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西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

カームラ・K

2006年02月15日 15時05分01秒 | Weblog
カームラ・Kについて。

今は亡き祖父の言葉。「<河村>は<かわむら>ではなく<カームラ>と読む…」と言ったことから、HNや芸名等には<カームラ>を使用している。

カームラ・Kの「K」は「こうしょう」の頭文字。
本名を「河村宏正(かわむらひろまさ)」といい、また法名を「釈宏正(しゃくこうしょう)」といい、芸名&筆名を「河村宏正(カームラコウショウ)」と名乗っている。


法名(ほうみょう)とは仏様からいただいた名前。他の宗派では「戒名」と言ったりもするが、我が家が先祖代々信心する、浄土真宗本願寺派では「法名」と呼ぶ。
「帰敬式(ききょうしき)=おかみそり」という儀式を受けた後に、いただく名前。キリスト教に例えると「おかみそり」は洗礼にあたり、「法名」はクリスチャンネームにあたる。
戦国武将風に名乗るならば、差し詰め「河村釈宏正入道宏正(かわむらのしゃくこうしょうにゅうどうひろまさ)」ということになろうか…?

2月14日

2006年02月14日 18時20分00秒 | Weblog
今日2月14日は、祖父の命日である。

しかし25年前の今日、実の娘である母も、実の孫である私も、祖父の死を知らなかった。母にとっては継母にあたる義祖母が、祖父の遺産をすべて独り占めした上、人知れず九州の妹の元に身を寄せるべく、その死を我々身内に知らせなかったのである。
数日後に祖父の死を知った母が早速調査したところ、家屋敷も既に売りに出ていたので、慌てて物件を差し押さえたりして、裁判をしようと奔走した。その後「財産は娘家族には一切渡さない」という疑惑の遺言状も見付かり、刑事裁判をも検討したが、義祖母の高齢さと裁判の長さを考慮して訴訟を起こす事を断念。結局、泣く泣く遺産の4分の1の遺留分確保で決着した。

世間がバレンタインデーで浮かれている今日。我々家族には、あの忌まわしい過去が甦る今日である。合掌。

小説ひとまず

2006年02月13日 17時53分00秒 | Weblog
昨年12月4日に始めた小説の連載も2ヶ月余り続き、昨日で一段落。既存の4作品、すべての紹介を終えた。

どの作品も、書下ろしから5~10年ぐらい経っているので、自分でも久しぶりで新鮮な出会いがあった。なんと言っても、若い。いい意味でも悪い意味でも、若い。コスモス文学新人賞入選の2作品『BW(ブルーウェーブ)』と『北校舎』は、さすがに手直しすることはほとんどなかったが、他の2作品『アジサイ~地下鉄の声~』と『蟻に訊きたし』の原稿には、赤ペンで手直しだらけ。ここ数年で、やはり多少の進歩や成長があったのだろうか?昔の自分に「若いなあ」と思った。
さて、今後の執筆活動については…、現在検討中。今までの作品から得られた反省点を生かし、新たな作品に取り組むべく考えている。とは言え、新作書き下ろしまでにはあと何ヶ月、いや何年かかることやら…?
ただ今までの作品はあまりにも平坦過ぎたように思うので、次回作はもっと恋愛や愛憎、人の生き死にに関わるような、男女や人間同士のグチャグチャドロドロしたような部分を描き、人間の内面をえぐるような作品に出来ればと思っている。

