草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」中8

2020-02-26 12:45:44 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中8
大久保屋の大奥様⑧
娘心と男心3
                                       
 おなつの言った胡散臭い親父こそが『木枯らしの宇平』だった。宇平は甘酒の中にたっぷりと砂糖と酒を入れ、裏口の戸締りを任されているお仲とおなつを待ち構えていたのだ。  

 宇平は引き込み役のお紺がその用を果たせないことに業を煮やし、二人を酒で眠らせて裏口から押し込もうとしたのだった。ところが調子に乗って甘酒を飲みすぎたおなつに比べ、お仲のほうはさすがに一杯で止めておいた。その上おかしな具合になってきたと思い、念には念を入れて裏口の戸締りをした。あわてたお紺が縁側の雨戸をこじ開けよとしたのが失敗の元だった。一味は庭に潜んで雨戸が開くのをしばらくまっていた。その間にとり方に囲まれてしまったのだった。

「………そろそろ引き上げるとするか」
 意外なことの成り行きになんと言っていいのか分からず、親分は大久保屋を後にした。
―あの弥助みたいな野郎、なんか勘違いしちまったな。いずれ誤解も解けるだろうが、しばらくは立ち直れないだろうな。男に臭いは禁句だぜ。男っていう奴は洟垂れ小僧から還暦すぎた爺さんまで、臭いって言われると傷つくからなぁ」
 
 寝不足の親分は頭をボリボリと掻きながら、しばらく風呂に入っていなかったのを思い出した。
―寝る前にひと風呂浴びないと、かみさんに嫌な顔されるな。
 頭を掻いた指を鼻に近づけて思わずクンクンとやってしまった親分は、誰かに見られてはいなかったかとあたりを見回した。

    騒動を聞きつけて集まった野次馬たちの間を通り抜け、親分の姿が通りの向こうに消えて行った。あれだけいた野次馬たちの姿もしだいに少なくなり、飯の炊けるいい匂いがしてきた。豆腐屋や納豆売りの声に混ざって、蜆売りの声も聞こえてきた。

   大久保屋の勝手口を威勢よく開けて、お仲がザルを手に持って飛び出してきた。蜆売りの声に向かって走って行くお仲の下駄の音が、朝の空に響き渡った。

「器量よしだなんて初めて言われたもので、嬉しくなってしまい調子に乗って甘酒を飲みすぎてしまった」
 おなつは蜆の味噌汁を旨そうに飲むと、恥ずかしそうに呟いた。
「今にお前のことを心底可愛いって思ってくれる人が、きっと現れるよ」
 大奥様はおなつに優しく声を掛けた。その場に居合わせた者たちはおなつのそんな日のことを思って、ほんわりとした優しい気持ちになっていた。

   ところがそんな中で一人だけ優しい気持ちにもなれずに、落ち込んでしまった男がいた。太助はおなつの言った「太助さん、臭い、親父、気持ち悪い」の言葉に深く傷ついていたのだ。

草むしり作「わらじ猫」中9

2020-02-25 16:16:48 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中9
大久保屋の大奥様⑨
もののけ

 『木枯らしの宇平一味御用。その影に猫の恩返し』の見出しのついた早刷りの瓦版が出たのはその日の夕刻だった。瓦版には、頭の宇平と引き込み役のお紺の似顔絵が載り、押し込みの手口から過去に押し入ったお店の名前まで挙げられていた。いずれも大店ばかりで、中にはその後つぶれてしまったお店も少なからずあった。
 
 なかでも、お紺のマムシを使った所業は人々の度肝を抜いた。お紺の放ったマムシを退治し、大久保屋どころかその人柄を知る者にとっては、心のよりどころのような大奥様を守った猫のことも取り上げられ、判官ひいきの江戸の庶民の話題になった。その後お大久保屋のタマの名は叩く間に広まった。まではよかったのだが……

「毎度、魚屋でございます」
 太助が大久保屋の炊事場に声を掛けると、タマが飛び出してきた。
「おやタマお前たしか、一昨日伊勢谷さんに行ったんじゃないのかい」
「伊勢屋さんからお払い箱になって、今朝返されてきたのよ」
タマに代わって答えたにはお仲だった。
「あれだけ大騒動してタマを掻っ攫(かっさら)っておきながら、たった三日でお払い箱とはね。うん、タマお前、臭うよ」 
「分かる。今朝おなっちゃんとお湯で拭いてやったんだけど、まだ臭うでしょう」

