22日~28日 天皇ご一家のご予定発表はされなかったのだが、、、
予定発表無いままに行われたご活動。
(24日)
【午前】
陛下 後宇多天皇七百年式年祭(皇居・皇霊殿)
皇后さま 後宇多天皇七百年式年祭に当たりご遙拝・お慎み(御所)
この週の陛下の御活動は式年祭拝礼のみ。ご執務も無し。
ご静養前から、既にご静養に入られているようです。
先の19日、ご予定では今上お一人と発表された後宇多天皇の御事跡に関するご進講にお出ましになった雅子さま、愛子さまでしたが、雅子さまは式年祭をご欠席。愛子さまは佳子さま等と共に拝礼されたようです。
雅子さまは23日にご養蚕納の儀に臨まれたようですが、これも本来ならご予定として発表して然るべきものでしょう。
皇后さま、養蚕の締めくくり「御養蚕納の儀」に臨まれる 繭の一部は伊勢神宮へ
2024/7/23 15:51 産経新聞
皇后さまは23日、皇居内の紅葉山御養蚕所で、養蚕の締めくくりとなる「御養蚕納(ごようさんおさめ)の儀」に臨まれた。宮内庁によると、皇后さまは収穫した繭から取れた白や黄色の生糸の束を神前に供え、ご拝礼。歴代皇后に伝わる養蚕を無事終えたことに感謝するとともに、感慨深く思われていたという。
5月からのご養蚕では、日本純産種の蚕「小石丸」など4品種を飼育。小石丸の繭約30キロは伊勢神宮(三重県伊勢市)へ贈られ、令和15年の第63回式年遷宮に向け使用される。
天皇も皇后も、しっちゃかめっちゃかの祭祀。雅子さまのやる気の無さは、すでに隠しようなくなっている。
「光る君へ」の件
大層評判の良い『光る君へ』ですが、始めの2,3回を見て見るのをやめました。
一つの解釈、想をとった作者の世界、「ベルサイユの薔薇」みたいなものと言い聞かせてもムリ!脳に虫が湧くようで、、、笑
藤原行成の「皇后が祭祀をしないから、世の中に災害が起きる」という台詞が受けているようですが、、、
悲運の中宮定子に同情する私には、納得できない台詞です。
延喜式の大嘗祭の項に皇后が登場するものの、中古と言われるこの時代、後宮は祭祀に関与していません。皇后が祭祀しないも何も、そもそもしなくて良かった(してはならなかった)のです。
江戸時代の二人の女性天皇は代理の者に祭祀を行わせて自身は在位中祭祀を行っていない。
宮中祭祀に皇后が役割を果たすようになったのは明治の「皇室祭祀令」以降です。
当時しなくても良かった祭祀を行っていないから、と責められる定子が気の毒ではないか!?じゃ、彰子はしたのですかってんだ!
実際には行成は過去に皇后と中宮が(それぞれ配偶者が違うが)同時に存在した例を道長に示し、道長はそれを根拠に定子を名ばかりの皇后位におしやり、彰子を中宮にしたのですよね。一条帝には最強の実力者道長に抗う術も無かったでしょう。
(以下、補足)
長保元年11月1日 彰子入内(満11歳)
長保元年11月7日 敦康親王誕生 同日彰子、女御宣下を受ける
長保2年1月28日 行成、一条天皇に彰子立后の意見をする(『權紀』1月28日条)
長保2年2月25日 二后冊立 (定子皇后 彰子中宮)
長保2年12月15日 媄子内親王 誕生 定子死去
長保元年11月1日彰子入内から長保2年12月15日まで、たった1年の間の出来事です。
臨月満ち、いつ出産が始まるかという定子を横目に娘を入内させ、敦康親王誕生の日に女御宣下をもぎ取る、、、
水に落ちた政敵を完膚なきまでに叩き潰しにかかる道長の攻勢についに力尽きた定子が気の毒でなりません。
道隆亡きあとの実家を守りたい、と頑張って来られたのに、伊周も隆家 もぼんくら過ぎましたね。
我が朝は神国であり神事を先とすべし。
しかし、中宮は既に出家入道。
ニ后は共に勤めることなく左大臣が氏長者であるというので、独りで祭祀を勤行す。(『權紀』長保2年1月28日条)
しかし、中宮は既に出家入道。
ニ后は共に勤めることなく左大臣が氏長者であるというので、独りで祭祀を勤行す。(『權紀』長保2年1月28日条)
教養豊かで良心的な知識人、道隆亡き後も定子や清少納言に対して折に触れて気遣いをしてくれるひととして『枕草子』に登場する行成ですが、『權紀』の行成は出世にイヤラシイまでに意欲を燃やす男。
彰子の立場をよくしたい道長に知恵を授けるのも己が出世のためだと丸わかりの嫌な男。笑。
定子が目の前で隆家が捕縛連行される姿に絶望して発作的に自ら髪を切ったことを道長一派は「出家入道」したことにしてしまった。
奈良時代から出家には官許によって得度を授けることを許された僧による正式な出家と勝手に出家を名乗る「私度」がありました。
僧、尼僧には特別の優遇があり、そのため私度によって僧尼僧を名乗る者も多く、その取り締まりに結構苦慮していたようです。
