草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」前5

2020-01-23 07:09:56 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前5 

㈠裏店のおっかさん⑤

 おなつがタマを拾ってから半年が経った。佐々木様の赤ん坊は朝と夜にお松の乳をもらいに来ている。乳の他にもおかゆや芋なども、父親の甚六の作ったさじで食べるようになった。細かった手足も丸々としてきて、この頃ではよく笑うようになった。

 太助さんは相変わらずの独り者で、自分のことよりも人の心配するお節介焼きだ。どこかにいい人はいないかと、長屋のおっかさんたちは真顔で心配している。

 通の向こうから掘割に向かって心地よい風が吹きぬけて行った。手習い帰りのおなつの火照った頬を撫で、後れ毛を遠慮気味に揺らした。名残惜しそう残っていた土手の桜の花びらが、風に吹かれてクルリクルリとおなつの肩に舞い落ちた。萌黄色の若葉の間から、キラキラと初夏の日差しが降り注でいる。川面に散った花びらは、ゆっくりと海に向かって流れていった。

「どうした、おなっちゃん、。なにボッとしているんだ」
 川面を流れる桜の花びらに見とれているおなつに、太助が声をかけた。
 
 おなつは母親のお松に似たのだろう、骨太の骨格にむっちりと肉がついている。背丈も同じ年頃の子どもに比べて高く、ガッチリとした体格をしている。背の高い分二つか三つ年かさに見られる。そのせいもあるのだろうが、ボーっとしているように思われる。おまけに人一倍顔の色が黒く、ホッペがまん丸だ。知らない人間ならまだしも、知っている人間でさえおなつを見て笑うものもいる。
 
 そんな心ない者もいれば、おなつのそこが良いと言う者もいる。弟や妹だけではなく近所の小さな子どもはみんなおなつが好きだった。同じ長屋の年寄りたちも、おなつは優しくてとてもいい子だという。

 太助はそんなおなつが気になって仕方がなかった。今も堀端でなにやら考え込んでいる。通りかかった太助が慌てて木陰まで引っ張ってきて、誰かに苛められたのじゃないかと聞いてきたのだった。確かにいじめられることもあるのだが、今はもっと違うことを考えていたのだ。掘割の流れを見ていたのは、今晩寝しなにおみつに聞かせる話の筋を考えていたのだ。

 おなつは毎晩、妹や弟に本を読んでやっていた。長じてこの頃では、自分で話の筋を考えるようになった。とりわけ妹のおみつは姫様が出てくる話が好きで、目を輝かせておなつの話を聞いている。今日は手習いが終わった後で、先生が一寸法師の話を先生が聞かせてくれた。おみつが喜ぶように一寸法師を小さな姫様に置き換えて、話しの筋を考えているところだった。

 まったく太助さんはお節介だとも思うにだが、太助のことは嫌いではなかった。太助はおなつの背のことは決して口にしないからだ。おなつが一番気にしているところは背の高いことだ。色の黒いことや、ホッペがまん丸なことはその次くらいに嫌いだった。

 けれどおっかさん、時にはおとっつぁんまでも「また背が伸びたんじゃないか」ってすぐに言う。おなつがそのたびに傷ついているのが、分かっていないのだろう。近所の悪ガキなどはもっとひどい、やたらとおなつの背が高いのをからかう。そんな奴に限って背が低い。おおかた自分の背が低いから悔しいのだろう。だからおなつは近所の男の子が大嫌いだった。

 けれども二番目や三番目に気にしている、色の黒いところやホッペの真ん丸いとこは言われても大して気にはならなかった。もちろん言われないで越したことはないのだが…。一番と二番では雲泥の差がある。女心とは実に微妙なものである。

 おかげでタマを迎え行くのがすっかり遅くなってしまった。柳家の勝手口の前に走っていったが、タマの姿が見えない。いつもならおなつの足音を聞きつけると飛び出して来るのだが、遅くなったので先に帰ってしまったのだろうか。遠慮勝ちに裏庭を覗くとハチが寝ていた。焼けるような強い日差しの下で横を向きになり、丸太のように寝転がっている。腹が上下に動き、腹の動きと一緒に変な音が聞こえる。
―犬でもイビキをかくんだ。

