魂の由来・人間の魂の由来・・・
そして、植物・動物の関係・・・
進化した魂は肉食を好まない?!
面白い! しかし、納得・・!
不断に進化する魂・・・人間にも多段階がある・・・?!
さて、今回は本は本として、人間の素晴らしい一面を動画で見て頂こう・・・。
Good people / Мир не без добрых людей...
There is still good people in the world!
思いを共感出来なきゃァ、人間ではない。と言うことは、ある面真理である。そういう人々が、巷にはあふれている。決して、報いを求めない、已むに已まれる行動が人間にはある。
やっぱり、人間は素晴らしい! では、「魂の法則」その⑤をどうぞ!
題名: 「魂の法則」
スペイン語原題: “LAS LEYES ESPIRITUALES”
著者: Vicent Guillem Primo ヴィセント ギリェム・プリモ
邦訳: 小坂 真理
知的財産権登録番号 V-2095-08 (Valencia, España)
Copyright © 2008 Vicent Guillem Primo
Japanese Translation Copyright © 2013 Mari Kosaka
ホームページ: http://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/
日本語サイト:http://tamashiinohousoku.blogspot.com.es
メールアドレス:tamashiinohousoku@gmail.com
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.es_ES
「魂の法則」 by Vicent Guillem is licensed under aCreative Commons Reconocimiento-NoComercial-SinObraDerivada 3.0 Unported License. Creado a partir de la obra enhttp://lasleyesespirituales.blogspot.com.es/.
本書に修正を加えず営利目的にしない条件で、現在利用可能な全ての媒体によって、本書全体またはその一部の複製を許可するものとする。
【本文転載開始】
進化の構図
*輪廻転生の話題に戻りますが、僕たちが他の世を経験したことがあって、物理的生への誕生が始まりでないとするのなら、魂の始まりは、もしそれがあるとすれば、何なのでしょうか。
魂がいつ創造されるのかは分からない。実際のところ、「生命の火花」となる「魂の素」が創られるのだ。
原初「生命の火花」は、その後何百万年にもわたって、自己の進化レベルに見合う物質形態に結びつく経験を通して改善してゆくプロセスを体験する。
*「自己の進化レベルに見合う物質形態に結びつく」というのが何を意味するのか分かりません。もう少し教えていただけますか。
転生のことを指しているのだ。「原始魂の素」が充分に進化して、それよりずっと高度なものになると、それを魂と呼んでいる。
魂は、体という物質形態に結びついて、その経験から学んでゆく。原初の段階では、「原始魂の素」は、より単純な物質形態に結びつく。
最初の形態は鉱物(第一段階)であり、次に植物(第二段階)、それから動物(第三段階)に、そして更に進むと人間の段階の魂(第四段階)となるのだが、それぞれの物理的な経験において学習するのだ。
学んだことは永久に魂に蓄えられるので、新しく転生する際には、おびただしい前世の経験を総合して得られた知識を携える。
*前世では僕たちが動物だったこともあり、もっと遡れば石に生まれたこともあるのですか。
初期の段階では各存在の個別性というものが人間の段階ほどには明確でないので、そう言い切ってしまうのは正確ではないが、大体そういうことになる。個別性というのは、序々に獲得されるものなのだ。
*どういう意味ですか。
つまり、その段階では、「生命の火花」が独立した魂だとも、石が鉱物界で独自性を持つとも考えられないので、君の魂が石に転生していたというのは正確ではない、ということだ。石を二つか三つのかけらに割ってしまったとしたら、「生命の火花」はどうなってしまうだろうか? 分割されてしまうだろうか? そんなことはない。
しかし、犬の個別性の度合いは遥かに進んだものなので、「魂の原型」が犬に転生している、と言うことはできる。
*なぜ、「魂の原型」と呼ぶのですか。
ここでは、人間の段階にいる魂と区別するためにそう呼んだのだ。これは人間の魂以前の段階で、独自性はかなり高いもののまだ自由意志を持たない、高度な哺乳類に宿る魂に相当する。