 ことの起こりは瓦版の隅に小さく載ったタマの出生にまつわる話だった。親にはぐれたのか捨てられたのか、乳離れもしていない小さな仔猫が雨に濡れていた。それを拾って育てたのが、大久保屋のした働きの女中おなつと書かれてしまったのだ。
 
 タマの名とともに育ての親のおなつの名前まで瞬く間に広まり、大久保屋にも多くの客が訪れるようになった。売り上げも伸びてそれはそれでいいことなのだが、困ったことにタマは自分の家からさらわれた猫だと言い出す者が現れたのだ。大概はそんな難癖をつけて、何がしかの小金をせしめようと小悪党だったが、中には証人を立てて奉行所に訴え出た者がいた。それが伊勢屋の夫婦だった。
 
 伊勢屋はこのところ急にのし上がって来た材木屋で、平たく言えば火事のたびに焼け太った成り上がりだ。木場のはずれにあった小さな材木問屋を居抜きで買いとって、商売を始めたのが十年ほど前だった。元は木曾の修験者だったとか、秩父の霊媒師だったとか胡散臭い噂がささやかれていが、定かではない。新しく立て替えた屋敷は木曾の総檜つくりだとも言われている。その檜つくりの新居で、趣味の悪い壷や皿に囲まれて暮らしている、絵にかいたような成金だ。
 
 何でもタマは一人娘が飼っていた猫の子どもだというのだ。娘の踊りの師匠だったというやけに艶っぽい女を証人にして、おなつを猫のかどわかしで訴えたのだ。奉行所からはおなつとタマに呼び出しがかかった。どうやらお白砂の上で決着をつけるようだ。
 
 最初のうち無視を決め込んでいた大久保屋は、これには驚いた。開いた口がふさがらないとはまさにこのことだった。奉行所もいったい何を考えているのだろうか、そんな訴えを真に受けるなんて。出るところに出て、白黒つけるのも面白いかもしれない。しかしおなつを奉行所のお白砂の上に上げるのもしのびない。 
「タマに本当の飼い主を決めさせようじゃないかい」大奥様はそう言って、タマを伊勢屋に渡したのが、一昨日だった。
 
 伊勢屋の夫婦は大喜びでタマを自慢の屋敷連れ帰り、これが仔猫のときにさらわれた猫だと親戚にお披露目までした。ところがタマは伊勢屋に来た早々自慢の屋敷の床柱で爪をとぐわ、鍋に蓋を開けて煮あがったばかりの煮しめに口をつける有様だった。おまけに鼠などには見向きもせずに池の中の錦鯉や、鳥かごの中の十姉妹を狙い始めた。
 
 腹に据えかねた伊勢屋の主人が、「タマお前さん、鼠捕りの名人だって聞いたが、あれはハッタリだったのかい」といった。するとタマがプイと表に飛び出して行き、夜になっても帰ってこなかった。慌てて店の若いものに探させたか見つからなかった。

「今夜は特別冷え込む、もうあんな猫ほっといて早く寝よう」と伊勢屋の亭主と女房が布団に入り、やっと温まったときだった。襖の向こうで小さな動物が走り回っているような音がする。猫の鳴き声も聞こえたのでてっきりタマが帰ってきたのだろうと亭主は思ったそうだ。

 放っておいて寝ようと思ったが、ガタガタとうるさく走りまわって寝られない。タマのやついい加減にしろと、亭主が部屋の襖を開けたときだった。黒い塊のようなものが部屋に飛び込んできた。てっきりタマだろうと思い、亭主が思い切り蹴飛ばしてやった…。

「じゃぁ、この臭いはイタチだったのかい」
 太助は改めてタマの臭いを嗅いで見た。自分も魚臭いといわれたら身も蓋もないが、ずいぶんと嫌な臭いだ。今までに嗅いだことのないような臭いだった。

 さて皆さまその途轍も無く嫌な臭い。どんな匂いだかご存知でしょうか。まああの時代に「わきが」なんてあったかどうかは知りませんが。あれのひどい奴だと思って下さい。もう皆さま、顔をしかめられたのではありませんか。

