草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

現実はドラマよりも

2023-03-30 10:29:00 | コロナ禍

現実はドラマより……

 別に俳優や脚本家に不満があってのことではないが、朝ドラを見なくなって久しい。 

 ところがひょんなことから「舞い上がれ」を、最終回が目前にせまった、昨日になってから見るようになった。

 ドラマの中ではコロナ禍のため、主人公舞ちゃんの旦那さんの貴司君がフランスに行ったきり、日本に戻れなくなっている。ロックダウンなんて少し前までは毎日聞いていた言葉も登場した。

 さて最終回まであと二話になった今日は、貴司君が帰ってきて舞ちゃんを抱き合しめたところからはじまった……。ほんの数秒のシーンであり、ドラマの主題とはかけ離れた、いわば伏線として描かれたシーンだが、思わず眼がしらが熱くなった。そして我が家の場合を思い出していた。

 息子一家の場合は長男、次男、そして最後に妻を息子が抱きしめた。

 息子一家が駐在員としてインドネシアに渡ったのが、2020年の2月の初旬だった。すでにコロナウィルスの感染症が世界各国に広まりつつあった。この時点ではまだインドネシアでの感染症は伝えられてはいなかったが、それも時間の問題だろうと思われていた。

 何はともあれ早く収まってくれればと願いつつ一家を送り出した。その時嫁が第二子を妊娠中であっため、何かの役にたてばと私も一緒にインドネシアに渡った。

 嫁はまったく勇気のある人で、現地の病院での出産を予定していた。私のほうもその時点ではまだコロナよりも嫁の出産の方を心配していた。それからひと月が経ち私が帰国するころには、パンデミックという言葉が使われ、あれよあれよという間の世界中にコロナが広まった。

 インドネシアもいつ武漢のようになるかもわからない。何度も一緒に日本に帰ろうと誘うたのだが、嫁はまだ残るといってきかなかった。危ないと思たらすぐに帰ってくることを約束して私は日本に帰った。

 二ヶ月後の嫁が長男を連れて帰国し、嬉しいことに我が家での出産することになった。周りは私と嫁との仲を心配しましたが、私たちはお互いに仲良くしようねと言ってやってきた。

 それから息子が、嫁と二人の子供の迎えにのため一時帰国したのが、一年二カ月後だった。抱きしめる順番は前もって二人で決めていたという。

 その日は黙っていても母親の嬉しさが、幼い息子たちに伝わっていた。どうしても昼寝をしないのだ。長男の方はまだしも、次男の方はまだ十ヵ月だ。少し寝かせた方がよかろうと、私はベランダで次男を寝かしつけていた。

 すると風に揺れる洗濯物を目で追いながら次男が、パッパッパッと言い始めた。それまでなんとなく言ってはいたが、こんなにはっきり言ったのは初めてだった。この子はわかっているのだ。もう寝かしつけるのをやめようと思い、部屋の中に入っていった。

 しばらくすると玄関のドアが威勢よくあき、息子が入ってきた。長男は歓声をあげ手を叩きながら父親である息子の方に走っていった。

 スマホの中にいるとばかり思っていたパパが、目の前に現れたのだ……。

 今でも思い出すと胸がじいんとなる思い出である。ドラマよりも現実はもっと感動するものだった。だがこんな感動は二度と息子一家にさせたくはない。

 

 

  


初桜花

2023-03-27 09:18:32 | 草むしりの幼年時代

初桜花

 お彼岸が明けて、先祖さまたちもあちらの世界に帰って行った。亡くなった母は今頃どうしているだろうか……。

 母の四十九日の法要が終わったあと、お骨を先祖代々の墓に納骨しようとして、急に心配になったことがあった。祖父母と同じ墓の中で、母は仲良くできるのだろうかと……。

 どこの家庭でもそうであろうが、嫁と舅姑とは多かれ少なかれ仲は良くないものだ。普通ならそういうことは時が解決してくれるのだろうが、祖父が亡くなったのは私がまだ幼い時だった。だから良いところは覚えていないのだ。いつまでたっても母と祖父は仲が悪いというイメージしかないのだ。