*そのような連続的な転生プログラムのようなもので、何を成し遂げようとするのですか。
魂の存在が、知識においても感情においても進歩し、叡智と愛において成長することだ。
*どこまで? つまり、僕たちが到達できる限界の上限はありますか。
段階的な進化を通して到達できる限界の上限は、神の能力だ。だが神の能力は無限なので、限界はない、という結論に行き着こう。それは、絶え間ない永遠の進化のプロセスだ。
でももし君が物理的な転生の過程に言及しているのだったら、魂が進化してゆくに従って段々と転生と転生の間が空くようになり、転生しない期間が増えていく。そしてついに魂は、進化のために物質界で転生を繰り返す必要のない段階に達して、より精妙な存在次元で進化を続けるようになる。
そうなると、まだその上に二段階あるのだが、第五段階に入ることになる。だが、地球の人類がこの段階に達するにはまだかなりの時間がかかるので、今そのことについて話をする意味はない。
*繰り返すことになるかもしれませんが、前より更に詳しく答えていただけるかもしれないので、同じ質問をします。魂に始まりがあるのなら、終わりもあるのですか。つまり、魂は死ぬことがあるのでしょうか。
魂が死ぬなどあり得ない。魂が進化しようと大変な努力を払って、自己の一番高い進化段階に達した後で無に帰すのだとしたら、矛盾するだろう。
一つはっきりさせておこう。魂は不死だ。進化するために宿ったそれぞれの体が死ぬだけだ。
*でも、もし魂が高度に進化して神に近づいたとしたら、神と融合することがあるのではありませんか。
魂は進化すると神に近づくが、個性を失うことは死ぬに等しいことなので、神と融合して個別性を失うということはない。むしろ、その魂の意志が益々創造主の意志に近づき、自発的に神聖なる計画の一部となるのだ。
*魂の進化の工程を総括的に理解できるような、全般的な見解や例を示していただけますか。
いいだろう。魂の個々の進化は、人生における人間の進歩と似ている。生まれたばかりの赤ちゃんは自分では、生物的にプログラムされた方法で、有機的生命の維持に欠かせない機能を発達させるに過ぎない。自己決定の能力はなく、生き延びるためには両親に完全に依存している。
子どもは成長するにつれ、序々に自立してゆき、次第に両親に依存しなくなってゆく。そして思春期になると、各人は益々、自分自身で探求することの必要性や、決断を下すに当たって自由で自立できていることの必要性に気づくようになる。そこで、多くの場合、両親と対立することとなる。
両親が、年の功から助言しようとしても、若者には人生への干渉に思え、多くの場合、忠告にも関わらず、間違った決定を下してしまう。しかし、苦しむことになったとしても自分自身で体験することが必要なのだ。
経験を積み、自分自身の決断がもらたした結果から学ぶにつれて成熟してゆき、両親から完全に独立できる大人の段階に達するのだ。
霊的進化の過程は、子どもが大人になるのと似ている。
最初、「原始魂の素」は、より進歩した他の魂の存在に完全に依存しており、進化も彼らに誘導されている。この段階での転生は、魂が経験を積んで、知力や感情などの特定の能力を開発させるために役立ち、将来、自己の意志を発達させる土台となる。
それは、小さな子どもにとって、まだ自分では重要な決断ができないにしろ、成長して話したり歩いたりするのを学ぶために、周辺の世界との相互交流が必要なのと同じだ。
魂の存在が進化するにつれて、自分で決断を下せるようになり、ある程度の自立性が獲得される。そして魂が充分に成熟すると、自己の運命を決める能力たる、自由意志を獲得する。要は、独立を確立し、自己の進化に関する決定を、自分で下せるようになるのだ。
この時点では保護者役の魂たちは、ある種の行動がもたらす危険性に関して忠告したり警告したりする両親と、同様の役目を果たす。だが彼らは強制はせず、各魂が自分の道を選び、何回でも失敗しながら体験から学んでいくことを容認するし、体験を通して自己の進化の方向を修正するか否かを決めるのも魂自身であることを許容している。
*これで幾つかの疑問が晴れましたが、初期の「生命の火花」の段階や、鉱物・植物・動物界での転生が、まだ理解できません。これらの時期に、学ばなくてはならないこととは何でしょう。「原始魂の素」・「生命の火花」・「魂の原型」などとあなたが呼んでいるものは、自分のしていることを自覚していないように思えるのですか。
進化の初期的な段階に転生する魂の存在が、生まれたての赤ん坊のように自分自身の存在すら自覚できなくとも、学習が妨げられることはない。学んだ事は魂に永久に記憶されるので、魂がもっと進化を遂げるまでは無自覚ではあるものの、新しい転生を始める時には、それまでの前世と転生間の期間との総体から得られた全ての知識を携えるので、ゼロからのスタートとはならないのだ。
