西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 17

2006年02月01日 19時43分57秒 | 小説
 二学期初めての国語の授業。担当は担任の白川先生である。浩人はこの日の為に予習をしていた。一学期の終業式の日に、夏休みの宿題として先生から配られた、短歌のプリントがあった。浩人はそのプリントにある歌人や、短歌の解説の載った参考書を二冊購入し、ノートに書き写して授業に臨んだ。
「じゃあ、夏休み前に渡したプリントを出して――」
 かなり多くの者が、プリントを持ってきていなかった。
「何でや? 忘れることがあるか!」
男みたいな強い口調の白川先生の苦言に首をすくめながら、ガサゴソと机を動かす奴が教室のあちこちに出た。プリントを見せて貰う為に、自分の机を隣の奴の机とくっ付けたのだ。皆その程度だった。宿題の意味がよく分かっていなかった。だから浩人には、その後の状況もすぐに想像ができた。この時恐らく、白川先生にも同じ想像ができていたであろう。
「では初めの正岡子規、調べてきた人……」
 誰も手を挙げなかった。案の定想像通りであった。そんな状況の中で手を挙げることを一瞬躊躇(ちゅうちょ)した浩人だったが、参考書まで買って勉強してきたことを考えると、やはりじっとその場をやり過ごすわけにはいかず、やや勇気を出して、一人、手を挙げた。
「お……」という声とともに、思わず浩人に対して驚きの表情を見せた白川先生は、自ら取り繕うように皆の方に向き直り、呆れた表情でこう続けた。
「え? 何やこれは? あんた達はどういうつもりや? こんなんでほんまに数ヵ月後に受験する気なんか? それでも皆受験生か? 調べてきたんは栗栖君だけか……?」
 立て続けの疑問符を導入部にして、先生は浩人に発表の場を与えた。それから先は、浩人の独壇場となった。子規・啄木・鉄幹・晶子・茂吉らの経歴や、歌の解釈を述べた。目立ち過ぎた。後で「出過ぎた真似を……」とヤキをいれてくる奴が出てはこないかと、少し心配した浩人であったが、やれやれそこまでのワルはおらず、取り越し苦労に終わった。むしろこの浩人の「出過ぎた真似」は、皆の勉強熱に火を着けることとなった。次の日から、浩人が授業で発表する機会は極端に少なくなり、皆は競うように勉強をし、発表をするようになった。何かが変わり始めた。暗い教室に、リーダー大宅の死。方向性を見失いかけていた三年二組に活力を与えられるのは、ひょっとしたら自分ではないかという自負心を、同時に少しばかり抱き始めた浩人だった。

(続く)