さて、気長に考えていくか・・・。

北校舎 26

2006年02月12日 23時05分00秒 | 小説
 教室に戻った浩人は、ゆっくりと、そして深々と、自分の席に腰を下ろした。そうして少しずつ、自分の胸が熱くなってくるのを感じていた。白川先生は、一人一人を教卓の前に呼び出し、式の際に貰った卒業証書を収める緑色の筒を「おめでとう」の言葉を添えて手渡し、その一人一人と握手を交わした。皆一様に照れ臭そうに握手をした。白川先生の手は分厚く、顔と同じく皺だらけの割には、つやつやしていた。ただそれよりも浩人が気になったのは、先生の髪の毛が一学期の頃と比べて、少し薄くなったように感じられたことだった。確かに、浩人にとっても大変な一年ではあった。しかし四十人分もの大変を背負ってきた白川先生の苦労は、浩人ら生徒には計り知れるものではない。白川先生の髪の毛の間に透ける地肌を見て、浩人の胸はなお熱くなった。
 全員との握手を終えて白川先生は、皆にお祝いと餞(はなむけ)の言葉をくれた。が、申し訳ないことに、浩人はその言葉をほとんど憶えていない。
「ありがとうございました、白川先生。ありがとう、大宅君……」
 握手の後、心の中でずっとそう呟き続けていた浩人には、先生の言葉が聞こえなかった。
 語ることはすべて語った。そんな清々しい表情で、白川先生は教卓を整え、皆にも机を整えるよう促した。そして先生は、この日まで化けて出てくるなんぞということもなく、ずっと教室の前で皆を見守ってくれていた大宅の遺影を片付け、その脇に飾られていた花瓶に手をやった。
「この花は、この人にあげたいねん」
 そう言って先生は、大宅の遺影に手向けてあった一輪の真赤なカーネーションを、浩人に手渡した。それは白川先生からの、そして大宅からの、最高の祝福の印であった。
「起立! 礼!」
 学級委員の最後の号令とともに、最後の挨拶をした。教室の所々には、啜り泣いている女子が何人かいた。
「ありがとう。ありがとう。ありがとう……」
 白川先生に、大宅に、皆に、そして机に、椅子に、教室に、この一年に……。浩人は「ありがとう」の言葉を繰り返し呟きながら、名残惜しいその教室を出た。

 北校舎から正門までの中庭には、先生方と後輩達によって、短い花道ができていた。
「おめでとう。よう頑張ったな。元気で……」
 卒業を祝う言葉と拍手のアーチを潜って、浩人は正門を出た。そして振り返り、その日も相変わらず煤ぼけた色をした北校舎に、もういちど「ありがとう」の言葉を捧げた。
 照れ臭そうに笑みを浮かべた浩人が、その手に緑色の筒と真赤なカーネーションを握りしめ、ぼろぼろの木橋を西へ渡った頃、暖かい春の太陽は、まだ南南東の空にあった。

(完)


私の処女小説『北校舎』は、今回にて完結致します。
またこれにて既存の拙作は、すべてご紹介を終えたことになります。
長らくのご愛読、誠に感謝申し上げます。ありがとうございました。

著者 河村 宏正

北校舎 25

2006年02月11日 23時38分01秒 | 小説
「俺でも風邪ひいてへんのに、何でお前らが風邪ひかなあかんねん」
 これは受験シーズンを直前に控え、風邪による欠席者が増え、危うく学級閉鎖になりかけた時の浩人の台詞である。友達と話をするのも面白い。スポーツをするのも勉強をするのも、数学だって面白い。こんな面白い学校を休むなんて損だ。自分は今まで、何て勿体ないことをしてきたんだろう……。浩人は、そこまで思えるようになっていた。それに浩人は風邪もひいていない。病弱だったはずの浩人が、これだけ風邪が流行っているにも拘らず、何ともなかった。三学期、浩人は学校をほとんど休まなかった。休んだのは、私立高校の受験に失敗し、やけ酒に梅酒を飲み過ぎて、泣いて泣いて泣き明かし、目が腫れあがったその顔が余りにも醜く、格好悪かったので休んだ、ただその一日だけだった。
 固く閉ざされていた多くの扉が、すべて開いたような気分だった。だがしかし、気が付けば一年は短かった。せっかく開いたどの扉にも、深く入って行く時間がなかった。もっと勉強もしたかったし、友達ももっとたくさん作ってもっと遊びたかった。できれば恋もしたかった。そういったことにやや欲求不満を残しつつも、浩人はそれから間もなく、卒業の日を迎えることになった。

