝鮮に小学教師として派遣される際、朝鮮人の子供たちに朝鮮語を教える為に諺文というものを勉強した、と言っていた。朝鮮の次に台湾に派遣されてそこで終わった。退職後は中国人経営の福大公司と言う会社で事務をやっていた。

祖父の兄は熱河城作戦自動車部隊の指揮官だった。祖父の最年少の弟・・・美術学校に入りたいと言った人・・・は隼戦闘機のパイロットだった。

祖母の兄は陸軍航空技術研究所の何科か忘れたが科長だった。いずれも終戦当時は佐官、将官だったので戦死と言う場面には遭遇しなかったようだが復員後の生活は惨憺たるものだった。昨日まで軍人さん軍人さんと、もてはやした国民が今日は手のひらを返したようになって『公職追放』にしてしまった。

生き残ったのは教師になっていた祖父のみで後は昭和30年代まで生きなかった。戦争当時の無理で体を傷めており、一人は鹿児島方言で”ドモを見て”・・・つまり呆けて、一人は肺がんで、一人は長く戦地にあった為に家族の愛薄く、郷里に戻って幽霊屋敷との曰く付きの家に住んで孤独のまま亡くなった。私はこの大叔父が大好きだった、”いいじゃないか、勇ましい絵を描くじゃないか”と励ましてくれたりした。

少なくともこれらの大叔父たちは職務に忠実に全力を尽くした。にもかかわらず一般大衆は『国を誤ったのはこれら軍人の責任』として昨日まで『勝った勝ったまた勝った』とちょうちん行列したものがそ知らぬ顔をしてこれを嬲り者に扱い

そして言わせてもらおう・・・今またかつての日本を悪の権化の如く言うではないか!卑怯なり。だからシナ・朝鮮に舐められたのだ。
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