「タマなんてかすめただけだから、まだいいそうよ。伊勢屋さん夫婦はまともに食らっちゃって、この寒空に井戸の水で行水したそうよ。それでもまだ臭いが取れないらしくって、これから襖や畳の張替えをするそうよ」
 伊勢屋夫婦が震えながら行水をするところを想像して、太助は思わず噴出してしまった。

「お前の飼い主はおなつに決まっているじゃないか」
足元で毛繕いを続けているタマに話かけた。

「気の毒なのは番頭さんよ。タマけっこうに臭っているでしょう、でも途中で逃げたら大変だってしっかり抱いて返しにきてくれたのよ。御主人の尻拭いをさせられちゃって。なんだか疲れきった顔していたわ。でも本当にタマにそっくりだったみたいよその仔猫。奥様の思い込みが激しくってね、いくら言ってもあのときの仔猫だって聞かないらしいの」
「しかしよ、お仲ちゃん。別に伊勢屋の肩を持つ訳じゃないが、タマに似た猫けっこう見かけないかい。おいら早馬に蹴られて死んだ猫見て、てっきりタマだとおもった思よ」
 タマはまだ臭いが気になるらしく話しこむ二人の間に座ると、毛繕いに余念が無い。

「あらそれならわたしもこの間、乾物屋さんから干し鱈咥えて飛び出してきた猫見て、思わず『こらタマ』って言っちゃった。でもタマくらい毛並みが綺麗な猫いないわよ」
「おいらもそう思うよ。この腹のところの白い毛なんて、透き通っているじゃないかい」
「そう、それに背中の黒と灰色のしま模様がまた綺麗で、朝日に当ると銀色に光って見えるのよ」

草むしり作「わらじ猫」中10

2020-02-24 16:29:32 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中10
大久保屋の大奥様⑩
夢見る少女


「何だね、猫の自慢話かい。好きあって所帯を持とうって者同士が、他に何か話すこともありそうなものだがね」
 太助とお仲はついタマの話に夢中になり、大奥様のお帰りも気がつかなかった。二人は年が明けると祝言を挙げることになっていた。

「申し訳ございません。つい話しに夢中になりまして。お奉行所のほうはいかかでございましたか」
 お仲が、頬を赤らめながら大奥様に尋ねた。奉行所から呼び出しの掛かったおなつに付き添って、大奥様もお奉行所に行っていたのだ。
「なに心配することでもなかったよ。道理の通らないことを言っているのは向このkほうだからね。この際だから伊勢屋の方を叱りおいて下さるそうだよ。それからね、凶悪犯の召し取りに功労があったてんで、タマとその買い主のおなつに褒美をもらったよ。まったく今度の南町のお奉行様はずいぶんとお情け深いよ」
タマの褒美はかつお節で、木箱に入って赤い水引がかかっていた。おなつの褒美は反物で常盤屋の新柄だった。

「お仲すまないが、お前仕立ててやっておくれないかい」
「はい、かしこまりました。まあ可愛い、きっとおなっちゃんによく似合いますよ」
 お仲は嬉しそうに微笑むと、反物を手にとって太助に広げて見せた。
「うん、おいらよくは分からないけど、お仲ちゃんが言うのなら間違いないだろう。長屋のおとっつぁんやおっかさんに知らせておくよ、お仲ちゃんが仕立てるんだって」
「そんな太助さん、わたしのことは言わなくっていいわよ」
「何んだねぇ、お前たちは。おなつが目のやり場に困っているじゃないかい」
おなつは大奥様の後ろで恥ずかしそうに下を向いていた。

「お奉行所の帰りにね、ちょいとおなつの家に寄ってきたんだよ。あんな騒動の後じゃ、おとっつぁんやおっかさんが心配しているだろうって思ってね」
「おっかさん、喜んだだろう」
「おっかさんまた太っていた」
「それを言うなよ、本人も気にしているんだから」
 家族や長屋のようすは太助からいつも聞いてはいるが、それでも久しぶりに親や姉弟に会って嬉しいはずだ。ところがどうもおなつは照れ屋で困る。嬉しいとなぜか怒ったような顔になるのはおなつの癖だ。喋り方も極端に声を下げて、ぼそぼそと抑揚にない一本調子になる。まるで娘らしさなど自分には無縁のものと、始めから諦めているような口調だ。「もう少し愛嬌があればいのに」太助は時々そう思うのだった。