 それにしても暑くなった。朝出かける時には気持ち良いくらいの陽気だったのに、お天道様が真上に来たとたんにジリジリと照りつけ始めた。真夏のような暑さだ。

「ハチ暑くないのかい」
 激しい日差しを避けようともしないでハチは寝ていた。寒いのだろうか、それとも起きるのが面倒なのだろうか。ハチは薄目を開けておなつを見るとしぶしぶ起き上がり、日陰に場所を移すとまた横になって眠り始めた。夜の料理の仕込みにかかったのだろうか、板場からは鰹だしのいい匂いがしてきた。とたんに腹の虫がグゥとなった。帰りがすっかり遅くなってしまった。おっかさんに竹坊の子守を頼まれていたのを思い出した。おっかさんの背中に負ぶわれていた竹坊もこの頃では、歩くようになっていた。

―タマは先に帰ったのだろう。
 柳家の裏口から路地に出てみるとタマがいた。ハチが銜えてきたのだろうか、鼻緒の切れた片方だけのわらじで遊んでいた。爪で引っ掛けてはひょいと上に放り上げてみせる。そのうち仰向けに寝転がってはわらじに噛み付き、前脚の爪でひっかけて後ろ足で蹴り上げ始めた。まるで鼠を捕っているような仕草だ。

 声を掛けるとおなつの肩に乗ってきた。大急ぎで柳家の板塀に沿って歩いて行った。板塀が終わってすぐの所にある角を曲がると、長屋に続く細い路地に出る。
それがどうした訳かいくら歩いても、板塀が続いている。おかしいと思って立ち止まると、あたりが薄暗くなっていた。板塀の下でチラリと何かが動いた気がした。ブルっと身を震わせると、タマの喉を鳴らす音が聞こえた。辺りが元のように明るくなって、いつもの曲がり角に立っていた………。

―気のせいだろう。すっかり遅くなってしまった。おっかさん、怒ってないかな。
 おなつは長屋向かって小走りに駆けて行った。
 




草むしり作「わらじ猫」前6

2020-01-23 07:09:04 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前6

㈡吉田屋のおかみさん① 

 ジトジトと降り続いて、家に中だけではなく住んでいる人間までカビが生えてしまいそうな梅雨が明けた。とたんにジリジリとお天道様が照りつけ始めた。久しぶりの青空に長屋の戸は一斉に開け放たれ、風が湿気てかび臭くなった畳の上を吹きぬけた。昼前にはたまった洗濯物を干し上げて、家の中の掃除も終えたおっかさんたちだったが、昼すぎからの暑さに閉口し、早くも梅雨の曇り空を懐かしむ声が聞かれた。

江戸の町に夏がやってきた。

 七月七日の長屋の井戸替えは長屋の年中行事である。この日は大家を初め長屋の住人が仕事を休み、総出で井戸の大掃除をする。終わった後には大家が皆に酒を振舞い、大人も子どもも年に一度の井戸替えの行事を楽しんだ。

 楽しかった井戸替えが終わって、おなつも明日で九つになるという日の昼すぎだった。父親の甚六が普請場で足の骨を折る大怪我を負ってしまった。朝から容赦なく日が照りつけて焼けるようになった表通りを、板戸に乗せられて甚六は帰ってきた。幸い足の骨を折るだけで他には怪我はしていないが、しばらくは日雇いの大工仕事は無理だった。
 
