草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」中3

2020-03-02 11:53:17 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中3
大久保屋の大奥様③
お紺編1

 無性に喉が渇いて、おなつは目が覚めた。いったいどうしたのだろうか、なんだか胸もムカムカする。暗闇の中を手探りで炊事場に行くと、甕(かめ)の中の水を柄杓で汲んで、そのまま飲もうとして止めた。手探りで傍に置いてある茶碗を捜し出し、水を注いでゴクゴクと一気に飲み干した。柄杓から直に飲まなかったのは、大奥様の睨んだ顔がチラリと頭に浮かんだからだ。

「なんですね、行儀が悪い」
 何処からがそんな声も聞こえた気がした。一息ついて二杯目の水を柄杓に汲んだ。それにしても喉が渇く、胸もムカムカするし頭も痛い。

    昨日あれは確か……。湯屋の帰りに甘酒を飲んだんだった。何で甘酒なんか飲んだんだろう……。そういえばかす汁だ。夕飯のかす汁飲み損ねたんだった。
ぼんやりとした頭の中で、おなつは昨夜のことを思い出していた。

 今夜は粕汁にしようと言い出したのはお紺だった。どこで手に入れたのか酒粕も用意しており、こしらえたのもお紺だった。酒かすが出回るにはまだ少し早い気がしないでもなかったが。
 
 油揚げや大根を煮込んだ汁にトロトロに溶かした酒粕を流し込む。粕汁は旦那さまの大好物だった。「これは旨いね」と言って旦那様は喜んでお代わりをされた。
その日の粕汁は使用人たちにもふるまわれた。普段は黙って飯をかきこむだけの男たちが、上気した顔に笑顔を浮かべて「旨いねー、旨いねー」といいながらお代わりをした。その日は今年一番の木枯らしが吹き荒れて、冷えた体を温めてくれた。

 奉公人の賄いが終わり、やっと一息ついた。お櫃に残った飯に漬物を添えて、自分たちもご相伴に預かろうと鍋の蓋を取った。鍋の中は空だった。
「なんだい、空っぽじゃないか。がっかりだね」
 そう言いながらも、お紺はなんだか嬉しそうだった。

「早いこと片づけを済ませて、湯屋に行こう」と言い出したのもお紺だった。
 ゆっくりと湯に浸かってふざけて百まで数えたせいか、からだがポカポカと芯まで暖まった。大通りの角を曲がってもう少しで大久保屋の勝手口というところに、珍しく屋台が出ていた。
「あんなところに屋台が出ている」
 最初に見つけたのはお紺だった。
「甘酒屋だって、ああもう思い出してしまったよ、粕汁飲み損ねたの」
 粕汁と聞いて二人もがっかりしたのを思い出した。
「寄っていこうよ、飲まなきゃ収まらないよ」
 お紺は強引に二人を引っ張っていった。

「あんたたちは大奥様のお気に入りだからね。普段はこんなところで寄り道なんかしないのは知っているよ。けど、今晩はあたしに付き合っておくれでないかい」
 屋台には人のよさそうな親父がいて、熱々の甘酒におろし生姜を添えて出してくれた。
 お紺はフウフウと息を吹きかけて甘酒を冷ますと、生姜をかき混ぜて飲み始めた。
「美味しい」
 お紺につられて甘酒を飲んだおなつが呟いた。
「こんな器量よしの娘さんに誉められると嬉しいね。今夜はこれでお終いだから、よかった残りも飲んで行っておくれ」
 親父はおなつとお仲の茶碗に、甘酒を注ぎ添えた。

    甘酒は本当に美味しかった。とても甘くって口当たりがよく、風呂上りのほてった体にスーッとしみこんでいくようだった。こんな美味しい甘酒は初めてだと、おなつは思った。

 勝手口までどうやって帰ったのかは覚えてなかった。それでもお紺がやっておくといった裏口の戸締りは、お仲と二人でしっかりとやった。ふらつきながら納戸部屋に戻ると、お紺が布団を敷いておいてくれた。
「お紺さん、いい人だったんだ」
おなつはそのまま布団になだれこんだ。