 ところが大奥様に言わせると、おなつのそこがチャラチャラしていなくていいそうだ。そこいらの若い娘の突き上げるようなキンキン声は、何を言っているのか分からないし。聞いていると耳が痛くなる。そこへ行くと、おなつの喋り声は低くてよく聞こえる。おまけにきちんと順序立てて話すので、分かりやすいのだと言う。
 
 照れ屋のところはおとっつぁんに似たのだろうか。がっちりとした肉付きのよい体つきはおっかさん譲りだ。性格はおっかさんで、体型はおとっつぁんなら申し分ないのだが。などとつい余計ことを太助は思ったりもする。
 
 ところがおなつの妹のおみつはこの反対だ。おみつは今、娘義太夫の師匠の家に住み込みで弟子入りしている。当節この師匠が旗揚げした娘義太夫の一座が、お江戸の街では知らない者がいないほどの大人気だ。
一座の娘たちがそろいの肩衣と袴をつけ、舞台の上のひな壇に並んで順番に義太夫節を一節ずつ語っていくのだが、合間に客の合いの手が入り舞台を盛り上げる。娘たちの席は人気番付によって決まる。舞台中央が一番人気の娘の席で、そこに座ったものが山場の部分を語るようになっている。

 当初若い男たちの間での人気だったのが、いつの間にか娘やその母親たちにまで飛び火してしまった。この頃では行儀見習いの奉公に出ていい縁談にありつくよりも、師匠に弟子入りして娘義太夫の舞台に立ちたいと言い出す娘たちが後を絶たないそうで、おいそれとは弟子入りも出来なくなった。
 
 そんな狭き門をくぐりぬけておみつの弟子入りが決まったのが半年ほど前だった。「もうじき舞台に立てるようだ」と、母親のお松が自慢げに話していた。
「ついでに大家さんにも挨拶してきたよ。いい人じゃないかい。おなつのおっかさんたちもいるし、あそこならお仲をやったって心配ないよ」
「あの大家をひと目見ただけでいい人だって分かるなんて、さすが大奥様だ」
確かに大家は顔が怖いのだが、根はいい人だった。ただ口うるさいのが玉に瑕(きず)で、重箱の隅を突くという言葉がピタリと当てはまるような性格だ。どうでもいいような、細かなことにまで口を出す。おまけに嫌味と当てこすりが激しく、もっともなことを言っているのに、言われたほうは腹がたつ。

 しかしよく考えてみればおなつの父親が怪我をしたときも、娘のおなつの奉公先から母親のお松の洗い張りの内職の世話までしてくれた。おなつ一家が曲がりなりにもこうして暮らしていけるのも、大家がいてくれたからだった。
長屋の連中だって似たようなものだ。多かれ少なかれ大家のおかげで、なんとか暮らしているようなものだった。
太助は大家を煙たがるのを止めようと思った。

「ただねぇ、あの唇の色だけは何とかならないかね」
「本当ですね、久しぶりに会ったらますます黒くなっていましたよ。わたしも子どものときは大家さんの唇の色が怖くて仕方なかったですよ。本当はいい人なのですけどね」
 めったに人の話に口を挟むこと無いおなつが、口を挟んできた。