 講堂で行われた卒業式は、浩人にとって、余り感動的なものにはならなかった。半月ほど前から、毎日のように予行演習をやらされていると、本番の日にはもう気分は冷めてしまっていて、感動もへったくれもありはしない。それに一度受験に失敗し、まだ進路が決まっていない浩人としては、次に受ける入試のことで、頭がいっぱいだった。それでも一筋縄ではいかなかった卒業なのだから、感極まって泣いてしまうんじゃないかなとも思っていたが、やはり涙は出なかった。そんな型通りの卒業式よりも、その後の教室での数分間の方が、浩人には忘れることができない。

(続く)


『北校舎』は、次回で完結します。

北校舎 24

2006年02月10日 21時15分00秒 | 小説
 最終章


 冬休みは永かった。慌ただしい年末年始の二週間を、これほど永く感じたことはなかった。三学期が待ち遠しく思った。しかし一方で、三週間余り後に迫る高校受験が、重くのしかかってもきていた。三学期に入ると、さすがに教室にも、受験への緊張感が漂い始めた。
 朝、浩人は白い息を吐きながら、北校舎の階段を一気に三階まで駆け上がった。そしていつも通り三年二組の教室の扉に手を掛けようとした時、全身がぴくり、として固まった。廊下から教室の中を覗くと、窓の薄っぺらな板ガラスの向こうに、何人か人が見えた。大勢の生徒がいる。まだストーブに火も入っていない寒い寒い教室には、音もなく声もなく、二十人ほどの生徒が机の上のプリントに向かっていた。よく見ると黒板の前には、裾の長い白衣を着た数学の里村先生がいた。生徒の顔ぶれも、二組の者だけではなく、見馴れない他のクラスの生徒もいる。受験対策に数学の特別授業が、早朝から行われていたのだ。浩人は数学が大の苦手で大嫌いだったから、そんな授業が始まっていたなんてことを、気にも留めていなかった。それにしても、思わぬ閉め出しをくらってしまった形になった。
「よりによって、二組の教室使わんでもええやないか」
 特別授業が終わるまで、浩人は廊下に突っ立って、ブツブツぼやきながら待った。授業の後、誰かの尻に温められた椅子に座るのは、どうも気色のいいものではなかった。
 そういう朝が何日か続いた。その何日目の朝であったか、やはり浩人が廊下に突っ立って、特別授業が終わるのを待っていると、教室から里村先生が出てきた。
「君もやってみるか」と、先生は数字や放物線ばかり書かれた、プリントを差し出した。「え……、いや、僕はいいです」と拒む浩人の背中を軽く叩きながら「ほれ、ええがな、まあそう言わんとやってみいな、ほれほれ……」と、里村先生は浩人をせき立てるように教室に招き入れた。特別授業は、受験対策に本格的に勉強したい者だけが受ける為の授業であって、自分のような数学劣等性が受ける為の、補習授業ではないのに……と浩人は思った。教室では何か場違いな感じで、自分だけが浮いているようにも思った。
 しかしそんな数学音痴の浩人にも、里村先生は優しかった。机の上に置かれた数字だらけのプリントを前に、ただ茫然と頭を抱えていた浩人に、里村先生は、懇切丁寧(こんせつていねい)に教えてくれた。それはまるで、猿にものを教えるようであった。浩人は内心少々情けなく、恥ずかしくもあったが、同時に里村先生には有難く、嬉しかった。それから浩人は、自ら率先して出席した。毎日朝早く、この特別授業に出席する内に、それまで皆目解らなかった因数分解の問題が、やがて解けるようになった。複雑な問題は、さすがに手に負えなかったが、それでも浩人には、画期的な進歩であった。

(続く)

