草むしり作「わらじ猫」前5
㈠裏店のおっかさん⑤
おなつがタマを拾ってから半年が経った。佐々木様の赤ん坊は朝と夜にお松の乳をもらいに来ている。乳の他にもおかゆや芋なども、父親の甚六の作ったさじで食べるようになった。細かった手足も丸々としてきて、この頃ではよく笑うようになった。
太助さんは相変わらずの独り者で、自分のことよりも人の心配するお節介焼きだ。どこかにいい人はいないかと、長屋のおっかさんたちは真顔で心配している。
通の向こうから掘割に向かって心地よい風が吹きぬけて行った。手習い帰りのおなつの火照った頬を撫で、後れ毛を遠慮気味に揺らした。名残惜しそう残っていた土手の桜の花びらが、風に吹かれてクルリクルリとおなつの肩に舞い落ちた。萌黄色の若葉の間から、キラキラと初夏の日差しが降り注でいる。川面に散った花びらは、ゆっくりと海に向かって流れていった。
「どうした、おなっちゃん、。なにボッとしているんだ」
川面を流れる桜の花びらに見とれているおなつに、太助が声をかけた。
おなつは母親のお松に似たのだろう、骨太の骨格にむっちりと肉がついている。背丈も同じ年頃の子どもに比べて高く、ガッチリとした体格をしている。背の高い分二つか三つ年かさに見られる。そのせいもあるのだろうが、ボーっとしているように思われる。おまけに人一倍顔の色が黒く、ホッペがまん丸だ。知らない人間ならまだしも、知っている人間でさえおなつを見て笑うものもいる。
そんな心ない者もいれば、おなつのそこが良いと言う者もいる。弟や妹だけではなく近所の小さな子どもはみんなおなつが好きだった。同じ長屋の年寄りたちも、おなつは優しくてとてもいい子だという。
太助はそんなおなつが気になって仕方がなかった。今も堀端でなにやら考え込んでいる。通りかかった太助が慌てて木陰まで引っ張ってきて、誰かに苛められたのじゃないかと聞いてきたのだった。確かにいじめられることもあるのだが、今はもっと違うことを考えていたのだ。掘割の流れを見ていたのは、今晩寝しなにおみつに聞かせる話の筋を考えていたのだ。
おなつは毎晩、妹や弟に本を読んでやっていた。長じてこの頃では、自分で話の筋を考えるようになった。とりわけ妹のおみつは姫様が出てくる話が好きで、目を輝かせておなつの話を聞いている。今日は手習いが終わった後で、先生が一寸法師の話を先生が聞かせてくれた。おみつが喜ぶように一寸法師を小さな姫様に置き換えて、話しの筋を考えているところだった。
まったく太助さんはお節介だとも思うにだが、太助のことは嫌いではなかった。太助はおなつの背のことは決して口にしないからだ。おなつが一番気にしているところは背の高いことだ。色の黒いことや、ホッペがまん丸なことはその次くらいに嫌いだった。
けれどおっかさん、時にはおとっつぁんまでも「また背が伸びたんじゃないか」ってすぐに言う。おなつがそのたびに傷ついているのが、分かっていないのだろう。近所の悪ガキなどはもっとひどい、やたらとおなつの背が高いのをからかう。そんな奴に限って背が低い。おおかた自分の背が低いから悔しいのだろう。だからおなつは近所の男の子が大嫌いだった。
けれども二番目や三番目に気にしている、色の黒いところやホッペの真ん丸いとこは言われても大して気にはならなかった。もちろん言われないで越したことはないのだが…。一番と二番では雲泥の差がある。女心とは実に微妙なものである。
おかげでタマを迎え行くのがすっかり遅くなってしまった。柳家の勝手口の前に走っていったが、タマの姿が見えない。いつもならおなつの足音を聞きつけると飛び出して来るのだが、遅くなったので先に帰ってしまったのだろうか。遠慮勝ちに裏庭を覗くとハチが寝ていた。焼けるような強い日差しの下で横を向きになり、丸太のように寝転がっている。腹が上下に動き、腹の動きと一緒に変な音が聞こえる。
―犬でもイビキをかくんだ。
それにしても暑くなった。朝出かける時には気持ち良いくらいの陽気だったのに、お天道様が真上に来たとたんにジリジリと照りつけ始めた。真夏のような暑さだ。
「ハチ暑くないのかい」
激しい日差しを避けようともしないでハチは寝ていた。寒いのだろうか、それとも起きるのが面倒なのだろうか。ハチは薄目を開けておなつを見るとしぶしぶ起き上がり、日陰に場所を移すとまた横になって眠り始めた。夜の料理の仕込みにかかったのだろうか、板場からは鰹だしのいい匂いがしてきた。とたんに腹の虫がグゥとなった。帰りがすっかり遅くなってしまった。おっかさんに竹坊の子守を頼まれていたのを思い出した。おっかさんの背中に負ぶわれていた竹坊もこの頃では、歩くようになっていた。
―タマは先に帰ったのだろう。
柳家の裏口から路地に出てみるとタマがいた。ハチが銜えてきたのだろうか、鼻緒の切れた片方だけのわらじで遊んでいた。爪で引っ掛けてはひょいと上に放り上げてみせる。そのうち仰向けに寝転がってはわらじに噛み付き、前脚の爪でひっかけて後ろ足で蹴り上げ始めた。まるで鼠を捕っているような仕草だ。
声を掛けるとおなつの肩に乗ってきた。大急ぎで柳家の板塀に沿って歩いて行った。板塀が終わってすぐの所にある角を曲がると、長屋に続く細い路地に出る。
それがどうした訳かいくら歩いても、板塀が続いている。おかしいと思って立ち止まると、あたりが薄暗くなっていた。板塀の下でチラリと何かが動いた気がした。ブルっと身を震わせると、タマの喉を鳴らす音が聞こえた。辺りが元のように明るくなって、いつもの曲がり角に立っていた………。
―気のせいだろう。すっかり遅くなってしまった。おっかさん、怒ってないかな。
おなつは長屋向かって小走りに駆けて行った。