初期段階での霊的な進化は、種の進化の過程を見れば理解できよう。君たち自身が、生命の起源というものを何十億年前に位置づけており、初めに地球に単細胞生物が誕生して、それが次第に複雑化していって、植物界と動物界という最初の区分ができたとしている。そして次に、植物界も動物界も、生命形態は単純なものから多様化・複雑化して次第に数を増やしながら進化した。例えば、動物界は、初期の単細胞から多細胞へと変化した。時間が経つと脊椎動物が現れ、その中に魚類がいた。魚類から両生類が、両生類からは爬虫類が進化し、爬虫類からは鳥類が、鳥類からは哺乳類が、何百万年という時間をかけて進化した。
その後、最も進化した哺乳類から原人が誕生し、そこから原始人が次々と生まれ出て、ホモ・ハビルスからネアンデルタール人・クロマニョン人の段階を経て、そのつど頭蓋骨の容量を増やしながら、現在のホモ・サピエンスに至ったのだ。
実は、こうした物理次元での進化の過程は、全て霊界側から誘導されたもので、進化する魂が、向上しつつある能力を発展させるためにふさわしい物理的な受け皿を見い出せるようにするためである。魂の成長のためには、最も単純なものから最も進化したものまで、物質界の全ての形態を体験する必要があるからだ。
より適切な物的な乗り物を魂に供給する必要がある時に、更に進化した種を物質界に顕現させるのは、進化した霊的な存在たちなのだ。それにより初期の魂は、学習を継続することが可能となる。新しい種は、既存のものを改変することで生まれ、魂が次の種へと移行する過程が、急激ではなく緩やかになるように計らわれる。
*それでは進化するためには、魂は全ての種に転生しないといけないのですか。
同レベルの種が沢山あるので、全ての種に転生する必要はない。だが、全てのレベルを通過する必要はある。
*魂が進化してゆくにつれて、下等な種に転生する必要のある「魂の原型」が少なくなることはないですか。その場合、そのような種はどうなるのですか。
魂を創造する工程は決して止むことがないので、常に様々な進化段階のものが存在し、物質界に転生して学ばなくてはならない。
だが、魂を創る活動に、生産の頻度が多くなったり少なくなる周期や時期があるのは確かだ。そのため、出生率が多くの国で、人口爆発の時期と出生が下がる時期とを交互に繰り返しているのと同じように、時々、多量の魂やその原型が一時期に集中して、それ以前または以後では数が少ない、ということがある。
しかし全ては、宇宙の進化計画で予定されていることで、高次の霊的な存在たちが必要性を完璧に理解した上でそれを司っていることに疑いはない。同時期に同じ進化の飛躍を遂げる存在が大勢いれば、ある時期に用のない特定種が恐竜のように大規模に絶滅したり、更に進化した新種が出現して増殖したりする要因になるかもしれない。
*あなたのお話では、動物の魂も人間に生まれ変われるのですよね。
すでに言った通り、魂は進化するに従って、更に進化した物質的な体に転生する必要があるのだが、自分の能力からかけ離れたものでは、その状況が手に負えなくなるので駄目なのだ。
パイロット養成所の生徒も、いきなり旅客機を操縦して訓練したりせずに、最初は飛行シュミレーターを使って学習を始め、次に軽飛行機を運転し、準備ができた時に初めて大型の機体を操縦し始めるだろう。
まだ完全な自由意志はないが、知的面でも感情面でもかなりの能力を備えた猿人に転生できた「魂の原型」は、次は原人に転生でき、学習するにつれて、自己の進化の必要性に見合った頭脳を持つ種に転生していく。こうして、動物の魂はヒト科の魂になるまで進化していって、いつかは人間として生まれ変わる。
でもこれは、一回の転生で急激に起こることではなく、中間層の種に何回も生まれ変わってからなのだ。小学一年生の子どもが全教科に受かったとしても、翌年に高校三年生にはなれずに小学二年に進み、後続の各学年を終了した後に、始めて高校三年の勉強ができる時が来るのと同じだ。
*それではその反対に、人間の魂は動物に生まれ変わりますか。
前に説明したように、それは進化を後戻りさせることになるので、人間から動物への転生は不可能だ。魂の進化が停滞してしまうことはあるが、すでに乗り越えた進化段階に逆行したり後退したりすることはない。
これは、試験に通らなかった生徒でも下の学年に落とされることがなく、翌年に同じ学年を繰り返させられるのと同じだ。
*でも、誰もがかつては動物だったことがあって、動物が将来僕たちのようになるのだとしたら、特に進化の程度が近い高等哺乳類への僕らの行いを問題視してしまいます。例えば、食用や皮革のために飼育することや、狩猟や闘牛のように動物の苦しみの上に成り立つ見世物などは、霊的にそれほど人間に近いのであれば、人を虐待するのと変わらないことになってしまいます!
