夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

創造の神は宗教に関心はないと思う

2012年07月13日 18時07分56秒 | 日記
 仏教は宗教だと言う。誰もそれに反論しないだろう。その起こりは釈尊が生老病死、四苦八苦、煩悩などなどは何故あるか、何故起こるか、どうしたら克服できるか、などと苦心惨憺、瞑想、難行苦行、断食などして”わかった!!人間とは !!”と悟りを開いたのがその始まりである。それを弟子と自認する人々が見たり聞いたりして書き物などにした。そこに後世様々の又弟子だの孫弟子だの何代目弟子だのが付け足して今日の壮大な体系が出来ているのだろう。
 しかしこれを瞑想の鍋で煮詰めると要するに”拙者、わらわ、は苦しいのじゃ、何とか逃れたい”が本音の一番底にあるだろう。そしてその答えが”悟り”とか”覚醒”とか言うのであろう。拙者やわらわが住んでいる世界のご主人様のことは考えないのか?
 キリスト教はどうかな?よく精神的にとか肉体的にとか、とても苦しい、不幸な思いをした人が往々にして教会に行くようになりキリスト者とか言う立場になる。(語弊ある分には平にご容赦、率直感想を言っているだけだ)読み物などたまに垣間見ると”イェスさま助けて”とか”神様のおかげで・・・・・幸せ”だとかの記事が見える。”信仰によって義とされる”と言うところから”イエス・キリストとして顕現した全能の神”に任せて一生を送る、なんて話だろう。
 イスラム教は知らないからなんとも言えない。
要するに、人が仏教なりキリスト教なりに走り寄るその動機はその人個人の救いとか何とか言う、つまり自分の都合を満たしたい、が動機じゃないか?
 ところが神道の神主さんに”実は悩みがあるんです・・・”などと近寄って行く人は居ない。つまり神道はそのような個人的な都合とか心の葛藤とか覚醒とか悟りとかと無関係と思われているし実際そういうものを考慮していない。
 では何をやっているか?と言えば、要するに”神祭り”や”お礼言上・・・規模が大きくなったのが神楽”などである。そこには実際に”神が居られる、ここに降りて戴いて祝詞を聞いて戴く”と言う概念がある。だから神道の場合、人間の四苦も八苦も煩悩も覚醒も悟りも解脱も愛も慈善も、その他諸々凡そ人間側の都合は一切無い。その概念は旧約聖書によく似ている。そこでも人々は神祭りや節季毎に色々な崇拝の行事を行っていた。
 よくは判らないが”神居ます”で延々千年以上も同じことを続けて来た。それを黙示録はその3章で言う・・・”汝少しの力ありて我が言葉を守り我が名を否まざりき・・・”
随って私は考えるが、神道こそは失われた真の崇拝の様式を保ち続けて今日に至っているものである。
 ところでじゃあ神社に行って”家内安全商売繁盛”と言っているあれは何か?と問う人が居るだろう。人間の五感に映じないウゾームゾーの存在が居るのですよ。だから神社で祈るときはよく気をつけなければいけない。
 キリスト教も仏教も聖書の神は一切”知らない”と仰ると思う。
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