 梅雨の間ほとんど仕事がなく、子沢山で蓄えも少なかった。米櫃の底はすぐに底をつき、家賃も滞るようになってきた。その上、骨接ぎに借金まで出来てしまった。

―昼間の間だけでも飯屋の下働きにでも出ようか。
 赤ん坊を背負って洗濯物を干していたお松が、そんなことを考えていた時だった。大家の徳次郎が徳次郎がやって来た。

「ごめんなさいよ、甚六さんの具合はどうだい。お松さん」
 大家の声を聞いたとたんに、タマがどこからか飛び出してきた。仰向けに寝ころがって腹を見せて、クネクネと背中を地面にこすりつけている。
「おや、タマじゃないかい。嬉しいね。お前だけだよ、わたしのことを歓迎してくれるのは」
 徳次郎はタマの腹を撫ぜながら、嬉しそうに話しかけている。

 タマを拾った当初は「柱で爪をとがれては困る、ウンやらシィをされると臭くてたまらない」などと文句を言い、あげくの果てに「猫を見るとしゃみが出る」などと、嫌味を言っていたのだが、この頃ではタマが可愛くて仕方がないようだ。もちろんタマが長屋の鼠を捕ることもあるのだが、それだけが理由ではなかった。
 
 長屋の店子たちは徳次郎がどうも苦手のようだった。大家の姿を見かけると、さも用事を思い出したような振りをして後戻りをする者や、そそくさと家の中に入ってしまうものが多い。それがタマだけだった、徳次郎の姿を見かけると飛び出してくるのは。

 徳次郎は悪い人ではないのだが、とにかく口うるさい。ごみの出し方からはばかりの使い方に至るまで、口を出さないことはない。しかもひと言いえばそれで済むことでも、ねちねちと人の神経を逆なでするような言い方をする。もっともなことを言っているのだが、言われた方はいい気がしない。だから大家を見かけると、店子たちは挨拶もそこそこにその場を立ち去って行くのだった。

 その上金にはめっぽう厳しい。仕事もしないで家賃など溜め込もうものなら、仕事に出るまで毎日押しかけて家賃の催促をする。大家が家に来るよりも、仕事に出たほうがましとばかりに、こられた家の亭主は働きに出るようになる。結果としてはそれがいいのだが。それだけに長屋の規律と金に対しては度がすぎて厳しい。おまけにあの顔だ。人にはそれぞれ生まれ持っての顔というやつがある。自分だって人のことをとやかくいえるほどの顔でも無いのは分かっているのだが……。
 
 徳次郎の場合は一言で言うと悪人顔だ。ひょろりとして人より頭一つ分背が高い、遠目には優男に見えないことも無いのだが。その人の頭ひとつ分上についている顔が問題だ。目は切れ長の二重まぶたで鼻筋は通ってはいるが、鼻の下がちょっと長めで薄い唇をしている。色が浅黒いせいか、唇の色が黒っぽい。どことなく冷酷なヤクザの親分か、手配書の回った盗賊の頭(かしら)のような風貌だ。

 本人はにっこりしたつもりでも、その笑顔に人々の背筋は凍りついてしまう。長屋の女房たちはこの頃やっと慣れたようだが、子どもたちは未だに徳次郎の姿を見かけると蜘蛛の子を散らしたみたいに一斉に逃げ出す始末だ。徳次郎は知らないのだ、子供たちが徳次郎の唇の色を怖がっていることを。

「すみません大家さん、うちの人が働きに出るまでもう少しお家賃待って貰えませんか」
お松はてっきり大家が、家賃の催促に来たのだと思ってしまった。子どもたちは大家が家に入ってくると、お松の後ろに隠れて小さくなってきる。
「いや今日はね、そんなことで来たのじゃ無いよ」
「子どもたちが何か悪さをいたしましたか」
お松は自分の後ろで小さくなっている子どもたちをちらりと見た。
「いや、そうじゃないよ。タマのことでね」
「タマが何かいたしましたか」
タマがいったい何をしたのだろうか。お松の声が一段と大きくなった。



草むしり作「わらじ猫」前7

2020-01-23 07:08:30 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前7

㈡吉田屋のおかみさん①

「どうだい、奉公に出してみないかい」
「タマを奉公に、ですか。」
目をパチクリしながらお松は大家に聞き返した。

 大家の徳次郎が持って来たのは、タマとおなつの奉公の話だった。先方は徳次郎と懇意の米屋だという。米屋は商売がら、鼠とは縁が切れない。取り扱う米の一割方は鼠の餌だとこぼしていた。タマの話を聞くと先方も大乗り気で、何とかタマを譲りうけることは出来ないかとせがまれたのだ。

