西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

北校舎 26

2006年02月12日 23時05分00秒 | 小説
 教室に戻った浩人は、ゆっくりと、そして深々と、自分の席に腰を下ろした。そうして少しずつ、自分の胸が熱くなってくるのを感じていた。白川先生は、一人一人を教卓の前に呼び出し、式の際に貰った卒業証書を収める緑色の筒を「おめでとう」の言葉を添えて手渡し、その一人一人と握手を交わした。皆一様に照れ臭そうに握手をした。白川先生の手は分厚く、顔と同じく皺だらけの割には、つやつやしていた。ただそれよりも浩人が気になったのは、先生の髪の毛が一学期の頃と比べて、少し薄くなったように感じられたことだった。確かに、浩人にとっても大変な一年ではあった。しかし四十人分もの大変を背負ってきた白川先生の苦労は、浩人ら生徒には計り知れるものではない。白川先生の髪の毛の間に透ける地肌を見て、浩人の胸はなお熱くなった。
 全員との握手を終えて白川先生は、皆にお祝いと餞(はなむけ)の言葉をくれた。が、申し訳ないことに、浩人はその言葉をほとんど憶えていない。
「ありがとうございました、白川先生。ありがとう、大宅君……」
 握手の後、心の中でずっとそう呟き続けていた浩人には、先生の言葉が聞こえなかった。
 語ることはすべて語った。そんな清々しい表情で、白川先生は教卓を整え、皆にも机を整えるよう促した。そして先生は、この日まで化けて出てくるなんぞということもなく、ずっと教室の前で皆を見守ってくれていた大宅の遺影を片付け、その脇に飾られていた花瓶に手をやった。
「この花は、この人にあげたいねん」
 そう言って先生は、大宅の遺影に手向けてあった一輪の真赤なカーネーションを、浩人に手渡した。それは白川先生からの、そして大宅からの、最高の祝福の印であった。
「起立! 礼!」
 学級委員の最後の号令とともに、最後の挨拶をした。教室の所々には、啜り泣いている女子が何人かいた。
「ありがとう。ありがとう。ありがとう……」
 白川先生に、大宅に、皆に、そして机に、椅子に、教室に、この一年に……。浩人は「ありがとう」の言葉を繰り返し呟きながら、名残惜しいその教室を出た。

 北校舎から正門までの中庭には、先生方と後輩達によって、短い花道ができていた。
「おめでとう。よう頑張ったな。元気で……」
 卒業を祝う言葉と拍手のアーチを潜って、浩人は正門を出た。そして振り返り、その日も相変わらず煤ぼけた色をした北校舎に、もういちど「ありがとう」の言葉を捧げた。
 照れ臭そうに笑みを浮かべた浩人が、その手に緑色の筒と真赤なカーネーションを握りしめ、ぼろぼろの木橋を西へ渡った頃、暖かい春の太陽は、まだ南南東の空にあった。

(完)


私の処女小説『北校舎』は、今回にて完結致します。
またこれにて既存の拙作は、すべてご紹介を終えたことになります。
長らくのご愛読、誠に感謝申し上げます。ありがとうございました。

著者 河村 宏正