草むしり作「わらじ猫」中4

2020-03-01 02:12:53 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中4
大久保屋の大奥様④
お紺編2

―タマが来ていたのだろうか。
 目が覚めたときには姿が見えなかったが、耳元でゴロゴロと喉を鳴らす音と、濡れた鼻の先の冷たさと、ザラザラとした舌の感触がまだ頬に残っていた。

 タマは大久保屋に来た日から、大奥様の傍を片時も離れようとはせず、何処に行くにもついて回り、大奥様がはばかりに立った時でさえ後を追う始末だ。そこまで慕われると大奥様のほうも悪い気はしない。遠出をしてタマが迷子になっては大変と、家にいることの方が多くなった。    
「困ったもんだねぇタマときたら、目黒にも行けやしない」
大奥様はそう言う割には、嬉しそうにしている。

 目黒には大旦那様がお住まいの寮がある。お店での仕事を娘夫婦に任せてしまったものの、まだ大奥様は奥のことを取り仕切っている。それに比べ大旦那さまは帳場の仕事をとっくに旦那さんに任せて、今は目黒でお百姓仕事をしている。 
 
 何でもこれが昔からの夢だったといって、目黒の百姓屋を借り受けて、野菜や花などの栽培している。その傍らで付近の小作人の子どもに、無償で読み書きそろばんを教えている。十日おきには出来た野菜を下男に持たせて、大久保屋に帰ってくる。帰るたびに大奥様に「お前さんも早く目黒においで」とお誘いになる。大奥様も行きたいのは山々なのだけど、まだまだ娘夫婦が隠居はさせてくれそうにもない。
 
 大奥様の実の娘に当る今の奥様は、大久保屋の看板商品である袋物を作っている。作っているといっても材料の布の裁断や製縫は職人が行っている。奥様はその袋物の形を考えるのが仕事だった。「丈夫で長持ちその上に品があって飽きが来ない」が信条の大久保屋の袋の出来は、奥様の肩に掛かっているのだ。
それは誰にでも任せられる仕事ではないし、家の仕事の片手間に出来る仕事でもなかった。
 
 そんなわけで帳場のほうはすんなりと旦那さまに引き継がれたが、奥のことは未だに大奥様の仕事になっている。それでも時々は大奥様も泊りがけで目黒に行くこともあったのだか、タマが来て以来それすらままならなくなった。何しろタマは大奥様が目黒に行こうとすると邪魔をするのだ。

 最初に目黒に行こうとした時だった。タマは出かけようとする大奥様の草履の上に寝そべったきり、どうしても動こうとしなかった。仕方なくおなつに退けさせよとしたが、抱えようとするおなつの手に噛み付く始末だ。おなつが困ってベソをかいても知らん顔で草履の上から降りようとしなかった。
「今日はもうやめておこうねぇ。タマは利口な猫だから、目黒に行くと何か悪いことでもあるのかもしれないよ」
 その日は大奥様も目黒に行くのを中止した。ついこの間も大奥様が通りの角を曲がろうとすると、タマが邪魔をして先にいかせないことがあった。そうこうしているうちに角の向うが騒がしくなった。何事かと見に行くと、ノラ犬が老婆に噛みついたという。

   そんなことがあってからは、大奥様はタマが邪魔することはしないようにした。それはあの時犬に噛まれた老婆が、何処と無く自分と背格好が似ているように思えたからだ。だからといってタマは二六時中大奥様の傍にいるわけではなかった。大奥様が女中たちに行儀作法を仕込んでいるときや、気の置けないお客様の時にはふらりといなくなり、時には大きな鼠を咥えて戻ってくることもある。
 
   タマは大久保屋に来てからは、大奥様の部屋で子どもを産んだ。部屋の隅に置いた木箱のなかでお産をして、そこで子どもを育て始めた。大奥様はタマが後をついてこなくていいようにと、外出は極力控え、はばかりに立つ時さえも、お仲をお供につける始末だった。