「ついでにと言っちゃなんだが、おなつ坊も奉公させてみてはどうだい。子守の子どもを捜しているようだから」
「行く、あたいタマと一緒に米屋に奉公に行く」
どうしたものかと甚六とお松が顔を見合わせていると、母親の後ろに隠れていたおなつが先に返事をした。

 次の日おなつとタマは徳次郎に連れられて米屋にむかった。小さな風呂敷包みを抱えておなつは徳次郎の後を歩いていた。大家がこわいのろうか、うつむいてなるたけ大家を見ないようにしている。タマはおなつの肩に乗っている。まるで猫を背負っているように見える。朝夕はめっきり涼しくなったが、まだまだ昼間は残暑が厳しい。通りを歩く二人の背中をジリジリとお日様が照りつけていた。
 
 タマは見たものは開口一番「美しい猫だね」という。「風呂に入れるか」とも聞かれるが、もちろんそんなことはしたことがない。今もすれ違う人はタマの美しさに目を奪われたのだろうか、振りかえって見ている。
―いや違う。振り返って見るのは、おなつがタマを肩に乗せて歩いているからだろう。あんなことをする猫珍しいからな。でも重たいんじゃないか。おなつはずっと俯いたきりだ……。

 それにしてはどうも様子がおかしい。すれ違う人という人が、タマを肩に乗せているおなつを見た後は、必ず自分を見て目を伏せて行く。徳次郎はそれが気になって仕方なかった。
―うん、もしや私のことを女衒だと思っているのだろうか。売られていく少女と猫……。冗談じゃない。

「タマやおなつ坊がこれじゃぁ重たいだろうが」                                                                    
 徳次郎は慌ててタマを抱き上げると自分の肩に乗せて、おなつの風呂敷包みも持ってやった。タマの毛はサラサラとして心地よく、背中をジリジリと照らすお天道様のいい日よけになった。

「おなつ坊。背中、お天道様に焼かれちまうな」
 徳次郎は懐から手ぬぐいを取り出して、おなつの肩にかけてやった。
―この猫がついていりゃ、この子は大丈夫だ。
 徳次郎はそう思いながら米屋に向かっていった。

「おやまあ、ずいぶんと大きな子だね」
  米屋の女中のお関はおなつを見て、呆れたように呟いた。それから大げさな身振りで、頭の天辺からつま先までしげしげとおなつを見た。色が黒いし、ホッペがまん丸だと思ったが、さすがにそこまでは言わなかった。
「赤ん坊を負ぶうのだから、これくらいがっちりした子のほうがいいんだよ。赤ん坊だって骨と皮だけの子どもの背中よりも、よっぽど気持ちがいいよ」
 おかみさんはそう言って、早速おなつに赤ん坊を背負わせた。徳次郎は赤ん坊の目に髪の毛が入らないようにと、おなつの髪を手ぬぐいで包んで頭の上で結んでやった。

 赤ん坊は機嫌よく手足をぶらぶらさせていた。その日からおなつは米問屋吉田屋の奉公人になった。

 朝は使用人たちが食べ終わった後で、大急ぎでお櫃の中の残り飯に冷めた味噌汁をかけ、かきこむようにして朝食をすませる。台所の片付けが終わったころに、おかみさんが赤ん坊を連れてやってくる。赤ん坊は丸々と太り、おなつの肩に背負い紐が食い込む。それでもおなつは赤ん坊を背負っているときが一番好きだった。
 
 足でホイホイと調子をとりながら、ずり落ちてくる赤ん坊の尻に手を当てて、ひょいと上にせり上げる。しばらくすると声をたてていた赤ん坊が眠り始めた。ますます肩に負ぶい紐が食い込んできた。

