ショップ ダンケ

ドイツ雑貨「ショップ ダンケ」のオフィシャル・ブログ

美しい木になりたい アーティ語録3

2002-11-03 00:00:00 | インポート
アートガーファンクルが言った「美しい木になりたい」という言葉に触発されたひろみつさんから素晴らしいお話を聞いたので、彼から許可を得て転載させていただきます。
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「美しい木になりたい」
彼のこの言葉に、僕は中国の思想家、老子の言葉を思い出しました。僕自身、この話にすごく励まされたことがあるので、そう思うだけかもしれませんが。

老子が、お弟子さんを連れて、旅の途中、ある森の前を通りかかると、大勢の樵が、斧で木を切っている。でも、ひとつ、ひときわ大きな木があって、それだけ切られないで残っている。老子は、弟子に何故、あの木だけ残ってるのか、聞いて来なさいと命じました。弟子が尋ねると、樵は、この木は切ろうとすると斧の刃がこぼれてしまうし、燃やすと変な煙が出て、目にとても悪い。切ったところで、家具にも材木にもできない、何の役にも立たないし、面倒なので、そのままほったらかしてあると言いました。

そして旅を終えて、再びその森の前を、老子たちが通りかかると、例の木の下で、多くの人が、休んでいる。読書をする若者、昼寝をする人、楽しそうに語らう老夫婦、子供をあやす母親・・・誰もが思い思いにその大木の下で寛いでいる。
それを見た老子は、弟子に「わかったね、お前たちもあの木のようになりなさい」と言ったという、そんな話です。
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うーん、東洋のお話は、含蓄がありますよね。人が放った言葉や画像などに、受けてが、さまざまな解釈を生むのは面白いことですね。時には、作者の意図まで超えて自由な感想を持つ。自分自身の思い出などにも、どこかつながっていくこともあるしね。

アーティに、この話を聞かせてあげたいですね。年下のプロデューサーのビリーマンに全幅の信頼を寄せ、マイアとバディという2人の協力を得たというのは、彼がそういう共同作業を受け入れる幅を持っている人だから。お互いの才能を尊敬しあえるからだよね。この人は、歌手が天職なんだけど、教育者になっていたら、絶対いい先生になっていたとつくづく思います。


書くということ

2002-11-02 00:00:00 | インポート
10月が終わった。めっきり涼しいというより寒くなった。冬物に衣替えして、こたつを入れる。もうこたつを入れちゃうとだめ。カッチイは、こたつが大の大好きなのだ。こたつに入って、でれでれDVDでも見ようと思っていらら、学生からファックスが入る。某有名ホテルの2次募集に応募する作文を見てほしいというのだ。「あなたならお客様をどのように楽しませることができますか?」というテーマなのだが、彼女は、短文を並べるだけでまとまったことを書けていない。そこで電話をかけ話しあう。するとガクセーは、カッチイの言うことを待っていているのがありあり。「あなたが書いてきたことを、コメントしたり文章のおかしなところを添削してあげたりはするけど、私に書かせようとしないでよお。ちゃんと自分の言葉で考えてね」

そこでファックスが送られてくる。カッチイがそれを見て電話して話し合うということの繰り返しが、3回続く。やれやれ。内心カンベンシテクレイと思いつつ付き合う羽目に。ガクセーは、日ごろ使わないアタマを使うから微熱が出たと言う。それでも、ようやく段々自分の書いたものが形になっていくプロセスに、自分でも書き甲斐を感じたようだ。書いてみることで、自分の考えを整理できるものだからね。

書くということは、何かを伝える基本的な表現方法だよね。
カッチイは、書くことがスキだけど、自分のことを直接書くのは、気恥ずかしいし、あんまり得意じゃない。女性に多い「私が、、私が、、」連発には、自分で嫌気が差してしまうからかな。日記は、だからちょっと困ってしまう。かといって全く想像力の産物である小説などを生み出す力はないし、そうしたいと考えたこともない。

映画や音楽や旅行について 思うところを述べるのはいいのだけど。誰か人を語るのもいいな。そういう間接的な自己表現のほうが性に合っている。ホームページは、誰もが見るものだから、過激なことや露悪的に書くことを控える気持ちも働く。メールではホントの自分よりちょっと「いい人」を演じてしまうという友人の言葉に、うんうんと思う。

この週末は、疲れがたまっていたので、泥のように眠った。もう電気毛布が手放せない。寝すぎて頭が痛いということもあるのね。