その通りなのだ。彼らは君たちの弟分なので、より大きな配慮や尊重に値するのだ。しかし大半の人は、人間の生命や権利すらも尊重していないので、取るに足りないと見下しているものを尊重するように期待するのは、更に難しいことなのだ。
それでも、昔の時代と比べたら、君たちは進歩している。洞窟に住んでいた人々は人肉を食べることに全く抵抗がなかったが、カニバリズムは現在では、いとうべき非人間的な行為と考えられている。それはなぜだろうか? そのような原始的な時代と比べて、他の人間に対する感受性が増したからなのだ。
動物に対しても同じことだ。大多数の者が動物の苦痛に敏感になって、彼らが進化上では肉体的にも霊的にも類似する兄弟のような存在なのだと気づけば、動物を奴隷化したり虐待したり、殺して肉を食べたり皮で服を作ることなどを止めるだろう。
実際、多くの者がペットを食べる行為は常軌を逸すると考えている。また君たちの世界にも、動物の権利を守るために戦ったり、彼らとの絆を自覚できるほどに成長して食肉を放棄した多くの人がいるだろう。
人類が霊的に進歩してゆくにつれ菜食主義になり、動物の権利が尊重されるようになる。君たちより霊的に一段上の進化したヒトの文明においては、動物の肉を食べることは、君たちが人肉を食べるのをいとうように、忌み嫌われている。もちろん、君たちの世界のように、動物を檻に閉じ込めたり、虐待したり殺したりもしない。
*でも、健康でいるためには肉も含めて何でも食べなければならないし、肉を食べないと何らかの基本的栄養素が欠けて病気になる、といつも聞いてきましたよ。これは一理ありませんか。
長らく肉を食べ続けてきた人が菜食主義に変わろうと決意する時には、生理的に慣れなければならないので、少しずつ段階を踏んでそうすることが確かに推奨される。
だが、菜食主義者に何かの栄養が不足するということはない。豆類は、肉からは採れない豊富なたんぱく質の源なのだ。菜食は基本的栄養素が欠けるどころか、全くその反対で、より健康的なのだ。
菜食主義者なら、肉体器官の中で肉が腐ることから生じる多くの病気を予防できるし、進化上自分に似た存在を食べることでアストラル体の波動が狂い低下してしまうのを避けられる。
卵・菜食の食生活は、君たちの生物学上、完全に健康的であるし、体組織が必要とする全てを供給できる。
*魂が特定の種での転生を止めて、更に進化した種に生まれ変わるのは、何によるのですか。
魂がその期間に遂げた進歩による。進化上同等レベルの種に転生しながら充分学び取らない限り、直ぐ上の段階の種に移行できないのだ。一番進歩が速いものが、現在よりも一段上の種に最初に転生できるのだ。
*それは人間でも同じなのですか。つまり僕たちが、肉体的に人間の種の能力 を超えて進化したらどうなるのですか。
君たちはまだ身体器官の潜在能力をその四分の一も使っていないので、身体が増大する能力を支え切れないほど古くなったというには早過ぎるだろう。だが君たちの惑星の人間種は、その霊的進歩と並行して、ゆっくりだが揺るぎなく肉体的にも進化していっている。だから、自分の進化レベルに身体がついていかないことを心配する必要はない。
前にも言ったが、人間という段階は、魂の進化の終着どころではないのだ。現在の地球人のレベルでさえ、魂的にも肉体的にも、進歩したレベルとは言い難い。
かつて君たちの二段階下にホモ・ハビルスがいて、一段下にはネアンデルタール人がいたように、君たちの上にも霊的にもっと大きな愛と叡智の能力を持った四つのヒト科レベル(4.4から4.7)が存在しているのだ。これらの存在こそ、更に進化したもっと精妙な身体が必要で、潜在力が発揮できるように君たちの身体よりも機能が高いものとなる。
*でも、そういうスーパー人間は、どこにも見当たらないのですが、どこにいるのですか。
