夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

ヒッグス粒子と神と人と死

2012年07月18日 08時27分40秒 | 日記
 それは宇宙に充満していてそれが邪魔することによって物質に質量がある・・・かのごとく現象化する、と理解した。
 それが”充満している”との解説から”私はアルパなりオメガなり”の意味するところが閃いた。そして”神はあなたのすぐ傍に居られる”との洞察を欠いた安易な説明の深遠な意味を悟った。こうして、
 空間無限域に宇宙創造に働いた”気”が充満している。その気の中に”私なる観念”が浮遊しており、その気を光源として観念はある姿、状況、歴史を表現、しつつ変化し続ける。それが人間である、変化することによって時間の概念が生まれる、との理解を得た。
 こりゃあ大発見だ、と2、3日喜んでいた。ところが昨夜風呂に入っていてそれを反芻していて”充満”と言うことばに覚えがあるような気がしてきた。思い出すまで風呂から出ない、と決めて懸命に頭をひねった結果、何じゃ創世紀の冒頭にあるじゃないか・・・”地は形なくむなしくして黒闇淵の面にあり神の霊水の面を覆たり・・”
 ヒッグス粒子の発見は物理学上の大発見でそこからどういう事象が今後出てくるのかは判らないが少なくとも私には聖書上の難しい表現”アルパでありオメガである”、”神の霊水の面を覆いたり”が同じ事を言っている、またその判りやすい概念を与えてくれた。同時にまた人間とは何かをうすうす解りかけた。
 こうして考えると”死”と言う状況が例えば水に固体、液相、気相と状態変化があるように観念の表現様式の変化であろう、と思うし、もう少し突っ込んで言うとその観念はどうやらどこで区切りを付けるか知っているようだ。その一例を書いておこう。
 ある人が都会で暮らしていた。親たちは高齢で草深い田舎に住んでいた。その人が最近何を思ったかふと里帰りした。特別用事はなかった。そして都会に戻って十日余り後、午後の交差点で交通事故に逢い急逝した。・・・別れを告げに戻って来たんだろう、と親たちは言った。

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