■伝えることは生きること 家常 和
――あったかくておいちい。
まるい小さな指で湯呑をかかえた孫が、
うれしそうに私を見上げています。
このお茶と出合って2年目の頃でした。
小さな子供でも味がわかるのだ。
二歳になる孫と過ごす素敵な時間は、たくさんの発見があり、
新米の「ばあば」をいつも驚かせ喜ばせてくれました・・・。
日本茶インストラクターとなって10年が過ぎて、
現状のままでいいのかと悩みはじめたころでもありました。
自宅を開放し、お茶とお食事の店。
月に2度のカルチャー教室での日本茶の講座。
ときどき小学校等に美味しいお茶の淹れ方をお伝えする
出張講座など。活動の場を広げてはおりましたが、
お茶の美味しさ、楽しさ、感動を、
皆様にお伝えできているのだろうか。
自問自答している日々でした。
ーーー食べることは、生きること。
地産地消など、私の周囲でも、
十勝の風土を生かした生き方を、
誰もが模索し始めているような時代に入っていました。
もちろんそれは、
この大地が大好きな私にとっても大切なテーマでもありました。
しかし日本茶インストラクターの私にとりまして、
芳しい緑茶の持つ力をなんとか皆様と共に
分かち合いたいと躍起になっておりましたが、
そのような焦躁感を抱えていては、楽しくあるわけはないのです。
ただ受け売りの知識を伝えている自分が、
上滑りしているようで、お茶の持つ科学的な効能、
古代から伝えられてきた歴史など、
精神修養の場としても優れたお茶の世界からは、
むしろ遠ざかるかのような自分がいました。
それで悩みは深まるばかり、
私の欲しい答えはいったい何なのであろう。
悶々とした日々が続く中で、
友人が連れ出してくれた自然茶のお茶の会。
そこで出会った野生のお茶の一滴でした。
それは精神世界に通じるような、
中国の古典の一節に迷い込んだ、まるで
「六杯目には仙人になる」かのような目覚めのお茶でした。
その日の事がいまも鮮明に思い出されます。
その一滴のお茶は、
「お茶を楽しむ会」の近藤美知絵先生が、
自分の足で尋ね探し求めたお茶だというのです。
偶然にもお話をさせて頂いた時には、
あてどなく涙が流れ溢れてくるようでした。
止まらない涙の私に、近藤先生は仰いました。
「よく10年。頑張ってこられましたね。」
とうとう、求めていたお茶に出合えたのです。
同時に、目指す「人」ともお会いする事が出来ました。
その時。私の生きる道が見えてきたのです。
近藤先生が、20年かけて探し求めた「ばん茶」がありました。
そのお茶は、四国の山奥で、現在でも作り続けられている、
昔ながらの釜入り製法のお茶でした。
しっかりと根付いて山に自生するお茶。
小鳥たちが落としたお茶の種によって芽を出し、
深く地中に根を下ろし、深い滋味のあるばん茶なのです。
近藤先生は仰います。このお茶の雅味をひきだしてねと。
野生のばん茶は淹れ方の違いで、
様々な味を見せてくれるのです。
まるで、人の人生のように、さまざまに移り変わるようなお茶。
淹れ方次第で変化する不思議なお茶です。
ときには、薬のように土瓶で煮出したり、
可愛いポットで紅茶のように、
チャイグラスで茶葉を鑑賞しながらも頂くのも素敵です。
なんて面白くて深い、その上香しく美味しい。
それは、やっと出合った私の生きる道とつながりました。
毎日飲み続ける普段着のお茶。
ときにはパーティーにも余所いきにもなれるそんなお茶。
「山ばん茶」とでも名付けてみましょうか?
今ではこの喜びと共に、日々の暮らしがあります。
一歩づつ、皆様にお伝え出来る事を嬉しく思っております。
・・・既に5歳になった孫にも、妹が出来ました。
湯冷ましした「山ばん茶」を哺乳瓶に入れて、
赤ちゃんに飲ませてる孫の姿は、
とても、自信に満ちているようで嬉しくなるのです。
最後までお読み下さりありがとうございます。
打ち明け話を致しますと・・・
この原稿は「美味しいお茶との出会い」というテーマで書かせて頂きました。
実は、協会に投稿する予定でおりましたが日程が合わず没になってしまったものなのですよ(笑)。