  おかげでタマの子どもはスクスクと大きくなり、今度もまた、太助の桶の中に入って柳家のハチの元に向かった。今頃はおなつの家の床下でハチと一緒に眠っているだろう

草むしり作「わらじ猫」中5

2020-02-29 12:13:23 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中5
大久保屋の大奥様⑤
お紺編3

―奥様になにかあったのでは。
 二杯目の水を飲もうとして、ハッとなった。さっき起きたときに、閉めて寝たはずの部屋の障子が三寸ほど開いていた。やはりタマが来たのだろう。暗闇の中でお仲の規則正しい寝息が聞こえていたが、何かが少し違っていた。不吉な胸騒ぎがする。
 
  暗闇の中で目を凝らしてみてみると、大奥様の部屋の前に部屋の前に誰かがいた。ぼんやりとしか見えないがあれはお紺だろうか。こんなところで何をしているのだろう。そういえばさっき起きたときにどうも部屋の様子がおかしいと思ったのは、同じ部屋に寝ているはずのお紺の気配がしなかったからだ。

    した働きのおなつやお仲は、ふだんは炊事場や裏庭での仕事が多く、お店はおろか奥の部屋さえもよっぽどのことがなければ行かない。寝起きする部屋も炊事場の隣の日の当らない納戸部屋で、お仲とおなつ、それに口入れ屋から雇い入れたお紺の三人で使っていた。

   歳も近く陰日なたなく働くお仲とはすぐに親しくなったが、お紺はちょっと苦手なところがあった。お紺は几帳面で仕事もよく出来たが、影でこっそりと手を抜くところがあった。おしゃべりでいつも誰かの噂話をしていたが、自分のことはまったく話さない。着物の襟を少し抜いて着る癖があり、どこか掴みどころの無い女だった。

   おぼろげな人影は縁側の雨戸の前に腰を屈めてすわりこんでいた。なにかを雨戸の敷居に近づけている。あれは油の入った徳利ではなかろうか。
―油を敷居に…。
 目が暗闇に慣れてくるに従って人影がはっきりと闇の中に浮かびあがってきた。やはりお紺であった。お紺は雨戸の閂をはずして、雨戸に手を掛けた。
「泥棒誰か来て」
おなつの背後からお仲の叫び声がした。
「もう遅いよ」
 その時お紺の足元を黒い影が横切り、ゴトリと音がした。同時に雨戸が押し開けられ黒い影のようなものが次々と押し込んできた。ところが縁側に入ったとたんに、黒い影が次々に倒れていった。
「何事だね」
お仲の叫び声に部屋の灯りがともされ、大奥様の声が聞こえた。
「やっちまいな」
お紺の声が響いた。
「大奥様逃げて」
お仲の叫び声がして、あたりがパッと明るくなった。
「御用だ、御用だ」
眩しい明かりにおなつは目がくらんで気を失った。

「おなつ、おなつ、しっかりおし」
 大奥様の声で意識の戻ったおなつが見たものは、縁側に倒れて起き上がろうともがいている男たちだった。中には手に持った匕首で自分の腹を刺して苦しんでいるものもいる。

「うう、気持ち悪い」
 口に手を当て走り去っていくおなつに、大奥様が声を掛けた。
「甘酒を四杯も飲む者がいるかね」

草むしり作「わらじ猫」中6

2020-02-28 12:23:07 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中6
大久保屋の大奥様⑥
娘心と男心1

 弥助が相生橋の辰三親分を尋ねたのは、大久保屋のようすを伺っていた二人組を見た翌朝だった。河岸での商売を早めに切り上げると、その足で親分を訪ねたのだった。

 親分にはずいぶんと世話になった。夜鳴き蕎麦屋の親方の後をついていって、弟子にしてくれと頼んだ迄は覚えているが、その後気を失って倒れてしまったのだった。その日は朝からすきっ腹をかかえ、賭場のやくざに散々殴られた末に、川に落ちたのだ。あれでよく親方の後をついていけものだ。気がついたときには親方の家の布団の中だった。

