前回の記事に、コメント欄で崩御日がユリウス暦で換算するかグレゴリオ暦で換算するかで違うと、指摘を受けました。
HNが「名無し」だったので、等ブログの約束により承認はしませんでしたが、有意義なご指摘と思い調べてみました。
・西暦には1582年10月4日まではユリウス暦、次の日からはグレゴリオ暦という変換があった。
(ユリウス暦の1582年10月5日はグレゴリオ暦では1582年10月15日)
(ユリウス暦の1582年10月5日はグレゴリオ暦では1582年10月15日)
・明治5年(1872)11月、太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦を発表 。
明治5年12月3日をもってグレゴリオ暦の明治6年1月1日となり、以降の和暦月日は現行西暦と同じになる。
改暦最初の太陽暦。前文に太陽暦の原理と定時法の説明がある。突然の改暦のため、明治5年末までには行きわたらなかった。神武天皇の即位から年を数える皇紀(明治6年は紀元2533年)が入り、上欄には歴代天皇の祭典等が記載されている。
上欄 升目と日が決まっている四方拝 元始祭の位置から、以下のように日割できる。
天智天皇 1月1日 天智天皇10年12月3日崩御 wiki672年1月7日
四方拝 1月1日
清和天皇 1月2日 元慶4年12月4日崩御 wiki881年1月7日
崇神天皇 1月3日 崇神68年12月5日崩御(120歳)※
元始祭 1月3日
安寧天皇 1月4日 安寧天皇38年12月6日 崩御※
元明天皇 1月5日 養老5年12月7日崩御 wiki721年12月29日
武烈天皇 1月6日 武烈天皇8年12月8日 ※
😐 ※wikiに西暦の記載なし。wikiは1582年10月15日以前の天皇崩御日はユリウス暦で換算しているらしい。崇神天皇、安寧天皇、武烈天皇を実在しない天皇とみて換算しなかったのか?
😐 改暦最初の太陽暦がグレゴリオ暦で、wikiがユリウス暦で天皇の崩御日を換算しているとすれば、ユリウス暦よりグレゴリオ暦の日付が後になるような気がするが、天智天皇清和天皇の崩御日の日付がユリウス暦のほうが後になっているのは夫々の崩御日設定の違いか?
元号の無い時代の天皇は即位の年も崩御の年も推定、まして日付は?
😐 令和4年(2022年)1月2日に元明天皇1300年式年祭が行われているが、これはどう理解するべき?
元号が無かった時代あり、正しさを求めて改暦を重ねた和暦、正しさに近づけるためにユリウス暦からグレゴリオ暦へ変換した西暦。
暦が入り乱れてややこしい。
加えて歴史的崩御日は恣意的に変えられている可能性あり…。
来たる5月19日は後亀山天皇六百年式年祭(応永31年4月12日崩御)であるが、宮内庁の暦には後亀山天皇の崩御日は本当は何日と記されているのでしょう?
wikiにはおそらくユリウス暦で変換して1424年5月10日とある。
七夕もひな祭りも和暦から西暦になり季節感ずれまくり、果たして日付が正確かどうかも不明な古の天皇の崩御日の西暦を気にするのは馬鹿らしいと言ってしまえば身も蓋もないか。
しかし崩御日が定かでなくても、恣意的に変えられていても、西暦の換算が人によって違っていても、天皇は確かに存在した。崩御日は「天皇は存在した」のシンボルみたいなものでしょう。
仏教の命日が「その人が存在した」の証であるように。戦争、災害等で命日が確定できなくても日を定めて供養はする。
本当なら、こうした事も宮内庁が式年祭の祭日をどのようにして定めているかを説明すべきでしょうね。
wikiで歴代天皇の崩御日を検索した者達がユリウス暦で記された日付と天皇が臨む式年祭祭日の日付との相違に戸惑うならまだしも、宮中祭祀なんていい加減なものだと思いかねない。
宮中祭祀をいい加減なものだと思っている人々には、雅子さまの祭祀全欠席の異常さが解らない。
皇室祭祀令が定められたのは明治。
国内で用いられてきた暦を旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦=グレゴリオ暦)に変えるとき、祭祀の日程については政府も頭を悩ませたでしょう。
結局、「崩御日『ニ相當スル日』」という文言を付け足して、幅を持たせたのでしょうね。忌み日で祭祀が出来ない日もあることでしょうから。
「相当する日」を良いように解釈して祭祀の日付をずらすのは本来の主旨に反するような気もしますが、祭祀令自体が既に廃止され「祭祀令に準じて祭祀を行って」いるので、仕方ないのかもしれません。
しかし知らないことが多くて大変面白いです。いつも記事をありがとうございます。
雅子さんと徳仁さんが今日赤にしている「無理強い=愛子に合わせて=愛子を褒め称えさせる設定」を見ていると、これまで学習院に強いてきた数々がリアルに目に浮かぶようです。20年近く(一応閉ざされた)学習院の中でなされていたことが、今日赤で衆人の目の前で行なわれているのです!ある意味、感動します!よくもまぁ、と😣学習院では、最後は院長を外務省人脈にしましたが、日赤はあらかじめ「愛子天皇人脈」ですか?これでも清家さんが愛子さんを天皇にしたいと思っているとしたら、何に狂っているのでしょう?あかりは「曲学阿世の徒ですか?」と聞きたい!
すみません、せっかく天文を下敷きにした暦の素敵な話題を、またまた欲にまみれた妖しい話に墜としてしまいました<(_ _)>
少しばかり調べてみましたが、矛盾は無いように思えました。
天智天皇崩御 671年12月3日 wiki 672年1月7日
清和天皇崩御 880年12月4日 wiki 881年1月7日
元明天皇崩御 721年12月7日 wiki 721年12月29日
上記は旧暦新暦変換表と合致します。
崩御日は旧暦(太陰太陽暦)でこれの出典は宮内庁だと思いますが、wikiではグレゴリオ暦で記載しているだけではないかと思います。
後亀山天皇式年祭の日付が5月10日ではなく19日に行われるのは10日が他の予定があって変えられなかっただけではと。
元明天皇の式年祭が1月なのは年末で御用納め後だから?
その辺は融通を効かせて遅らせるのを可としているってことでしょうか。
前にもコメントしましたが、一般庶民は法事は命日より前に執り行いますが皇室ではそのような慣習が無い。
それだけでしょう。
こういうのは令和だからだらしないと思ってしまいがちですが平成時代もそうだったのかもしれませんね。
宮内庁HPには、天皇皇后両陛下は、宮中の祭祀を大切に受け継がれ、国民の幸せを祈っている。。。とありますが、
えっつ!天皇はまだしも皇后が大切にしているとは全然思えませんね。
ふだんづかいのHNも無いものですから名無しとしておりましたが、わたくしのコメントから、今般別記事としておまとめいただき、ありがとうございました。
wikiはユリウスとグレゴリオの使い分けのルール(いつまでユリウス、いつからグレゴリオ、の話)がありますが、徹底されていたりされていなかったりも見受けられる気がします。
記事のまとめ、お手数おかけいたしました。ありがとうございます。