草むしり作「ヨモちゃんと僕」後3
(夏)ネコは何かを我慢している③
久しぶりの雨は渇ききった畑や庭を潤し、暑さに疲れ切っていたぼくたちに一時の涼しさを運んできました。雨は一日降り続き、夕方になってやっとやみました。コンクリートのへこみの中に出来た小さな水溜りに、雲の隙間から遠慮がちに顔を覗かせたお日様の光が、キラキラと反射しています。
アレ、ヨモちゃんが水溜り覗きこんでいます。そういえば今朝から姿が見えませんでした。きっとどこか涼しいところで昼寝をしていて、目が覚めたばかりなのでしょう。水溜りに反射する光が面白いのかな、やけに熱心に覗いています。
「えーい」
水溜りに黒い影が映った瞬間、ヨモちゃんは空に向かって大きくジャンプしました。空中で前脚を伸ばして、何かを捕まえようとしています。うん、あれはツバメだな。ツバメがヨモちゃんの頭の上を飛び回っています。子育てを終わったツバメたちは、親子で一緒にあっちこっちを飛び回り、遊んでばかりいます。春にはあんなに一生懸命に働いていたのに、今では泥で作った軒下の巣は空っぽになって壊れかけています。
「やあ、元気かい」
ツバメたちに声を掛けられたとき、ぼくはちょうど脚の裏を舐めていました。雨に濡れた庭を歩いたものだから、脚の裏が泥んこになってしまったのです。爪を立てて肉球を広げて、間に入り込んだ泥んこをきれいにしている最中でした。
「うん、ぼくのこと呼んだ」
顔をあげたぼくを見て、ツバメたちは必死に笑いをこらえています。どうしたのかな。
「バカなツバメの相手も疲れるわ。手加減してやっているのも知らないで、いい気なものよ。早く南の国に帰っちゃえばいいのに」
その隙にヨモちゃんは庭に止めてあった軽トラの下に逃げ込みました。空から攻撃を仕掛けて来るツバメも、さすがに車の下までは行けません。お父さんのトラックの下は、ヨモちゃんのいい避難場所になっています。
「フサオ、さっきからずっと舌がでているわ。」
「えっ、嘘」
しまった、舌を出したまま挨拶をしてしまった。一生懸命に舐めていた所に、急に声を掛けられたものだから、舌をしまい忘れてしまいました。恥ずかしい。
「秋になったらぼくたちは南の国に帰るよ。君は風に乗れそうかい」
「どうかな、でも見ていてね」
名誉挽回のチャンスです。ぼくは舌が出ていないか確認して、庭の梅の木の上に一気に駆け上りました。
「いいかい、見ていてよ」
梅の木の一番高い枝の上から、空に向かって大きくジャンプしました。空中で尻尾を思い切り膨らまし、脚も思い切り横に広げました。体が空中で一瞬止まり、それから静かにゆっくりと下に落ちていきました。
「ずいぶんと上達したね。でも飛び降りる高さ足りないね。『残念さん』の大イチョウの木のてっぺんから飛んだら、本当に風に乗れるかもしれないよ」
「残念さんの大イチョウだって」
残念さんとは近くにある神社のことで、本当の名前は「山神社」なのですが。ここら辺の人はみんな「残念さん」と呼んでいます。神社にはマムシに噛まれて命を落とした若いお侍さんが祀られています。お侍さんの名前は加藤何某(なにがし)とかいう、繁森藩の藩士でした。
繁森藩は石高三万二千の小さな藩で、ぼくの住む山間の町も昔は繁森藩の領地でした。加藤何某は城下から山を抜け長州に向かう途中、今の残念さんの辺りでマムシに噛まれて三日三晩苦しんだ末に、「残念なり」と言って命を落としたと伝えられています。
当時長州では徳川幕府を倒して新しい政府を創ろうとする長州軍と、そうはさせまいとする幕府軍との戦が始まろうとしていました。
「今は幕府だ、長州だと。国内で争っている時ではない。そんなことをしていたらこれからの発展は望めないどころか、外国の餌食になってしまう」。加藤何某はこの戦を何とか止めさせようと、密かに国元を出て長州に向かおうとしていたのでした。
もちろん、長州や幕府につてがあるわけではないし、藩命を受けたわけでもありません。それどころか当時は藩士が許可なく領地を出ることは禁じられていました。もし見つかれば本人どころか家族まで処罰されました。それでも何某はこの戦いを何とかして止めさせたい一念で、長州を目指していたのです。
しかしなぜ一小藩の下級武士が、そんな危険を冒してまで長州を目指したのでしょうか。話は何某がマムシに噛まれた時より、六年前の三月三日の朝にさかのぼります。その頃、繁森藩上屋敷は桜田門外にありました。そしてあの有名な「桜田門外の変」は、繁森藩上屋敷の門前で起りました。ところが突然斬り合いがはじまると、繁森藩は門を固く閉じてしまい、関わり合いになるのを避けしまったのです。
当時、江戸詰になったばかりの何某も、この様子を門の中から見ていました。そして六年後、今度は繁森藩とは瀬戸内海を隔てた長州で国の行き先を決める戦が勃発しました。その時何某は思いました。もう目の前の一大事を、見て見ぬふりはしたくないと。そして長州に向かったのでした。
ところがマムシに噛まれたのはまだ領地の中で、家を出てから一刻、今の時間にすると二時間しかたっていませんでした。ここから御城下のある町までは、元気のいい高校生なら自転車で通えるくらいの距離なのです。
村人はその何某の崇高な志を偲んで。いや、領地さえ出ないまま命を落としてしまった何某の無念を偲んで……。いや、なんて運の無い奴、残念な奴なのだと思い、神社を建立したと伝えられています。今では『残念さん』と呼ばれ、みんなに親しまれています。
神社自体は小さいのですが、御神木のイチョウの木はとても大きくて、根元部分の幹は大人三人が手をつないでやっと囲えるくらいの太さです。イチョウの木は「残念さんの大イチョウ」と呼ばれ、遠くの家からでも見えます。二階の窓から見えるイチョウの木のてっぺんを思い浮かべながら、ぼくはちょっと考えてしまいました。あんなところから飛んだら、それこそぼくが残念さんになってしまう。
「うん。でもね、まだまだ脚の広げ方が足りないンだ」
「そうなのか。秋までに脚をもっと広げることが出来たら、一緒に南の国に行こうね」
「う、うん。考えておくよ」
ツバメたちは河原の葦の中に帰っていきました。