 弥助が賭場でこしらえた借金は、親兄弟の縁を切ることを条件に三人の兄たちが払ってくれた。それとて積もり積もった利子を入れればとても払える金額ではなかったが、利子の分は辰三親分の口利きで棒引きにされた。親分が袖の下などは絶対に受け取らないのは、ただ正義感が強いだけではなく、こういう時に融通を利かせるためなのかもしれない。
「お前、女の兄妹が居なくてよかったな。いたら間違いなく岡場所にたたき売られちまっていたで」
親分はそう言って、弟子入りのほうも親方に頼んでくれた。

弥助が訪ねていくと、辰三親分はおかみさんの飴屋で店番をしていた。親分は二人の弟の手を引いた女の子に飴を包んでやると、おまけだといって子どもたちの口に飴を放り込んでやっていた。店先に置かれた醤油樽の上には座布団が敷かれ、上で猫が気持ちよさそうに寝ていた。
 
 親分に昨夜のあらましを話すと、その夜から親分も一緒に大久保屋を見張るようになった。そして新月の暗闇に乗じて押し込むだろうと、あたりをつけていたのだった。
 
「タマ、お手柄だったな」
親分がタマに声をかけた。
もうじき河岸の開く時間だ、騒ぎを聞きつけて野次馬たちが店の周りを取り囲んでいた。
 
 小鮒でも釣ろうかと、何気なくたらした釣竿に大物の鯉が掛かったようなものだった。お縄にした盗賊一味は「木枯らしの宇平」と呼ばれる、手配書の回っている盗賊団だった。お紺はその引き込み役だった。お紺は目当てのお店に潜りこむと、まず手始めに店の奥のことを取り仕切る者を始末するのが手口だった。狙いを定めた相手にマムシを放つやり口から、仲間内では「マムシのお紺」と呼ばれていた。

 大概は店の奥ことを取り仕切るおかみさんや女中頭が犠牲になる。取り仕切る者のいなくなった家など、押し込みに入るには容易いものだ。頼りにしていた者がいなくなっただけで、戸締りや火の用心がおろそかになってしまう。

 だからお紺が引き込みに入ったお店は半年も経たずに、押し込みに入られてしまう。押し込みに入られた上に一家の中心人物を欠いてしまい、その後立ち直ることも出来ずに潰れてしまうお店の少なくはなかった。大久保屋では大奥様がマムシに噛まれそうになったのが一年前だという。お紺にしては随分と時間がかかったことだと思ったが、その後の経緯(いきさつ)を女中頭のお秀に聞いて親分はにんまりとした。

―タマにはお紺もお手あげだったようだな。
 タマにことごとくたくらみを邪魔されて、口惜しそうなお紺の顔が目に浮かんだ。タマは親分の足元でさっきから毛繕いに余念がなかった。

「おい、ずいぶんと油ぎっちまったな」
 タマがこぼした油に滑って腹を刺した大男は丑松といい、上州の赤鬼と呼ばれている。頭の中身は少々軽いが、はむかうものは拳骨で殴り殺してしまうほど凶暴だった。宇平一味の召し取りに誰一人けが人を出すことがなかったのもタマのお陰だった。
―それにしても不思議な猫だな。
 親分がそう思っていると、勝手口の方か騒がしくなった。誰かが大久保屋の事件を聞いて駆けつけてきたようだ。タマはその声を聞くなり勝手口の方に飛んでいった

草むしり作「わらじ猫」中7

2020-02-27 18:44:09 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中7
大久保屋の大奥様⑦
娘心と男心2

「だからね、あっしは怪しいものではありませんよ。大奥様、大奥様。太助が参りました」
 やっと検分が終わったばかりで、まだ外からの出入りが出来ないのだろう。外から男の声がきこえる。
「ずいぶんと騒動しい奴だな」
 親分が呆れていると、誰かがとりなしたようだ。男は片手に天秤棒を担ぎ、空いているほうの手でタマを抱きかかえて、炊事場に飛んできた。親分は男の持っている天秤棒を見て、弥助みたいな奴がもう一人いると思った。そういえば、弥助の姿が見当たらない。

