23日上皇が米寿のお誕生日をお迎えになるという。
百歳が珍しくなくなった昨今、米寿と聞いてもまだ若いような気がする。
😔 個人的にはこのかた、私は好きでは無い。何故好きになれないのか、良く分からない。思い当たるとすれば昭和天皇への敬愛が大きすぎる反動かもしれない。昭和天皇のようではない。という理由で反感を持つことは間違っているとは知っているのだが…。
このかたのやることなすこと「父を越えたい」という思いで突っ張っているように見えてしまう。
自営業でもよくいるが、親父を古臭いと決めつけて、代替わりした途端屋号をカタカナに変え、店内をお洒落と言えば聞こえが良いが安っぽく改装して粋がっている2代目。に、見えて仕方が無い。笑。
「家族の気持ちをわかることで国民の気持ちもわかる」 上皇陛下の「本心」があらわれたおことば集
2021年12月20日 デイリー新潮
<抜粋>
時には被災地に自ら赴き、被災者の前で跪いてまでおことばをかけられる。そんなお姿に感動し、勇気づけられた国民も多くいることだろう。
嫌だったな~。私は、真底嫌でした。感動どころかゾッとしました。
そんなことをすれば天皇に対する敬意が薄れる。と。最近、国民が大衆化した皇室への敬愛を失ったから天皇が跪いたのだと考察する記事を見かけましたが、反対でしょう。天皇が跪いたから皇室の大衆化が加速していったのです。


弟子の足を洗うキリスト

偉大なる父を越えたかった天皇と夫をキリストにしたかった?皇后
――国民に親しまれる皇室ということは私はいった記憶がないんですけれども。ただ国民とともに歩む皇室でなければならないと。(中略)国民の苦労はともに味わうということを昔の天皇はしていらしたわけです。そういう意味で、国民とともに歩むという意味で私は使ったと思います。(昭和57〔1982〕年12月17日、49歳のお誕生日会見)
😇 このころはまだ、まともなことを言っていらっしゃいますが…。
――好きな言葉に「忠恕」があります。論語の一節に「夫子(ふうし/筆者注・先生=孔子のこと)の道は忠恕のみ」とあります。自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です。この精神は一人一人にとって非常に大切であり、さらに日本国にとっても忠恕の生き方が大切ではないかと感じています。(昭和58〔1983〕年12月20日、50歳のお誕生日会見)
😇 まともです。このままのお気持ちで居ていただいたら、小室を皇室の親族と認めるようなことはなさらなかったのでしょうが…。
――(結婚25周年を前にして)この25年間を振り返ると、やはり絶対にそれまで味わえなかった心の安らぎを得られたと思います。(中略)それまで一人でしたから、心の安らぎというか安定はありませんでした。(皇太子時代の昭和58〔1983〕年12月20日、50歳のお誕生日会見)
😇 おやおや。良いこと言っている傍ら、こんなことを言っていらっしゃいます。「それまで一人でした。」って、ご両親や周囲で支えていた人々に対して、なんたる失礼なことを!