他の惑星には、あらゆる進化段階を網羅した全ての人類が住んでいるので、君たちよりも高次の存在もいるのだ。それらより進化したヒトの中には少数だが、君たちの進化レベルを高める手助けをしようと君たちに混じって住んだり、今も一緒に暮らしている者もいる。でも、この話はもっと後でしよう。
*僕たちの肉体的な進化はどこに向かっているのですか。つまり、僕らの肉体はどう変わるのでしょう。
それは、アルファ草で作った服から絹の服へと、コールテン・羊毛・綿という中間段階を経て衣服を変えていくようなものだ。身体はより精妙により軽やかになるので、刺激の少ない食事を必要とするようになる。また、エネルギー的になり物質的でなくなる。
頭脳の許容量は増し、もっと広い範囲の知力を発達させることができる以外に、テレパシー・透視能力・念動術などの超能力を発揮させることができる。これらの能力は今はまだ君たちの中では眠ったままで、大多数の人にはその存在すらも知られずに否定されている。実際、このような能力を開発できた少数の者は、それが生まれつきのものか本人の意志と努力によるものなのかに関わらず、他の人からは気違い扱いされている。
以上をまとめると、進化すると、きつい肉体労働には適さない、感情や思考に対してより敏感な身体となるのだ。【本文転載その⑤終了→その⑥に続く】
魂の法則、タメになる内容ですね。御紹介有難うございます、pdf読みました。ただ、過去の記憶を引き継げない理由が釈然としませんでした。私はヘソ曲がりなので霊界も現世同様、搾取世界の一部と考えています。ブッダは、それを知っていたから解脱したのだと思います。死に対する恐怖の感情を最大限、効率良く引き出す為に記憶を消すのでしょう。ネイティブ・アメリカンのロバートモーニングスカイさんは、人間が死ぬと、みな光のトンネルに導かれて行くが、そのままついていくのではなく、向きを変えて、広い宇宙のかなたに目を向けなさいと。そこには真の光の世界があります、と言っていますが同感です。搾取の無限ループにはまらないようにしたいと考えています。
社会的な貢献や善行も素晴らしいことですが、
わたしはこういうのが好きです。
社会も人も車もひたすら急いでいる日本では
望むべくもないことでしょうか。
余談ですが、
乳母車が勝手に動き出す場面がありましたが、
わたしもそういう経験があります。
その車は間一髪乳母車をすり抜けて行ったのですが、
運転手さんの驚愕の表情がまぶたに焼き付いています。
本当にありがとうございます。
それから、わかさんへ
私も、わかさんの仰るように、輪廻転生を止めるためには迎えが来なくても一人で広い宇宙へ旅たたないといけないのかな、と考えることがあります。それをしないと幽界にはまることになりそうだなぁ・・・と。 地球を覆うアストラル体を突破しないといけないのでしょうね。
私も、「仏陀の解脱の意味」が頭から離れません。
私は、もう、魂ごと消えてしまいたい、と思っています。
物理体としての魂として、転生するのも、もう御免です。
風に成るくらいなら良いですけど。
永遠性に魅力も感じないし、「成長のため」とでも思っていいなければ、
この生も、やってはいけません。そんな自分の死後の選択は
光のトンネルより、自分の直感を信じたほうがよいのでしょうか。
この本を拝見しながら、色々と模索させて頂きます。
人間に生まれるのは、自分の思い通りにならないという不自由さを通して悩みつつ、哀楽を体験しながら、自分の内在神に気付いて〔永遠性と創造性〕本来の自分に戻るためだと思います。内在神を思い出して感謝できれば、悟りに近づけるのではないかと感じますが、どうしてそういう仕組みになっているのかは、謎です。
つまり、宇宙=自分自身なんだと思うのですが、それが秘密にされてきた理由に闇の勢力の存在が絡んでいるのだと思うのです。
レスありがとうございます。仰るように折角、この世に生まれた訳ですから矛盾さえも楽しまなきゃ損ですよね。現世は驚くほど精巧に造られた嘘の世界だと思っています。そして、その事に気付けただけでも産まれてきて良かった。