「馬鹿やろう、もう四杯目じゃないか。なんて食い意地のはった奴だ…」
「静かにしねぇと、ばれちまうだろうが」
 大久保屋のむかいにある料理屋の二階の暗闇の中で、親分は弥助を静まらせるのに必死だった。ここ数日、二人で大久保屋を見張っていたのだ。弥助はおなつが甘酒を四杯も飲むので、ハラハラしていたのだ。

「危ないからおまえはあっちに行っていろ」と言う親分に、「子守のあの子やタマに 何かしやがったら、承知しない」弥助は天秤棒を握り締めて捕り方の後からついてきた。そんなに心配だったら一目顔を見ていけばいいのに、盗賊をお縄にしたとたん弥助の姿が何処にも見えなくなった。

―もうあの子は子守の子どもじゃねぇんだが。あいつを見たって怖がりやしねぇのに。
―ついでだからこの弥助みたいな野郎のことをもう少し見ていこう。と親分は思った。

「大奥様太助でございます。大事ございませんか。おなっちゃん、お仲ちゃん。あっしが来たからには心配いりませんよ」
 男は片手に天秤棒、もう片方の手にはタマを抱いている。

「太助さん、タマが、タマが助けてくれたのよ」 
 太助の声を聞いてお仲が奥から飛び出してきた。泣いたのだろうか。タマのこぼした油のついた手で涙を拭ったようだ、顔がテカテカと光っている。

「お仲ちゃん、喋れるのか。喋れるようになったのかい」 
 太助は驚いて手に持っていた天秤棒を取り落としてしまった。カランカランと乾いた木の落ちる音が、土間に響いた。タマはその音に驚いて太助の腕の中から飛び出した。その拍子に太助の片方の頬を、後ろ足で蹴り上げてしまったが、太助はそんなことも気にならないようだ。両手で包みこむようにお仲の手を握っている。太助の頬はみみず腫れになって血が滲んでいた。

「おや太助、お前はいったい誰が心配でやってきたんだい」
手を握りあって見つめあう二人に、タマを抱いた大奥様が声をかけた。なんてことだ、あの大奥様まで油でギトギトになっている。

「大奥様、大事ございませんでしたか。お仲ちゃんが、お仲ちゃんが………」 
 お仲が声を取り戻した。そういいたいのだが言葉にならないのだ。太助はいつまでお仲の手を握ったまま放そうとはしなかった。
「なんだね、朝から。嬉しいのは分かるけど、いいかげんに手をお放し。相生橋の辰三親分が呆れているじゃないかい」
「いや、何………」
急に矛先が自分に向けられ、なんと言っていいのやら、親分は言葉が出てこなかった。

「どうした、おなっちゃん。顔色悪いぞ」
 太助は大奥様の後ろにいるおなつに、やっと気がついたようだ。
「…………」
「おいどうした。そんなに怖かったのか、それとも何処か具合が悪いのか…」 
 心配そうにおなつの顔を覗きこむ太助だったが、それでもまだお仲の手は離さなかった。
「…………悪い」
「うん、どこが悪いんだ。腹か胸か。なんか悪いもの食ったんじゃないのか」
「う…………」
「そうか食ったのか。何食って悪くなった」
「う太助さん………、…臭い親父………………気持ち悪……」
おなつは口を手で押さえて走り去っていった。

「おいらが、臭い親父で気持ちが悪いのか」
 太助は握っていたお仲の手を離してその場にうずくまってしまった。
「太助さん、あのね。胡散臭い親父に甘酒を飲まされて、気持ちが悪くなったの」
おなつは嘔(え)吐(ず)ながらも太助に話したのだが。
「太助さん、臭い、親父、気持ち悪い」としか太助には聞き取れなかったようだ。