北校舎 23

2006年02月09日 21時04分00秒 | 小説
 香川克利は、一学期のあの終業式の日に、大宅と大喧嘩をした奴である。その直後の夏休みに大宅が死んで、香川と大宅は、文字通りの喧嘩別れとなってしまった。香川にしてみれば、さぞ後味の悪いことだったであろう。その香川とも、浩人は仲良くなった。切れ長の眼光鋭い目で、大宅に殴り掛かっていく香川を見た時の印象から、浩人は香川のことを、相当野蛮なワルかと思っていた。が、実際付き合ってみると、単なるやんちゃ坊主であったことが判った。香川は浩人のことを「栗栖君」と呼ぶ。君付け派の中でも、妙に馴れ馴れしく、いつの間にか浩人を兄のように慕っていたし、浩人もそんな香川を弟のように思っていた。そして香川もまた、大のクルマ好きであった。
 その香川が、一度盗みを働いた。校内に駐車してあったスカイラインの、ヘッドライトの横に付けられていた<GTR>のエンブレムを盗んだ。スカイラインの持ち主は、大黒先生であった。浩人は勿論、共犯者ではない。しかし大黒先生の困惑する顔を想像すると、浩人は盗人香川を責める気にはならず、むしろ褒めてやりたい気もした。だが、悪事はそうそう旨くはいかない。香川の盗みはすぐに見付かり、大黒、白川両先生から、後で大目玉を食らうことになってしまった。

(続く)

北校舎 22

2006年02月08日 16時42分00秒 | 小説
 ひと通り掃除を終えて、教室の後ろの隅にある、細長く背の高い用具入れのロッカーに箒を仕舞おうとしていた時、「あ、栗栖や」という声が聞こえた。自分の名前を聞いて、はて何のことだろうかとロッカーの扉を閉めて振り返ると、教室の一角に十人ぐらいの輪ができていた。輪の中心には、鶴見健治(つるみけんじ)がいた。鶴見は陸上部のスプリンター。二学期に入って引退したばかりで、スポーツ刈りの髪の毛はまだ伸びきっていない。格好のいいスポーツマンタイプではないが、三枚目の面白さを持った、さわやかな奴である。ちなみに鶴見は、呼び捨て派であった。
 浩人がその輪に近寄ると、鶴見を取り巻いていた何人かの女子が、どことなく気まずい笑みを浮かべながら、浩人に道をあけた。鶴見の手には、卒業アルバムがあった。鮮やかな青い表紙に、金色の「75」の文字が光る。今年のものだ。だれかが兄姉(きょうだい)か先輩から、借りてきたものらしかった。
「ほれ、ここに栗栖載ってるわ……」
 鶴見は、浩人にアルバムを差し向けた。覗き込んで見たページには、集合写真があった。真ん中最前列にどっかと座る大黒先生の大きな体が、やけに目立つ。三年八組の写真だった。そして鶴見は、大黒先生と並んで写っている、生徒達の最後列のなお上の、背景に見える講堂の壁の右隅にポツンと浮かぶ、風船のような丸いものを指さした。その丸の中に浩人がいた。この写真がいつ撮られたのか、浩人は知らなかった。浩人の知らない間にこの写真は撮られ、浩人の顔は知らない内に風船の中で浮かんでいた。長く長く欠席していたのだから、知らされていなくても仕方がないだろう。でも浩人には、それがなぜかショックだった。
「……ふ~ん」
 それしか言葉は出てこなかった。そして次の瞬間、急に胸が締め付けられるように苦しくなった。その胸の苦しみは、去年悩まされた原因不明のあの胸の苦しみと、全く同じ苦しみであった。不明だった原因が、やっとその時、判ったような気がした。
 家に帰った浩人は、改めて過去と訣別できたことを喜んだ。もう苦しくはない。そしてこの同じ頃、父長保も退院した。浩人の周辺とその前途は急激に明るさを増し、晴れ晴れした気分であった。

(続く)