「おなっちゃん、大家さんの唇ってそんなに黒いの」
横でお仲が心配そうに聞いてきた。

「そうだ太助、明日鯛を届けておくれ。わたしとしたことが、大家の唇の色なんてどうだっていいんだよ」
 大奥様は急に思い出しように太助に言った。言われた太助は太助で、近頃特に黒くなった大家の唇の色を思い出していた。
「へい、承知いたしました。お遣い物でしょうか」
だから返事がちょっと遅れてしまった。
「いやね、店のほうの騒動もだいぶ収まってきたからね、目黒の旦那様のところに行ってこようかと思ってね。お仲お前も一緒に行って、潮汁を作っておくれ。それからタマとおなつも連れて行くからね」
「かしこまりました。そういえばタマが目黒に行かしてくれませんでしたからね。」
「あの時のマムシだってお紺の仕業だろう。目黒になんど行っていたら、連中の思いのつぼだったよ。途中で殺されるか留守の間に押し込みに入られるかのどっちかだよ。お紺に取っちゃわたしが目の上のたん瘤だったろうよ。タマはこの一年の間わたしを守ってくれていたのだよ、不思議な猫だよ、まったく。」
「そういえば、おなっちゃん目黒初めてですよね」
大奥様の言葉に頷きながら、はたと思いついたようにお仲が言い出だした。
「ああ、おなつは目黒どころかお奉行所のある八丁堀だって始めてだって、キョロキョロしていたよ。無理も無いよ、九つの時から奉公に出ているのだからね。」
「おなっちゃん、目黒の大旦那様の寮はね,坂の上にあってね、目の前に田んぼが広がっていて富士のお山がすぐ近くに見えるのよ。近くには公方様のお狩場があってね、山鳥や雉が時々遊びにくるのよ。大旦那様の畑にはいろんな野菜が沢山植わっていてね、周りには柿や栗の木があるのよ、裏庭には水の湧き出る井戸があって、そこの水で入れたお茶がとっても美味しいのよ」
「そりゃいいや。はばかりながらこの一心太助、用心棒代わりの明日はご一緒させていただきます」
「おや、助かるよ。おなつとタマもしばらく向こうにいるからね、帰りはお仲を送ってやっておくれ、遅くなってもいいからね。ついでにお不動さんでもお参りするといいよ」
「ありがとうございます。なんだか照れちゃいますね」
太助は照れ笑いを浮かべ、お仲は隣で赤くなっている。そのようすをおなつが笑いながら見ている。
「でも大奥様、タマがいないとお店のほうが無用心じゃないですか」
お仲が心配そうに言った。

 タマこの頃では泥棒よけ猫として名を上げて、遠くからわざわざ見物に訪れる大店の主人もいるほどだ。泥棒に入られないようにと、タマを拝んで帰る人もいる。
「ああ、そのことなら心配ないよ。どれ、おなつ出してごらん」
 大奥様に言われ、おなつが手に持った風呂敷包みを開けた。
「おや、甚六さんの作ですね」
おなつが風呂敷包みから出したのは木彫りの置物だった。猫が丸くなって寝ている。よく見ればタマに似ている、長い尻尾や片方の耳が少し切れているところまで同じだった。
 
 おなつの父親の甚六は普請場で足の骨を折る事故に遭ってしばらく大工仕事が出来ない日があった。休んでいる間に腕が鈍らないようにと、木彫りを始めたのがきっかけだった。もともと手先が器用で、木切れを拾って来ては、いつも何か彫っていたので見る間に腕が上達した。この頃では木彫りの腕を見込まれて、名指しで注文が入るようになった。
「番頭さんに、これを帳場の隅にでも置くように言っておくれ。泥棒よけになるんじゃないかい」

 おなつはその夜嬉しくてなかなか眠れなかった。枕元には小さな風呂敷包みが置かれている。あれこれと持っていく物を風呂敷に包んでいたら大荷物になってしまった。「それじゃ泥棒と間違えられるよ、とりあえず要るものだけでいいんだから」といってお仲は笑いながら荷物を減らして、最後にかき餅の包みを入れてくれた。
新しい櫛と貸本も枕もとに置いて寝た。櫛は太助がお仲とそろいで買ってくれたものだった。明日挿して行こうと思っていた。貸し本はお仲に返してもらうことになっている。

 本は「里見八犬伝」だ。人気のある本でなかなか借りられない。運よく借りられたら、納戸にこっそりと行灯をつけて、小声でお仲に読んで聞かせる。本当は使用人が勝手に行行灯なんか使っちゃいけないのだけど…。そういえばお紺も寝たふりをして聞いていた。面白い場面になると、お紺の布団が揺れていたのを思い出す。

―怖い人だと思っていたが……。あの時甘酒の中に砂糖や酒じゃなくて、他の物も入れようと思えば入れられたんじゃないのだろうか。

 タマは体に染みついた臭いが気になるらしく、火の落とされた竈の前で毛繕いをしている。夜更けて月の光が炊事場の明り取りから差し込んで、竈の前のタマを明るく照らした。その頃やっと眠りについたおなつは夢を見ていた。夢の中でお狩場に続く坂道を、白い馬に乗ったお武家さまが駆け抜けて行った。

草むしり作「わらじ猫」中11

2020-02-23 16:40:45 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中11
大久保屋の大奥様⑪
目黒の秋刀魚

 次の朝、タマの体にはもうあの嫌な臭いは残っていなかった。寝しなにおなつがもう一度体を拭いてやったのと、夜通し毛繕いをしていたのだろう。おかげで腹のところの白い毛は透き通るように美しくなっていた。