ある段階に達すると自然に肉食をしなくなる、と言う話がありましたね。私達は肉食する際、感謝はしますが原料である動物に同情したり憐憫の情を抱く事は皆無ですよね、普通は。ところが牛が言葉を持ち『我々を殺して食べる行為を止めて欲しい』と言うようになれば肉食を止めざるを得ない状況になります。つまり、牛が言葉を持つという比喩を人間に当てはめると霊的に目覚める、という事に該当します。支配者は目覚めて欲しくありません、、何故ならこの3次元で人間が発する濃密な負のエネルギーを搾取できなくなるからです。霊的覚醒者は上位者が下位の存在から搾取している構造を『知る』ので肉食を止めるのだと思います。自分がされて嫌な事は他にしない、という基本的な行動原理です。支配者は霊的覚醒を阻害する為、霊界にも網を張り、人間の持つ我欲を具現化する次元を創造しました。本当に驚嘆するほど精巧な嘘の世界です。言いかえれば、そこは現世への再生産の為の準備空間です。霊的な成長が見込める次元に行き着く前に罠にはまり3次元へ再生産され輪廻転生、いや搾取の無限ループに陥ります。正面突破で我欲を極限まで捨て高次の霊界へ行く事に挑戦した人達が即身仏になられた方々だと勝手に理解しています。私は俗人ですので輪廻の枠から飛び出すには皆が導かれる入り口を回避し希望の星を目指す事だと思っています。リスクはあるでしょうが、この素晴らしき嘘の世界は、もう充分です。長々と申し訳ありません、自分勝手な妄想ですので笑い飛ばして忘れて下さい。
これは仏教の世界観の根幹と深く関わっておりますので、この訂正はもはや仏教では歴史の重みから見て不可能であろうと思われます。
・・
間違っていても訂正できない理由は、歴史と時間の重みです。
仏教ではこの世を六道世界の一つ、すなわち迷いの一世界とみなしておりますので、この世に生まれること自体が悟っていない証拠であり、苦界に転生すること自体が
迷いの姿なわけですから、この世を否定して,六道輪廻を抜け、極楽浄土に入らなければならない。
・・
またこれが仏教の全体の目的となっており、そのために各経典が編纂されてきたわけですから、
この世を忌避して厭世観となるのは、その世界観から見て必然的なことであろうと思われます。
・・
この世に生きること自体が苦であり、この世は肯定すべきものではなく、むしろ否定して修行し、
早急に極楽浄土の仏陀の世界に入らなければならないと説いているのが仏教ですから、
この世否定は必然となます。
・・
唯一、法華経のみがこの世に仏国土(極楽浄土)を建設しようとしておりますが、神理上は不十分です。
・・
「無明縁起説」を見ましても、これは六道世界の世界観と深く関わっており、
この世はもともとが迷いの一世界なわけですから、造物主のような存在が宇宙を創造したのではない。
・・
無明、すなわち無知と迷いが縁起して宇宙は創造されたとする解釈以外は成り立たないのです。
迷いの世界であり、苦界に過ぎないこの世を肯定する根拠は、仏教の世界観からいってないわけです。
・・
また釈迦自身も四諦で見ましたように人生の本質を苦と見ていた。
これが「厭世観」の原因です。
・・
キリスト教の「造物主」の概念と対立する概念がこの迷いの宇宙創造説である「無明縁起説」です。、
「無明縁起説」は間違いで、光明が縁起して宇宙は創造されたとする「光明縁起説」が正解であるというのも、
現代では説けますけれども、仏教とその歴史の中では、もはや訂正はできないであろうということです。
・・
すなわち「厭世観」の訂正はできないということです。
これが既存宗教がその役割を既に終えている理由の一つであり、
新たな法を説いていかなければならない大きな理由と言えます。
既存宗教の法では地球を救えないのです。
仏教でも、キリスト教でも既存の宗教が終わっているというのは確かです。宗教は、支配者が利用したものですしね。