源氏物語、女三宮も浮舟も僧侶を導師として出家していますね。
定子は自分で髪を切っただけ。その後僧侶によって得度を受けた様子は無いので正式に出家したわけではない。
長徳2年12月16日 脩子内親王を出産する定子は5月1日の事件当時は初めての妊娠中、ただでさえ精神的に不安定な時期に襲い掛かった眼を疑うような出来事にパニックになられてもしかたないと同情します。
でも、髪を切っただけ、で正式な出家ではないのです。
自分で髪を切っただけで正式な出家はされていないのに、道長一派はそれを見逃さなかった。髪を切ったのは出家の意志あり→出家した。としてしまった。
上古には皇后も祭祀に臨んだらしいが、延喜式の項目に皇后が登場するのは大嘗祭だけ、定子のころには皇后が祭祀にたずさわることは無くなっていました。(女性としてはあまり触れたくないですが)穢れの思想が広く取り入れられるようになっていたからです。
藤原氏の祭祀でも同様でしょう。既に皇后が祭祀にたずさわれなくなっていたのに、「皇后が祭祀をしないのはケシカラン」と言いがかりをつける行成。
出世のために渾身のいいがかりをつける行成。道長にとっては頼りになる側近、家族にとっては頼もしい殿。でも、嫌いだぁ~。笑。
祭祀をないがしろにしている雅子さまに不信感を抱き「光る君へ」の行成のセリフを「我が意を得たり」と受け止めていらっしゃる方々を否定するようで申し訳ないのですが、何も悪いことをしていない悲運の定子を蹴落とすために言いがかりをつけた行成の台詞に、雅子さまを重ねる気にはなれないのですよね…
祭祀をしない皇后は…のくだり、これは藤原氏縁の春日大社の祭祀を指しているようです。言うなれば、一帝ニ后を成さんとする藤原行成の詭弁というか強引な論とのこと。
そこまで言わないと廷臣から人気のある定子を中宮から下ろすことができなかったのでしょう。
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明治以前は皇后に祭祀の義務は無い、むしろ禁忌というのは知られていないでしょうね。穢れを忌避する神道では当然のことと思います。今上家の太鼓持ちの竹田氏は天皇の祭祀のみが重要と言っていたような?
しかし皇室祭祀令制定から100年以上が経ち、明治から数えて5代目の今は皇后の祭祀は伝統と言って良いでしょう。
皇后の祭祀を軽んじるのは歴代皇后の祭祀を軽んじることと同義と思います。
雅子皇后のやる気の無さとそれを隠そうともしない振る舞いは、鋼の意思のようにも感じますね。
藤原行成の『権記』長保二年 一月二十八日条によると
我が朝は神国であり神事を先とすべし。
しかし、中宮は既に出家入道。
ニ后は共に勤めることなく左大臣が氏長者であるというので、独りで祭祀を勤行す。
とあります。
平安時代の神道と仏教を詳しく知りたいですね。
なんといいましょうか、薄幸の美女のイメージ?
私は大河ドラマ自体殆んど見ません。以前館内日本語禁止というブリティッシュヒルズというホテルで英語レッスンを受けた際、本当はかなり日本語が得意そうな英国人講師があれは歴史ドラマではないと断言してました。
昔のお話を多少の時代公証を入れたお芝居にしているだけです。
歴史に興味を持ってもらうには役立っているかもしれませんが、正確な歴史ではないことを番組の最後にテロップで流すべきですよね。
このドラマはフィクションであり、事実ではありません。。と。
皇后が祭祀をしないから云々は、もしかして脚本家は当時の皇后は祭祀をしないのを知っているけれど今の皇室の有り様を憂いて敢えてこういうセリフを作ったのではないかと。
そうだとしたら頼もしい。このセリフに反応しているのが一部ネットだけなのがお察しな気がします。
こんにちは
>一帝ニ后を成さんとする藤原行成の詭弁
、、、そうなんです!
道長に協力して何の咎もない定子を排除せんとする行成の詭弁です。
解説抜きでは、何の咎もない定子が雅子さま同様に横着な皇后だったと思われてしまいますよね。
千種さん
こんにちは
既に皇后が穢れの思想から祭祀に関係しなくなっているのに、行成の進言は言いがかりでしかないです。
藤原氏の祭祀でも同様でしょうに。
>平安時代の神道と仏教を詳しく知りたいですね。
、、、私、そこそこ知識有ります(^^)/
ダブルワイさん
こんにちは
定子は悲運、ですよね。ただ一条帝とこの上なく仲睦まじかった点では幸せなかただったと思います。
私は秋篠宮殿下と紀子さまがご一緒にいられるご様子に、一条帝と定子を重ねてしまうのですよ。
大河ドラマもレベルが落ちましたね。
まひろも道長も感覚が庶民すぎて、見るのを止めました。
たとえ台詞でも、定子が雅子さま同様にいい加減な皇后だったと錯覚されるのは嫌ですわ~。