夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

日本病:学校秀才の幻想

2013年01月05日 09時35分18秒 | 日記
 高校生の学力テストをすると日本はかなり上位になりアメリカはさほどでもないらしい。ところが何か新しいアイデアやモノのデベロップになるとアメリカの学生がダントツ一位であるらしい。
 私が最初、また最後に勤めた会社の幹部は旧帝国大学出身の秀才揃いだった。非常に優秀、我々フツーの頭では気も着かぬような”文章のアナ”を探り出して”法の網を潜り抜ける”類の素晴らしい冴えを示した。問題解決力優秀、弁舌さわやか、英語ペラペラ、・・・平和時に置ける磐石の幹部であった。
 でも会社を潰してしまった。実戦場を駆け巡って身に着く”動物的カン”と”嗅覚”がなかったのだと思う。日清、日露戦争までは軍人達にこの要素があったのではないか?秀才ばかりを集めエリート教育、ノーブレス・オブリージュ養成みたいなことを始めて”野生”が失われたのではないか?
 それが無謀なインパール作戦を机上計画したり、”これは危ないがあいつがせっかく言うのだからカオを立ててやろう”などの論理になったのではないか?このような同じ心理象限の中に、競争力を失った、失いつつある(といわれている)日本の会社組織があるのではないか?
 純血種は弱い。甚だ不謹慎だがこれを危惧した昭和30年代の宮内庁長官が高貴の血を避けて活力旺盛な一般庶民の血を入れようと図った、と当時聞いた。組織もそうであると思う。採用にあたって面接担当者は履歴書なしで”オーラ”を見て判断すべきではないか?
 平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、これらの大政治家は”トーキョーダイガク”を出ていたのだろうか?”キューシューダイガク”を”ナダコーコー”を出ていたのだろうか?要るのは学歴ではない、人間歴、人間力ではないか?
 昔の子供は”ヤマ学校”などと称して朝、登校すると家を出るものの、学校に行かずに山に行って遊んでいた、と言う例は多かった。私みたいな”お人形さん秀才”よりも生活力があった。”学校”、”学校の成績”をあらゆることの指標にする”ビョーキ”、”日本病”から抜け出して初めて日本の”日はまた昇る”。
 しかしこのように言うとすぐさま”ユトリ”などと言う”ズンダレ、フシダラ、怠け心迎合”みたいな発想が起こる。或いは、”ユーシューな奴はユーシューなダイガクを出た者の中に居るのだ”などと言う尤もらしい事を言う人々が必ず居る。そのような枝葉の話をしているのではない。”落ちこぼれ”と言われながらも密かに爪を研いでいる者が居る、失礼ながら”ジャマナカ先生”のような人々の中に見過ごす事の出来ない素質を持つ人々が居る・・・そういう人材は学歴や職歴などのフィルターからは漏れてしまうと言うことである。
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