北校舎 21

2006年02月07日 22時45分00秒 | 小説
 十一月初めの、ある日の放課後。その日の掃除当番だった浩人は、箒を持って教室の床を掃いていた。するとしばらくして、その箒を浩人の手から奪い取った女子がいた。牛場陽子(うしばようこ)である。牛場は同じクラスの女子といるより、隣のクラス、一組の中臣道子(なかとみみちこ)と特によく一緒にいた。中臣は、浩人の家のすぐ近くにある魚屋の娘で、いまでこそ浩人と言葉を交わすこともなくなったが、幼い頃一緒に遊んでいる写真が、浩人のアルバムにはある。実はひと月ほど前にも、中臣は浩人に学生服を借りていた。体育祭で応援団に駆り出された中臣は、扮装として着る、男物の学生服の調達に困ったあげく、近所のよしみを頼って、自分の母親から浩人の母親を通じて、浩人の古い学生服を借りたという経緯もある。その中臣の親友が牛場である。
 どうやらその牛場は、箒の使い方が下手な浩人を見るに見兼ねていたらしい。浩人に近寄ってきていきなり「貸してください」と言って箒を自分の物にした。何か怒っているのだろうか?、とも思った浩人であったが、牛場の表情は、そのようには見えなかった。彼女は慣れた手つきでサササッと床を掃くと「お願いします」と言って、掃除の為に一旦教室の後方に引き下げられた机のひとつを、元の位置に運んでくれるよう、浩人に促した。まるで「箒を持つのは私の仕事、机を持つのはあなたの仕事」とでも言われてこき使われているような気もしたが、また「お願いします」「ハイッ」「お願いします」「ホイッ」と続けていると、牛場も楽しそうに見えたし、何となく、浩人も楽しい気分になった。少なくとも、男同士で向かい合って弁当を食うことよりもよほど楽しかった。が、残念ながら牛場の真意は、浩人にはその後も判らなかった。

(続く)

北校舎 20

2006年02月06日 17時48分00秒 | 小説
 加頭は、亡くなった大宅と同じ団地に住んでいて、大宅とは幼なじみ。もう一人の浜口は、医者の息子である。ちなみに後に判ったことであるが、この浜口の姉は、浩人の兄、満保と同級生であったらしい。加頭も浜口も性格は明るいが、真面目タイプでやや大人しいめのグループに属しており、浩人もやがて、自然とこのグループに属すことになっていった。
 学校へ行くのが楽しみになった。早退するのが勿体なくなって、午後からの授業も出るようになった。昼休みに独りで弁当を食べていると、加頭が寄ってきて「一緒に食べよう」と言う。浩人は、そんな遠足やオママゴトみたいなことはしたくもなかった。だが加頭は、嫌がる浩人の机を無理やり皆の所へ引き摺っていった。男同士五、六人で向かい合って飯を食うなんて、何か気持ちが悪かった。けど、新しく親しい仲間ができた実感は、本当に気分が良かった。
 友達とは話をするだけでなく、体も動かした。机を二つくっ付けた即席の卓球台と、素手のラケットで卓球もした。グラウンドに出て、サッカーもした。体が弱いのが原因で留年をしたと聞いていた皆は、スポーツする浩人に驚いていた。中でも一番驚いたのは白川先生だった。
「えっ。栗栖君がサッカーしてるか? 大丈夫なんかいな?」
 目を丸く、びっくりして大きな声をあげた先生に、浩人は平気な顔で頷(うなず)いた。なおもグラウンドを走り回る浩人を見ながら、白川先生は一度丸くした目を今度は細め、また顔を皺だらけにして笑った。

 加頭や浜口ら近しい友達は、浩人のことを「栗栖君」と、君付けで呼んだ。他の連中は「栗栖」と呼び捨てにした。初めの内はこの連中の呼び捨てに、ムッとしたこともあった浩人であったが、自分はもう彼らの先輩ではなく、同輩になったんだと思えば、腹も立たなくなり、距離感のない敬称略は、むしろ嬉しくもあった。

(続く)