 ところが支度はとっくに出来ているのに、太助がなかなかやってこなかった。なにかあったのではないかと気をもんでいると、しょげ返った様子で太助がやってきた。
「大奥様も申し訳ございません。海が時化ていて、河岸にまったく魚が運ばれてこなかったんでさぁ。知り合いの漁師にも頼んでみたのですが、こんなものしか手にはいりませんでした」
申しわけなさそうに開けた桶の中には秋刀魚の塩物が入っていた。

「銚子沖で上がった秋刀魚だね、よく脂が乗っているじゃないかい。塩焼きは大旦那様の大好物だよ。それよりお前、朝ごはんをまだ食べていなのだろう。お仲なんか食べさせておやり」

 今朝河岸で買った握り飯があるからと遠慮する太助に、お仲は味噌汁を温めて漬物を添えて出してやった。恐縮しながら太助が食べ終わって、さあ出かけようかという段になって、今度はさっきまでいたタマがいなくなっていた。 あちこち探しても見当たらないので、置いていこうかと話していると、ひょっこり鼠を咥えて戻ってきた。大慌てでおなつが鼠を始末して、何だかんだと出発の時刻が一時ほど遅れてしまった。

「おや秋刀魚ですかい、目黒でいただく秋刀魚は一味違うだろうね。焚き火でジュウジュウと焼けたところに大根おろしを乗せて、柚子のしぼり汁をかけたら旨いだろうね。わたしもご相伴に与りたいものだね」
 店先に見送りに出た旦那様は、市中では禁止されている焚き火が、目黒では出来ると言いたいのだろうが、おなつは別の意味に聞いてしまった。

―口の肥えた旦那様があそこまで羨ましがるのだから、目黒で食べる秋刀魚は日本橋や深川で食べるよりもおいしいのだろうか
おなつは早く目黒に行って、おいしい秋刀魚を食べたいと思った。
ところがおなつはその日目黒で秋刀魚を食べるどころか、目黒に行くとも出来なかった。

   店の前で旦那様の見送りを受けて、一行が目黒に向かって出発しようとした時だった。岡田屋のご隠居が連れを伴って尋ねてきた。
「もう少しで、目黒まで押しかけなくてはならないところだった」
岡田屋のご隠居は込み入った話があるようだ。立ち話という訳には行かないので、一向はまた暖簾をくぐって店の中に引き返してしまった。

    最後に太助が中に入ろうとして、鼻緒の切れたわらじが片方落ちているのに気づいた。―こんなところにわらじが落ちている。誰かのいたずらだろうか。
 太助は暖簾の下のわらじを、しげしげと見ながら思った。
「太助さん、お茶が入ったわよ」
お仲の呼ぶ声が聞こえたので、太助はそのまま中に入っていった。だから暖簾の間で何かがヒソヒソと話しているのに気づかなかった。

草むしり作「わらじ猫」中12

2020-02-22 16:50:04 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中12
大久保屋の大奥様⑫
鈴乃屋善右衛門1
   ご隠居は前にちょっとした風邪をこじらせて寝付いた時に、大奥様から届いたマムシで元気になったことがあった粉末にしたマムシの粉を朝晩に薬代りに飲ませていたら、お粥はもう飽いたので蕎麦が食いたいと言い出したのが三日後だった。十日後には刺身が、二十日後には鰻が食べたいと言い出した。ひと月もすると全快し、大久保屋の大奥様の誕生日にはご祝儀と一緒にタマにお礼だといって、かつお節を手土産にやってきた。
 
 前よりも元気になったと評判で、あれ以来風邪ひとつ引かなくなったと本人が言う。ただマムシとの縁は切れず、未だに朝夕欠かさず飲んでいるそうだ。この頃ではこれが切れると手足の先が冷たくなるという。少し度がすぎるのではと、岡田屋の息子夫婦は心配している。
 
 ご隠居が連れてきた男は、上野池之端鈴乃屋善右衛門と名乗った。岡田屋さんとは親の代からの付き合いで、特にご隠居とは親子ほど年が違うが不思議と馬が合うそうだ。鈴乃屋は岡田屋のご隠居に引き合わされると、自分の商売の話を始めた。何か頼みごとでもあるのだろうか。
 