でも、その巧妙なる罠を一体どうやって打開するかという方法に関しては、心を浄化させよと言われても、99.999%の凡人には我欲を完全に捨て去り、高次の次元に正面から到達することはわかさんが言われるように困難ですよ。実際、人間に生まれてしまった段階で、無理なんだと思います。
それが可能ならもっとずっと多くの人間がとっくにこの世界を卒業できている筈なのに、みんないつまでもぐるぐると廻っているのですから。
で、最近思うのですが、打開方法の一つは「正しく祈る」ことなのではないか、と。祈りの方法は、グレッグ・ブレイデンの『聖なるマトリックス』に詳細がのっているのですが、簡単に言うと、死んでから悟ろうとするのではなく、生きているうちに気づくことが大切で、その気づきの内容とは、実は聖人のような心を持つことではなく、自分が創造主であるということを自覚し、生きているうちに「正しく祈る」ことで相手が仕掛けているホログラフを打破できるのではないかと。。 つまり、みんなが気づいて、新しい世界を想像〔創造〕すれば、今の構図も自然に変わるのではないかと。。。
仏教にとって「神」とは何なのでしょうか。仏教は神への信仰を説いたのでしょうか。
多くの方は、仏教は「唯物論ではない」と主張され、永遠に存続する魂や神々の存在を仏教は説いたと主張されます。
・・
わたしは、仏教の「無我」の思想はそういう「永遠に存続する魂」を否定するものであり、
仏教は人間の認識のとどかない形而上学的領域(神々の世界や、死後の世界など)に関する断定を知識として認めず、有神論を批判したと主張します。
・・
「無我」とは、サンスクリット語の「アンアートマン」の漢訳です。
「アンアートマン(anatman)」は「アートマン(atman)」(個我、魂)の否定語です。
「アートマン」とは、インドの正統的宗教であるバラモン教(後のヒンズー教)の教義にでてくる、きわめて重要な概念で、人間の個体に内在していると信じられている、肉体の崩壊後も生き残る人間の不変の本質のようなものです。
バラモン教では、このアートマンが輪廻転生すると信じられています。
・・
したがって、アートマンは、インドの伝統的宗教にとって、きわめて重要なものですが、
ブッダはこれを真っ向から否定して、アンアートマン(無我)を主張しました。
人間が死んだのちにも生き残って輪廻転生すると信じられているアートマンなどないと主張したのです。
・・
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
・・
これが、ブッダの思想のもっとも基本的な教えの一つである「無我」の思想です。
「無我」の思想は、単に、自己中心主義を否定しているのではありません。
ブッダはバラモン教の教えである魂の輪廻説を否定したのです。
・・
後代の仏教はやがてバラモン教(ヒンズー教)の教えを再び導入してしまいますが、
魂の輪廻説を否定したブッダの「無我」の思想は、いくつかの禅の伝統にはまだ生き残っているように思えます。
宗教が終わってる、ってのはそうですね。真理であれば普遍的価値観として共有されるはずが、救う救う詐欺で誰も救われずに混迷を深めているのが宗教の現状でしょう。それに救ってしまっては宗教としての終焉を意味しますので、救うことは絶対しないでしょう。そもそも指導者が迷える子羊ですから救う力も無いわけで二重三重に無理ですね。なので、仰る通り支配者の思うツボで、信じる者は救われないでしょうね。
創造主として祈る、というのは良いですね。『聖なるマトリックス』、ぜひ読ませて頂きます。
皆が気付いて新しい世界を創造できれば、それに越した事はありませんが、現在のタイムラインにその選択肢が無い様に感じます。去年、集合意識が、その選択をしませんでした。
劇的な状況の変化、改善は期待出来そうにありません。今生の3次元生を楽しく責任を持って生き抜き、死後に備えましょう。お付き合い頂きありがとうございました。