 吉田屋には赤ん坊の他に十になる娘と五つになる息子がいる。姉のお糸はちょっと内気で病弱だった。朝晩はめっきりと涼しくなったものの、まだまだ昼間は暑いくらいの陽気なのだが、風邪をひかないようにと、袷の着物を着せられていた。

 食が細くすぐに熱を出す、咳は一旦出始めるとなかなか止まらず、夜中でも医者を呼びに行くことが度々あった。医者に鼠の糞や毛が原因ではないかといわれたらしい。本当はおなつよりもタマのほうが欲しかったのだろう。

 タマのおかげだろうか、この頃では家のあっちこっち散らばっていた鼠の糞も見かけなくなった。そのせいかお糸が熱を出すことも少なくなった。けれども人見知りのほうは相変わらずで、今日も家の中でポツンとしている。




草むしり作「わらじ猫」前8

2020-01-23 07:07:47 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前8
 
㈡吉田屋のおかみさん③

 庭では赤ん坊を負ぶったおなつが、弟の信二に桃太郎の話を聞かせていた。姉のお糸に比べ弟の信二のほうは、からだも丈夫で性格も明るい。奉公にあがったばかりのおなつにすぐに懐き、この頃では片時もおなつの傍を離れない。今日も朝飯を食べ終わると、もうおなつの元に走り寄ってきた。
 
「桃太郎は犬、猿、雉を家来にして、鬼にさらわれた姫さまを助けに行きました。お婆さんから貰ったきび団子を食べるとあら不思議、桃太郎は立派な若様になりました。犬は剣の達人のお侍様、猿は力持ちの相撲取り、雉は魔法の呪文を唱える和尚さんになって、鬼が島に向かいます」
 聞くとはなしに聞いていたお糸だったが、おなつの話が自分の知っている桃太郎の話と違っているのに気がついた。面白いと思う反面、嘘の話をすらすらと話すおなつが憎らしくもあった。

「おっかさん、おなつがね、嘘の話を信二に聞かせているよ」
 お糸は帳場でそろばんをはじいているおかみさんに、言いつけに行った。

 吉田屋のおかみさんは家の中で子どもの面倒を見るよりも、店の帳場でそろばんをはじいているほうが性に合っているようだ。おなつが子守奉公に上がってからは、ますます帳場で過ごすことのほうが多くなった。
「なんですねお糸、お店に出てきては駄目だってあれほど言ったじゃないかい。さっさっと奥にお戻り。話は後で聞くから」
 振り返ると、もうお糸はいなかった。
―あの子何しに来たのかしら。
 ちょっと気にはなったが、どうも帳面が合わない。そちらのほうがもっと気になるのか、おかみさんはお糸のことはすぐに忘れてしまった。

「おとっつぁん、おなつが嘘ばっかり信二に教えているよ」
  お糸の方は母親に脈がないと分かると、すぐに父親に言いつけにいった。父親のほうは店の中でお客の相手をするよりも、人足に混じって重たい米俵を担いでいるほうが性に合っているのだろう。体格も店の中の誰よりも大きく、力は人足にも引けをとらなかった。  

   今も大八車で運びこまれた米俵を蔵の中に運び終わって、人足たちと一緒に一息ついているところだった。
「いやね、タマって言うんだがね。それが来た早々こんなでっかい鼠を三匹も捕ってね、しかもわたしの部屋の前に並べているんだよ。朝起きて障子を開けたとたん、もう腰を抜かしちまうところだったよ」
 どうやらタマの自慢話を始めているようだ。タマが来てから鼠が減ったからだろう。

おとっつぁんとおっかさんはこのところずいぶんと機嫌がいい。
「おとっつぁん、おなつが信二に……」
 言い終わらないうちに追い払われてしまった。

   おっかさんときたらいつも帳場でそろばんをはじいてばかり、おとっつぁんも米俵を担いでばかり。縁側でお糸が涙ぐんでいると、庭の飛び石の上からタマこちらを見ていた。
 
  タマは好き嫌いがはっきりしている。だんなやおかみさんには懐いていたが、子どもは嫌いなのだろう、お糸や信二、店にいる二人の丁稚たちを見ただけで逃げていく。反対に大人の使用人にはけっこう懐いているのだが、誰でもといいというわけでもなかった。猫が嫌いだと言うお関などには、寄りつきもしかった。