 そのことを母が祖父と同じ墓に入る段になって、急に思い出してしまったのだ。

「向こうに行ったら、仲良くするんで!」

 何だが急に泣けてきて、母のお骨に話しかけたのを覚えている。

 そんなこと私が心配しなくて、みんな仲良く蓮の花の上にいるだろう。いや我が家のご先祖さまたちのことだ、みんなで寝転がっているかもしれない。

 母のお骨は、当時大学生だった私の息子の手によって納骨された。父のが亡くなった時も、墓の中は狭いからお前が中に入いれと、夫にいわれたのだが、まだ小学生だった息子は、それができなかったのだ。無理もない。

 ただそれが記憶にあったのだろう。今度は自分がやるからと、彼は率先してその役を申し出た。

 私に幼年期思い出があるように、息子にとってそれは、忘れがたい幼年期の思い出なのだろう。

 さて、昨日から東京での生活になった。普段は夫との二人暮らしで、猫もいなければ畑もない生活に戻った。生家のある地域ではやっと桜の開花宣言が出たばかりなのに、東京では満開の桜が雨の中すでに散りかけていた。

さて桜といえば思い出す歌、いやブログがある。

行かん人 来ん人忍べ 春霞 たつたの山の 初桜花 [中納言家持(大伴家持)]

(行く人も来る人も思い慕え、春霞のたつ、竜田山の初桜の花を)

 この歌を知ったのは、相互フォローしている「雅工房」さんがのブログである。2018年に投稿されている。当時私は長男の第一子に続き、長女の第一子が生まれたばかりだった。そして母の姉にあたる伯母が寝込んだばかりでもあった。伯母には子供がなく、頼まれて週に2度ほどお手伝いに通っていた。

 その時のことをブログに書いた翌日、雅工房さんがこの歌を、自身のブログに投稿された。なんだか私のために書いて下さったような気がして、とても嬉しかった。

 桜の花の下、行った人ばかりの思い出が尽きない。くる人たちの話は先に延ばして、まだしばらくは行った人たちの思い出にお付き合い願います。


フラッシュバック

2023-03-24 11:26:19 | 草むしりの幼年時代

フラッシュバック

 地区の共同墓地は小高い丘の上にあり、昔は土葬の風習があった。祖父は私が小学校二年くらいの時に亡くなったが、その時が私が見た、最初で最後の土葬であった。

 おぼろげに覚えているのは、丸い棺桶と白い三角頭巾だった。子ども心に、幽霊みたいな恰好でふざけているのかと思った。棺は丸太で作られた輿(こし)のようなものに、乗せられて墓地まで運ばれていった。

 輿の後ろから晒(さらし)が結びつけられ、綱のようになっていた。参列者はその晒の綱を握って、輿の後から墓地に向かった。チーン、チーンという鈴の物悲し気な音がずっとしていた。

 その後の記億が無いのだが、鮮明に覚えているのは墓穴だった。墓地にはいつの間にか墓穴が掘られていた。大きくて深くて底の方に水が溜まっていた。誰が掘ったのだろうかと思った。それが、私が覚えている祖父の葬式のすべてだった。

 それから時代は平成になる。あれは父が亡くなって間もない頃だった。祖父は六十歳、父は六十五歳だった。似たところのない親子だったが、早世するところはそっくりだった。

 亡くなったのは近所のご隠居さんで、大往生だった。訃報はすぐに地区民に伝えられた。

「確か家(うち)が穴掘り当番だったはずだ」

 知らせを聞いた母の第一声だった。

 今では葬儀屋さんに任せる仕事も、まだ地区の人たちが担当していた。その頃私はすべての地区の仕事を半ば強制的にさせられ始めたころだった。

「穴掘り当番だって。この時代にまだそんなことやっているのか、ここの人たちは!」あきれると同時に祖父の墓穴がフラッシュバックしてきた。

「無理、無理。絶対無理!あんな深い穴、私には掘れない」と、絶叫してしまった。

 誰がそんなことするか、昔からのしきたりだ。故人宅に行ってお茶でも飲んでいればそれでいいのだといわれ、安堵したものだ。

 今でも穴掘り当番のことは時々思い出す。父の急逝に沈みがちだった母が、少しだけ元気を取り戻した出来事でもあるからだ。


広島にいく

2023-03-23 07:59:51 | 日記

広島にいく

 お彼岸とは向こう側(煩悩のない仏さまの世界)という意味を持っているそうですね。お彼岸がどういう意味なのか知らないで、お彼岸お彼岸と言っておりました。チコちゃんに叱られますね。