この傾向は、ドンドン進んで行き、退位の御会見での大泣き美智子さま賛歌に繋がって行きます。
――(還暦に際し最も印象に残っていることは)私自身のことに関しましては、結婚が挙げられます。温かみのある日々の生活により、幸せを得たばかりでなく、結婚を通して自分を高めたように感じています。(平成5〔1993〕年12月20日、60歳のお誕生日会見)
――私自身にとり、深い喜びをもたらしてくれたものは皇后との結婚でした。どのようなときにも私の立場と務めを大切にし、優しく寄り添ってきてくれたことは心の安らぐことであり、感謝しています。(平成15〔2003〕年12月18日、70歳のお誕生日会見)
――天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものをともに大切に思ってくれる伴侶を得ました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。(平成25〔2013〕年12月18日、80歳のお誕生日会見)
😇 上皇が夫婦中心主義の実践者でいらっしゃったことが見て取れます。
「夫婦」+「子供」を単位とする核家族は、戦後のあるべき家庭像として社会的認知を得ましたが、上皇はその忠実な実践者だったのでしょう。
マイホーム主義がどのような社会性を持つべきなのか、悩ましい問題です。
マイホーム主義に徹すれば「我がとこだけが幸せならそれでよい。」という利己主義になってしまいかねません。
上皇上皇后が実践したマイホーム主義から今上と秋篠宮殿下の内向きのマイホーム主義的生き方が生まれ、眞子さんの利己的な恋愛至上主義も生まれたのではないか、と思われます。
😐 家庭
――家庭作りについては、孟子の中に「国のもとは家にあり」という言葉がありますけれども、家族という身近なものの気持ちを十分に理解することによって、はじめて遠いところにある国民の気持ちを実感して理解できるのではないかと思っています。(皇太子時代の昭和59〔1984〕年4月6日、ご結婚25年に際しての記者会見)
😇 「孟子曰く、人に恒の言あり。みな天下国家という。天下の本は国にあり。国の本は家にあり。家の本は身にあり。」
どうなのでしょうね…。孟子は上皇が理解したようなことは言っていないと思うのですが。
皆国のため、国家のためというが、国の元は家庭にあり、
家庭の元はわが身にある。国を思うならばわが身を修める
ことが肝心である。
というようなことで、天下国家を論じる前にまず我が身を修めなさい。
我が身を修めなければ、家庭を治めることはできない。家庭を治めることができないなら国を治めることなど到底できない。と、孟子は言いたかったのではないでしょうか。
孟子の言葉の解釈はともかく、上皇は家族の気持ちを通じて国民の気持ちを理解されたのでしょうか。え!?家族の気持ちがまだ充分に理解出来てないので、国民の気持ちまで手が回らない??
――私にとって家庭は心の平安を覚える場であり、務めを果たすための新たな力を与えてくれる場でありました。また、実際に家族と生活を共にすることによって、幾らかでも人々やその家族に対する理解を深めることができたと思います。(平成11〔1999〕年、66歳のお誕生日に際しての文書回答)
😇 上皇にとっては「マイホーム」を作ることが、一世一代の事業だったのだということは理解できました。
「歴代の天皇は基本、家族同居のマイホームを持たなかったが、それは間違っている。私はマイホームを作った。家族同居の味も味わった。」
と、仰りたいのでしょうか。
歴代の天皇が基本家族同居では無かったのは、社会構造から来たものですが、上皇が夫婦中心のマイホームを作れたのも上皇の意思ばかりではなく社会構造が変わったことも大きいでしょう。
御自分の手柄のように仰るのはどうかと思うし、「一人だった、孤独だった」と『天皇』が自ら国民の同情を要求する姿勢も嫌です。
歴代の天皇、昭和天皇ができなかったマイホーム生活を達成。
最後まで天皇であろうとした父の痛ましい姿を見て「ああなるのはごめんだ」と皇室典範を変えて生前退位もした。
次の目標は御自分の目の黒いうちに皇室典範を変えて女系天皇への道筋をつくること?
😐 悠仁さまを未来の天皇として積極的に大切にしなかった上皇…やはり好きになれない。
ブログ更新ありがとうございます。
上皇様。私の個人的な印象なのですが、お年で言うと50歳あたりを過ぎてから昭和天皇との繋がりをあまり感じなくなりキリッとした感じが薄れてきたような。
今上ではないですが、「皇后が~皇后~」??
昔からマイホーム主義と言われていたそうですが晩年は奥様第一主義でしたね。
こんばんは!
確かに!昭和天皇が病勝ちになられたころから、皇室内の雰囲気が変わって行きましたね。
香淳皇后はその前から療養に入られていましたので、美智子さまの影響力増していったのでしょうか。
当時は子供でしたので、マイホーム主義といわれても良く分からなかったですが、今はよく解ります。