 鈴乃屋は幕府の御用商人で、お城への出入も許されていた。ただ取り扱う商品が少し変わっていて、犬や猫、小鳥や鈴虫にいたるまでの生き物一切合財である。これらの生き物は大奥からのご注文が多い。つい先ごろの月見の宴には選りすぐりの鈴虫百匹を大奥の中庭一面に放し、奥女中たちを大いに喜ばした。一点の曇りも無いすみ渡ったようなその音色は、満月に照らし出された庭一面に響きわたった。流行り病で母上を亡くし、このところ塞ぎがちだった若様に笑顔が戻り、上様もことのほか喜ばれたと、大奥総取締役の秋月の局様よりお褒めいただいた。
 
 鈴乃屋は大奥だけではなくお蔵方にも出入りをしている。お蔵方に納めているのは主に猫であるが、ただ可愛がるだけの大奥の猫と違ってお蔵方の猫には鼠退治という重大な任務がある。だからと言って猫なら何でもいい訳ではない。もちろん一番大切なことは鼠を捕るのが上手いことだが、器量や毛並みの良さも重要である。その上に猫の品格も求められる。

 なにしろ上様がお口にする米や、先君より伝えられた御書物のほかにも、有事の際に備えて常備している武器弾薬はもとより、兜甲冑の類にいたるまで納められたお蔵の中に入るのだから。その中で粗相でもしたら大変なことになる。
「このタマだって、そんじょそこらの猫ではありませんよ」
 大奥様は別にタマの自慢をしたくて話の腰を折ったわけではない。タマが顔見知りの岡田屋のご隠居の声を聞きつけてやってきたからだ。

「やぁ、こんにちは。お邪魔していますよ」
鈴乃屋はお茶を運んできたお関の後ろから顔を覗かせるタマに話しかけた。小太りで背が低く人のよさそうな顔をしているが、相手を見る目つきが何処か抜け目の無いところが鼻に付く。ところがそんな男が面白いことに、猫を前にすると感じがまったく変わって見える。

「こちらの鈴乃屋さんはね、猫好きが高じて今の商売を始めたのですよ」
 ご隠居の話によれば、名のある両替商の跡取り息子だのだが、十八の年に猫を追いかけて行ったまま、行方不明になったことがあった。けっきょく追いかけまわした猫はつかまらなかった。半年ほど経って帰ってみると腹違いの妹に婿を取り、本人は勘当扱いの届が出されていた。
「これじゃまるでわたしが若旦那を追い出したようだ」と継母はずいぶんと気に病んでいた。ところが若旦那のほうはいたって気にする様子も無く、父親を半分恐喝するようにして今の商売の元手を出させ、上野に小さな生き物屋を開いた。それが今の鈴乃屋の始まりだった。

 商売のほうは天下泰平のご時勢のおかげでずいぶんと繁盛して、鈴乃屋の身代も大きくなった。しかし未だに猫を求めての放浪癖は抜けず、時折行き方知れずになってしまう。「おかげで未だに嫁がいなくて」と岡田屋のご隠居が嘆いた。そんな話の後だからだろうか、猫に話しかけるやり手の商売人は何処か浮世離れした学者や俳人のようにも見えた。

「おや、まだちょっと緊張しているのかい」
鈴乃屋が近づくと、タマはその分後に下がる。
「なんだか嫌われちゃったかな」
鈴乃屋の問いかけにタマは小声で一声鳴いて、その場に座って毛繕いを始めた。
「おや、猫たらしの鈴乃屋さんにしは珍しいですな。お前さんがひと声かけると猫はみんなゴロゴロと喉を鳴らしながら擦り寄って来るのですがね。タマこっちにおいで」
 岡田屋のご隠居がタマに声を掛ると膝をぽんと叩いた。するとタマはご隠居の膝の上に乗って、羽織の紐に着いた房で遊び始めた。
「うーん実に美しい猫ですな。足から腹の辺りの白い毛が抜けるようにまっ白だ。おまけ頭から背中にかけての黒と灰色のサバ縞が美しい。」
「おやうちの女中が同じようなことを言っていましたよ、何でも日に当ると銀色に光るって。似た猫はいっぱいいるけどタマほど美しい猫はいないってね」
 タマのこととなると大奥様も目じりがさがる。

   猫好きが高じて今の商売を始めた鈴乃屋は、大奥様としばらく猫談義に花を咲かせていた。十八の時に鈴乃屋が追いかけて行った猫はタマのような毛並みをしていたという。それが月の光を受けると銀色に輝いて見えたという。