「あっちに行ってよ、シィシィ」 
 お糸はタマを追い払おうと、持っていたはたきを振り回した。するとタマは地面に低く伏せ獲物を狙うような格好をした。尻尾をプルプルと振ながら、はたきに飛びかかる機会を狙っている。

―面白い。
 お糸の振るはたきにタマが飛びついて来た。小さく地面を這うように振れば、タマも地面に伏せて飛びかかる隙を狙っている。大きく振り回すと今度ははたきに向かって飛びかかってくる。お糸はいつの間にか夢中になってはたきを振り回していた。
 
   ふと顔を上げると、信二と赤ん坊をおぶったおなつが食い入るようにこちらを見ていた。
「ずるいよ、姉さん。おいらにもやらせておくれよ」
 信二がお糸のはたきを取り上げると、タマに向かって振り始めた。
 
 奉公人とお店の子どもの違いはあるが、同じ年頃の子ども同士だ。きっかけさえ掴めば仲良くなるのに、たいした時間はかからなかった。

 今日もまたおなつは赤ん坊を背負ったまま縁側の踏み石の上に腰をかけて、信二にせがまれるまま桃太郎の話を始めていた。お糸もタマを膝に乗せて、縁側で信二と並んでおなつの話を聞いている。子どもたちはおかみさんが通りかかったのも気づかないようだ。おなつの話はいよいよ大詰めに入った。

「とうとう鬼を退治した桃太郎たちは、鬼が島の奥深く、高い城壁に囲まれた城の前にやってきました。この城の中には都の姫様が囚われていました。姫様は鬼の呪いによって眠り続けております。桃太郎が門の前に立つと固く閉ざされていた門は、まるで桃太郎を待っていたかのようにひとりでに開きました。城の中の天守閣に姫様は眠っておりました。桃太郎は……」
「おなつ、なんだいその話は」
おかみさんは子どもたちの後ろから声を掛けた。

 おなつの話に固唾を呑んで聞き入っていた信二は、驚いて縁側から転げ落ちそうになった。とっさにおなつが襟首を掴まなければ、踏み石に頭を打ちつけるところだった。お糸の膝の上で丸くなっていたタマも驚いたのだろう、あわてて縁の下に潜りこんだ。

「なんだ、おっかさんか。鬼が出てきたのかと思ったじゃないか」
 大笑いをするお糸と信二の横でおなつは申しわけなさそうに俯いていた。
「これお糸、なんだねぇその笑い方は。お店のお嬢さんはね、口に手を当ててこうやって笑うのだよ。おほほほほ」
―この子がこんなに笑うなんて
 おかみさんは大口を開けて笑うお糸をたしなめるものの、嬉しくもあった。それにしても、そろばんが合わない。まだ笑い転げている子どもたちを残して、帳場机の前に座った。

草むしり作「わらじ猫」前9

2020-01-23 07:07:05 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」前9 

㈡吉田屋のおかみさん④

 次の日おかみんは貸し本屋から、御伽草子を借りてきた。おなつの桃太郎も悪くは無かったが、信二があれを本当の桃太郎の話思い込んでしまっては困ると思ったからだ。

 ためしにおなつに読ませてみた。一年ほど手習いに通ったと聞いたが、抑揚を付けた読み方は感心するほど上手だった。これは意外と見込みがあるかも知れない。丁稚たちと一緒にそろばんを仕込んでみようかと思った。

―それにしてもおかしい、帳尻が合わない。
 何度そろばんを置き直しても、やはり合わない。おなつのことどころでは無くなった。

 貸本を両手に抱え、信二はおなつが台所の片づけが終わるのを待っている。やっと鍋を洗い終えたころ、お関が手習いに行ったお糸の迎えを言いつけた。
「坊ちゃん帰ったら読みますからね」
おなつは慌てて表に飛び出していった。

