草むしりしながら

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草むしり作「わらじ猫」前2

2020-01-23 07:12:00 | 草むしり作「わらじ猫」2
草むしり作「わらじ猫」前2 

㈠裏店のおっかさん②

「姉ちゃん読んで」
 行灯の下でおみよと幸吉が肩を寄せ合って、おなつの持っている本を覗きこんでいる。甚六は明日の仕事の準備だろう。土間に下りて鉋(かんな)の刃を研ぎ始めた。

 今年八つになるおなつはこの春から手習いに通っていた。いろはから始めた読み書きも、この頃では子ども向けの御伽草子くらいは読めるようになった。母親のお松はそれが嬉しくて、貸本屋が来るたびに何かしら借りてやっていた。最初は一字一字指で追ってやっと読んでいたが、それでもおみつや幸吉は喜んで聞いていた。それが嬉しかったのか、すぐにすらすらと読めるようになり、この頃では抑揚をつけて読むようになった。
 
 読んでいるのは桃太郎だった。話が鬼退治の場面になると、食い入るように挿絵を見ていた幸吉が、急に立ち上って「やぁ、とう」と刀を振るう仕草を始めた。どうやら桃太郎になりきっているようだ。甚六も仕事の手を休めて、話に聞き入っていた。

「よ、桃太郎。日ノ本一」
 幸吉の仕草があんまりかわいいものだから、お松が声をかけた。ほめられた幸吉は嬉しくなって、ますます身振りが大きくなる。トントンと大立ちまわりをしようとして、足を滑らせ土間に転び落ちた。慌てて甚六が抱き起こすと、「うわーん」と一声泣いたかと思った眠ってしまった。

 それを潮にお松が布団を敷き始めた。狭い部屋の中は布団を三枚敷くと、もういっぱいになった。お松は赤ん坊を自分の布団に寝かしつけた。甚六も自分の布団の中に幸吉を寝かすと、また土間に下りて鉋の刃を研ぎ始めた。  

「ほら二人ともさっさと寝ちまいな」
 お松はまだ起きている娘たちに声をかけた。
「今度は姫様の出てくるご本を借りておくれよ、おっかさん」
 おみつがはじかそうに目をこすりながら言うと、すぐに寝息を立て始めだした。その隣でおなつもウトウトしている。

「お松さん、お松さん」
誰かがお松の名を遠慮深げに小声で呼びながら、トントンと小さく戸を叩いた。
「おっかさん、誰か来ているよ」
 もうとっくに寝入ったと思っていたおなつが目を開けた。お松は甚六と顔を見合わせた。
―今頃誰だろう
 外で男がなにやら小声で言い合っており、赤ん坊のぐずる声も聞こえだした。そのとたんお松は急いでしん張り棒をはずして戸を開けた。

 表には若い男と浪人らしき男が申し訳なさそうに立っていた。浪人の腕には赤ん坊が抱かれている。
「お松さん」若い男が何か言おうとしているのを遮るようにお松は赤ん坊を受け取った。
「さあさあ、中に入って」
 戸口で遠慮がちに立っている男たちに声を掛けた。男が浪人を促して家の中に入ると、自分はお松に手を合わせて帰っていった。
 
 若い男は太助といって棒手振りの魚屋だ。浪人の方は佐々木といい、近ごろ越して来たばかりだった。何でも藩がお取りつぶしの憂き目に会い、仕官の口を求めて赤ん坊と奥様を連れて江戸に出て来たという。突然の改易と慣れぬ長屋暮らしで、このところ奥様は乳の出がよくないのだ。赤ん坊は乳をくわえて離そうとしない。無理に離せばグズグズと力のない声でずっと泣いている。

 隣に住む太助が見かねてお松のところに連れて来たのだった。なんせ長屋の壁は薄い、隣の声は筒抜けだ。「夜分に悪い」と遠慮する佐々木を無理やり引っ張ってきたのだ。独り者の太助にも乳が足りていないのが分かるくらいに、赤ん坊の声は弱々しかった。

 おまつは佐々木から子供を受け取ると、上がり口に腰掛けて、急いで赤ん坊に乳を含ませた。よほどお腹をすかせていたのだろう。赤ん坊は乳首を口に含んだとたんに、ゴクゴクと力強く飲んでいたが、やがてウトウトと眠り始めた。
 
 布団の中からおなつは顔を出して、母親が赤ん坊に乳を飲ませるところを見ていた。産着からはだけ出た足は細く小さかった。まん丸で乳切れの入った竹坊の足を見慣れていたおなつは、驚いてしまった。
「こんなにお腹空かせて。佐々木様、遠慮なんかしたら坊やがかわいそうじゃありませんか」
竈(かまど)の横で所在なげに待っていた侍に、お松は赤ん坊を渡しながら言った。

「何しろこの図体でしょう、乳なんだぁ余ってしょうがねぇんですからね」
 横から甚六が口を出した。
 小柄でひょろりとした甚六に比べると、大柄で骨太のお松は水を飲んでも太る性質なのか。四人の子どもを産むたびに太ってくる。

―嫌なことお言いでないよ。
そんな顔をして、お松は甚六をにらんだ。
「今度からお乳の前に少しずつ重湯を飲ませてお上げなさいまし。奥様も少しは楽になりましょうからね」
―明日になったら、様子を見に行ってみよう。

 ぐっすりと眠った赤ん坊を抱いて、佐々木は何度も礼を言って帰っていった。土間では鉋の刃を磨ぎ終わった甚六が、今度は切り出し刀を取り出して木を削り始めた。
「なんだい、まだ起きていたのかい」
 お松は布団の中で眠そうに目を瞬(しばた)かせているおなつに声を掛けた。
「うん。あの赤ん坊、足なんか竹坊の半分もなかったよ」
 おなつはさっき見た赤ん坊の足が忘れられないのだ。  
「おっかさん明日ちょっと佐々木様の坊やの様子見てくるから、心配しないでもうお休み」
「ああ、おっかさんに任せとけば心配ないよ」
「ところでお前さん、何しているんだい」

 木彫り細工の好きな甚六は、彫り物に使えそうな木切れを見つけてきては土間の隅に立てかけてある。雨で大工の日雇い仕事がないときは、家で木彫りの細工をしている。今削っているのは八幡様の大銀杏の枝だった。去年の夏に雷が落ちて、木が倒れてしまったことがあった。すぐに銀杏の木は切られて材木屋に引き取られた。甚六も切り倒しの人夫に雇われていて、その時に木彫り細工に使えそうな枝を貰っていたのだった。          

「あした佐々木様のところに行くんだろう。赤ん坊のさじをこしらえてやるからな。もって行ってやりな」 
 甚六の作るさじは柄が長くさじの部分が小さくて、赤ん坊の小さな口にちょうどいい大きさだ。おなつたち兄妹もこのさじで汁かけ飯を食べて大きくなった。