草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

予防接種

2024-09-05 15:06:01 | 草むしりの幼年時代

予防接種

 先日ポリオの予防接種のことを書きましたが、小学校の頃にはクラスごとに講堂に並んで順番に注射を打っていたことを思い出しました。ただその頃には注射を打たれて泣くような歳でなかったので、おとなしく打たれていました。でも正直なところ注射は嫌でしたね。

 腕をまくって自分の番を待っている時のドキドキ感というか憂鬱感、皆さんも経験しませんでしたか?本当は嫌なんだけど見栄を張って、注射なんてなんてことないさ。って顔で並んでいませんでしたか?

 それから後二、三人ってなったときに、腕に消毒をされましたね。その後あっという間に自分の番になって、チクリとやられました。消毒液は大概透明の消毒用のアルコールでしたが、時々茶色のヨウドチンキの時もありました。

 当時子どもたちの間では「消毒液が透明の時は痛くないけど茶色の時は痛い」という噂がまことしやかに囁かれていました。また注射の前に腕をパチパチ叩いたり、打ったところを揉むと痛くないという噂もありました。腕を揉むのはかなり大きくなるまでやっていた気がします。

 一方消毒液の色によって注射の痛さがちうというのは、どうだったかは覚えていません。ただBCGの注射が一番痛かったのは間違いないです。BCGは今では赤ちゃんの時にハンコのような注射をペタンと押されるだけなのですが、私が子供の頃は肩に注射をしていました。

 ですから私たちくらいの年代の人の肩には、今でもその跡が残っていると思います。さてこのBCGの注射の前はツベルクリンの注射をしますね。その注射はほとんど痛さは感じませんね。そしてそれが陽性になれば、もうBCGを打たなくてもいいのです。

 ところが私はなかなか陽転しなくて、小学生の間は毎年BCGを打っていました。確か六年生の時にハンコ注射に変わり、やっと陽転した覚えがあります。ですから私の腕にはハンコ注射の跡もあります。

 BCGは一学期の修了式の後に居残りさせられて、注射を打たれていました。痛いし打ったところが膿んで、ひと夏それが続いていました。我が生涯であの注射が一番痛かった思っていました。

 ところが最近その一番が変わってしまいました。もうお分かりですね。コロナのワクチン接種ですよね。あれは痛かった。しかも半年に一度何度も打ちましたね。打った途端中指の先まで激痛が走りました。そ後熱は出るし、腕が上がらないくらいの痛さが一週間くらい続きました。

 それでも当初はホッとしたのもですね。でももうあんな注射は懲り懲りなのですが!

 


ポリオワクチン

2024-09-05 06:56:01 | 草むしりの幼年時代

ポリオワクチン

 パレスチナ自治区ガサで、ポリオのワクチン接種が始まりましたね。口の中にワクチンを入れられるて、ちょっと戸惑ったような顔をする子どもたちが、テレビの画面に写し出されました。残念ながら戸惑った後の子どもたちの顔は写し出されませんでしたが、多分嬉しそうな顔をしたのではないでしょうか?あの時の私のように……。

 私がポリオワクチンの接種をしたのは、小学校一年か二年の時です。その頃ポリオ(小児麻痺)とう病気が流行っているのはうっすらと知っていました。またワクチン接種の当日母がホッとした顔をしていたのを、おぼろげに覚えています。

 当日は授業を中断して講堂に一列に並び、ワクチンの接種をしました。その時母のホッした顔を思い浮かべながら、私の気持ちは沈んでいました。また注射かと思ったからです。でもまさか逃げ出すわけにもいかず、おとなしく順番を待っていました。

 背の低い順か出席番号順かは覚えてはいないのですが、どちらにしろ私は列の最後尾でした。接種を終わった子どもたちが次々に教室に戻っていく中、私の番が近づいて来ました。そろそろ腕に消毒液を塗るはずです。

 覚悟を決めて腕をまくりあげたのですが、なぜか消毒はスルーされてました。「消毒なしで注射か‼︎」などと一瞬思ったのですが、大人のすることには逆らえません。目をつぶって、注射されるのを待ちました。

 すると「はい、お口開けて」と優しい声が聞こえて来ました。素直に口を開けると、口の中に液体を入れらました。「なんだこれは」と思った瞬間、えも言われぬ甘味が口の中いっぱいに広がりました。あの時の甘さを思い出すと、今でも幸せな気持ちになります。

 こんな美味しいのなら、何度もで予防接種受けたいと思いました。ただ後にも先にもあんな美味しい予防接種をしたのは一回きりでした。あれがポリオの生ワクチンだったのですね。

 ガサの子供達が接種したワクチンはどんな味がしたのでしょうか?甘くて美味しければいいですね。 

 


杉鉄砲

2024-02-29 10:59:17 | 草むしりの幼年時代

杉鉄砲

 先日は小柄な人なら吹き飛ばされてしまいそうな強風でしたね。私は吹き飛ばされる心配は無いのですが、外に出るのがためらわれてしまいました。

 昨日は風も止み天気も良くなりましたが、今度は花粉が飛んでいるようですね。夫がやたらと咳をするようになりました。やっと喘息が収まったばかりなのに、今度は花粉の咳だといいます。どの咳が喘息でどの咳が花粉症なのか、本人にしか分かりません。

 近年では花粉症なんて厄介なものが、春の風物詩になってしまいましたね。昨日みたテレビでは花粉症の特集をが組まれ、杉の雄花が大写しされていました。これが花粉を飛ばすのかと思うと、顔をしかめてしまいました。