 俗に言う「あの世」失礼しました。「極楽浄土」ですね。でもいろんな言い方ありますね。「向こう」「あっち」「冥途」等々。当地では年配の方などは「広島にいった」と言います。

 小学校の時に、なぜ広島なのか理由を聞いたことがありましたが、残念ながら忘れてしまいました。

 さて我が家の母が広島にいってしまってから、今年で十七年になります。しかしかなり長い間、母に電話がかかってきていました。ちょっと怪しげな電話です。たぶん特殊詐欺関係の方ではないでしょうか。

「○○さんいらっしゃいますか」

「おりませんが」

「どこに行かれたのでしょうか」

「広島に行きました」

「戻っては来られないのですか」

「3月と8月と9月には戻ってきますが」

「そうですか」

 そんな感じで何度かやり過ごしたことがあります。たぶん母の名前と電話番号が売られているのでしょう。いろんな人からかかってきます。亡くなってもう何年も経つのに……。

 ある時また電話がかかってきました。腹立しくなった私は「もう、亡くなりましたよ」と言ってやりました。

「なんだとそんなことは聞いていないぞ!」

 すると相手は怒りだしました。その声のなんと怖いことか。電話の向こうなのに、目の前にいるような気がして、震え上がりました。

 それからはもう何があろうと「留守にしております」で通しています。この頃やっとそんな電話もかからなくなりました。

 

 


続よもぎ餅

2023-03-22 08:46:35 | 日記

続よもぎ餅

 今日は朝から雨です。こんな日はゆっくりと炬燵に入って過ごします。田舎の古民家は隙間だらけで寒いので、石油ストーブや炬燵なしでは過ごせません。

 しばらく続いていた畑仕事の疲れが出たのか、朝から炬燵でウトウトしておりました。そこに昨日のブログに登場したT家からよもぎ餅が届きました。昨日のブログを読んだのって思えるくらいの、タイミングの良さです。

 届けてくれたのはT家の小母さんの長男の奥さんでした。T家の小母さんはかなり以前に亡くなっているので、一昨日に私の搗(つ)いたよもぎ餅を、仏さまにもっていったばかりでした。

 奥さんは私のよもぎ餅がおいしかったと、眼を輝かせて言いました。餅が柔らかくいつまでたっても固くならなかったし、よもぎの色がとてもきれいだったと。どうやって作るのかと聞かれました。

 実は私は、よもぎ餅では誰にも負けないと、ひそかに自負しておりましたので、誉められて正直嬉しくなりました。

 そこで得意げに作り方をペラペラと喋ってしまいました。ところがT家夫人はこんな私の話を、うんうんとうなずきながら目を輝かせて聞いてくれるではありませんか。

 それから夫人は自分も作ったといって、よもぎ餅を下さいました。仏さまにお供えして早速いただきましたが、とてもおいしかったです。なんといっても夫人はあの小母さんの家の嫁さんです。姑から鍛えられた腕があります。

 それにしても、目を輝かせて話を聞いてもらったことなど、久しくなかった気ががします。最後は長女が小母さんの餅が一番おいしいと言った話から、小母さんの思い出話になり、嬉しいひと時を過ごすことができました。

 T家夫人と私は、漢字は違いますが名前が同じです。そして長女の名前も漢字は違いますが、同じ名前です。その割には長い間お互いに敬遠しあっていました。

 ところが数年前にノラボウ菜という野菜の苗を夫人にあげたところ、とてもおいしいといって喜ばれました。それからはなんだか気が合うようになりました。ノラボウ菜も毎年植えているそうです。名前が同じだけではなく、野菜つくりが好きなところも同じだったのですね。

 今度のよもぎ餅の件で、またまた仲良くなれそうな気がします。