 けっきょく信二が新しく借りた御伽草子を読んでもらえたのは、昼間の八つのころだった、その時間は店の奉公人たちも一休みする。おなつは信二にせがまれるままお茶の支度を終えると、いつものように縁側の踏み石の上に腰掛けて本を読み始めた。ふと誰かに見られている気がして顔を上げた。丁稚たちが遠巻きにおなつの読んでいる本の話に聞き入っていた。それからは毎日八つの休憩時間は、おなつが本を読む時間になった。

 おなつが奉公に上がったばかりの頃、丁稚たちは「おなつ大木、一本松。七月八日の大嵐、雷落ちて真っ黒け、鍋の底よりまだ黒い。」などと節をつけてはやしたてていた。だがこの頃ではそんなこともしなくなった。おまけに八つには休憩できるように仕事の手際も良くなった。そのおかげでだんなの機嫌がすこぶるいい。

 体が弱く内気だったお糸は、手習いのほうも休みがちだった。しかし年下のおなつが自分よりも上手に本が読めるのに発奮したのか、手習いに進んで行くようになった。タマのおかげで鼠もほとんどいなくなったようだ。おかげでお糸が咳き込むこともなくなった。

 おかみさんは相変わらず帳場でパチパチとそろばんをはじいている。何度も置きなおしては考えこんでいる。
「お前さんちょっとこれを見ておくれでないかい」
 タマを膝に乗せてお茶を飲みながら、おなつが本を読んでいるのを聞くとは無しに聞いていた、だんなに声をかけた。
 
「毎度、魚屋でございます」            
 太助はおなつが吉田屋に奉公に上がると、時折顔を見せるようになった。「出入りの魚屋があるからと」初めのうちこそ太助を追い返していたお関だったが、愛想のいい太助とはすぐに打ち解けた。おまけに太助は包丁などを気安く研ぐので、この頃ではワカメや煮干などの乾物は太助から仕入れるようになっていた。

「お関さん、上物のワカメが手にはいったよ。それから烏賊(いか)が大漁でね、塩辛を作ってみたんだけど」
 太助はお関に頼まれていたワカメの包みと一緒に、塩辛を包んだ小さな包みも渡した。

 何か口実を付けてお関にちょっとしたものを持って来ては、そのついでに包丁研ぎも請け負う。いつもおなつの顔をちょっと見ると安心したように帰っていく。帰りしなに長屋の家族の話をほんの少しだけして行く。

「おとっつぁんの足はだいぶ良くなって、借金は棟梁が肩代わりしてくれたそうだ。」

 お関は太助の気持ちは分からなくもないが、厳しく仕込むのが本人のためだと思っていた。それでなくてもこの頃だんなやおかみさんは、おなつに甘くなっている。
おなつが奉公に上がってもうじき三ツ月になる。最初のころはお関に布団をはがされないと起きられなかったが、今ではお関が起きた頃には飯が炊き上がっている。
 
 お関にはおなつを一人前に仕込もうとするあまり、少し度がすぎて厳しいところがあった。歳の割には体が大きく肉づきのいいおなつは、見方によっては愚鈍に見えるときがある。頭ではまだ九つだと分かっているのだが、こんな大きななりをして、これくらい事が出来ないのかと思うこともある。それが何度か続くとイライラしてしまい。罰に夕飯を食べさせなかったりもした。

 しかしそんなときに限ってタマが特大の鼠を捕ってきて、だんなの部屋の前に置いておく。だんなは大喜びで小僧に片付させると、おなつに褒美の饅頭を食べさせる。タマは汁かけ飯しか食わないので、代わりにおなつに褒美をやるのだった。

「不思議な猫だねぇ。いいかいあたしはね、おなつが憎くって叱るわけじゃないんだよ」
汁かけ飯を旨そうに食うタマにお関が話しかけた。