 でも子どもの頃はこの雄花を使って、杉鉄砲で遊んでいました。細い竹筒の片方に杉の雄花を詰め、もう一方の穴にも雄花を積めて細い棒で突くと、空気圧で最初の雄花がポンと音を立てて飛び出すのです。

 同様の原理で濡らした新聞紙を丸めて玉にする、紙鉄砲もありました。こちらの方パンという大きな音で、あまり好きではありませんでした。また新聞紙は弁当箱を包むものというイメージがあったので、子どもの遊びに使たりはしませんでした。

 さて当時の新聞紙事情は別として、やはり子供の遊びにはポンというくらい可愛い音の方が似合ってますね。見た目も小さく玉も無数にあります。杉の雄花を握り締めて、杉鉄砲をポンポン鳴らして遊んだ日々を思い出します。

 できれば孫と一緒に遊びたいと思うのですが、そんなことをしたら息子や娘に怒られてしまいますね。近頃では幼児の花粉症も増えているとか。杉鉄砲は封印した方がよさそうですね。


旧正月

2024-02-13 09:44:35 | 草むしりの幼年時代

旧正月

 今年の旧正月は二月十日でしたね。中国では「春節」と呼ばれ、盛大にお祝いするそうですね。また韓国やベトナムなどのアジア各国もお祝いをするそうですが、残念ながら日本ではこのような伝統はありません。

 しかし私の子どもの頃には、旧正月にはお餅をついていました。ちょうどその頃が一年中で一番寒い時期なので、寒餅(かんもち)と言っていました。当時は臼と杵とで家族総出の半日仕事でした。

 餅は一度にたくさんついて、家じゅうでいちばん寒い座敷に並べて乾燥させていました。また普通の白餅の他にもかき餅も作っていました。

 昔は家で冠婚葬祭を行っていたので、4人くらいが座れる細長い座卓がたくさんありました。生家には中二階(ちゅうにかい)と呼ばれる、一階と二階の間に高さが1メートルくらいの物置部屋がありました。普段はそこに仕舞ってあったのですが、餅をつく時は必ずそこから出してきて、座敷いっぱいに広げていました。

 座敷中に座宅が並べられ、その上にたくさんの餅が置かれている。それが私の旧正月の思い出です。お年玉もなければ学校も普段通りです。これのどこがお正月なのだと思っていました。

 それからしばらくして電動餅つき機ができて、手軽に餅がつけるようになったからでしょうか。合わせて食が多様化したこともあるのでしょうが、寒餅を大量につくことはなくなりました。またそれと前後するように、旧正月のことも誰も言わなくなりました。

 ただ九九歳まで長生きした伯母の中では、旧正月がまだ存在していました。

「旧正月には帰っておいで」とダイヤル式の黒電話で、一番下の弟に電話をしたとか。

 伯母が亡くなる二年ほど前に、そんな話を聞いた覚えがあります。そういえば確かに旧正月には親戚の小母さんたちが家に来たような気がします。昔はいったん家に来ると何日が泊まっていった覚えがあります。そのような風習も車で移動できるようになって、いつの間にか無くなってしまいましたね。

 さて今日は天気も良く暖かくなりましたね。明日はもっと暖かくなるそうですね。もう寒の戻りはないのでしょうか?花粉も飛びはじめ、また憂鬱な季節になりましたね。こうなるともう寒餅なんかもつけませんね。座敷なんかに並べておくと、カビだらけになってしまって大変ですねからね。すぐに冷蔵庫にいれなければなりません。

 でもあの餅の表面がカチカチに乾いた餅は、焼くとおいしかったですね。炭火で焼いているとぷっくりと膨らんできて、それを砂糖と醬油を混ぜあわせたどんぶりの中に浸して、最後もう一度焼き直す。

 ああして焼くと味が染みておいしかったですね。できればもう一度食べたいものですね。

 


二匹目のドジョウ

2024-01-30 09:03:41 | 草むしりの幼年時代

二匹目のドジョウ

 昨日は子牛を競り市に出した時のことを書きました。書いているうちに当時にことを色々と思い出しました。子牛が生まれると庭に柵をして、子牛を放し飼いにしていたこと等々。なんだか家が牧場になったみたいでした。

 しかし子どもが下手に近づくと親牛が興奮するので、遠くから見るだけでした。柵の中を子牛がぴょんぴょんと飛び跳ねていたことや、親牛の乳を飲んでいたのも思い出しました。

 それからしばらくして子牛が大きくなると、左右の鼻の穴の間にある壁に穴を開けて、鼻輪(はなわ)を通します。当地では鼻輪のことを「鼻グリ」と呼んでいました。鼻グリをするともう子牛も一人前?になります。

 それからすぐに売られるのですが、立派な子牛が生まれると品評会に出したりもしました。  

 いつもは腿のあたりに糞をこびりつけているですが、前日からブラシをかけられた子牛の茶色の毛がつやつやと光っていました。爪や角も磨かれピカピカで、尻尾なんかクルクルと内巻きカールがかかっていました。父と友人二人が、前日から牛を磨きあげていたのです。

 当日はトラックの荷台に乗せられて、子牛はクリンクリンの尻尾を振りながら会場に向かいました。その後どうなったかは覚えていないのですが、たぶん入選はしなかったのでしょう。いつもと変わらず、淡々として夕餉の食卓に着きましたから。

「一度だけ子牛が賞を取ったことがある」と後年母に聞いたとこがあります。たぶんあの時は二匹目のドジョウを狙っていたのでしょうね。子牛を磨き上げる大人たちの目の色が違っていました。