僕の友人知人の多くは関東在住なので、被災者はいないと思われるけど、mixiやブログに書き込みがあると安心する。
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地震後、結構大きな地震であること。普通でないことは、社内の雰囲気が物語っていた。ビルの館内放送が流れ、エレベーターは使わないこと。会議室にいた人も会議を中断して外に出てきていた。また外を見ると液状化現象で、駐車場やマンションの玄関が水浸しになっていた。
しかし依然として余震は続いていたが、通常の業務に戻る雰囲気も出始めていた。再び、会議室に戻る人たち、デスクでは仕事を少しでも進めようとキーボードをパチパチする姿が目立ち始めた。その時の僕はというと、仕事が暇状態だったので、主に携帯でネットを見ようとしたり、家族にメールを送ろうとしていた。しかし当然のことながら、どちらも利用できなかった。
ちなみに前回のブログに少し書いたが、大揺れの最中でもありながら、僕は結構冷静でいられたので、揺れているのとほぼ同時刻には家族へ安否確認のメールを送っていた。これは送れた。しかしそれが逆に不安感を煽る。こっちから送信できたのに、返信が来ない。なにかあったのだろうか?と。
一部の人はネットに繋がったらしく、すぐに宮城県沖で地震が起こったことは分かった。客先の上司が機転を利かせて、会議室のテレビをみんなに開放したので、すでに津波が押し寄せていることも分かった。
皆が状況を把握し始めた頃、今度は自分たちはどうなるのだろうと言う考えが出始めた。ネットを見るとJR私鉄の全線が不通となっている。ただこの時は、何時間後には復旧するだろうと僕はもちろん皆思っていた。
ただ僕は歩いて帰ろうと思った。職場である東陽町から家がある川崎までならギリギリ歩けるんじゃないかという思いと、災害時の街並みを見ておこうという思い、電車がないということがどれほど大変なことなのかを身を持って経験しておこうと思ったからだ。
そして定時のチャイムが鳴り、僕は立ち上がった。今日中に帰るという目標を達成するために。
つづく
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地震後、結構大きな地震であること。普通でないことは、社内の雰囲気が物語っていた。ビルの館内放送が流れ、エレベーターは使わないこと。会議室にいた人も会議を中断して外に出てきていた。また外を見ると液状化現象で、駐車場やマンションの玄関が水浸しになっていた。
しかし依然として余震は続いていたが、通常の業務に戻る雰囲気も出始めていた。再び、会議室に戻る人たち、デスクでは仕事を少しでも進めようとキーボードをパチパチする姿が目立ち始めた。その時の僕はというと、仕事が暇状態だったので、主に携帯でネットを見ようとしたり、家族にメールを送ろうとしていた。しかし当然のことながら、どちらも利用できなかった。
ちなみに前回のブログに少し書いたが、大揺れの最中でもありながら、僕は結構冷静でいられたので、揺れているのとほぼ同時刻には家族へ安否確認のメールを送っていた。これは送れた。しかしそれが逆に不安感を煽る。こっちから送信できたのに、返信が来ない。なにかあったのだろうか?と。
一部の人はネットに繋がったらしく、すぐに宮城県沖で地震が起こったことは分かった。客先の上司が機転を利かせて、会議室のテレビをみんなに開放したので、すでに津波が押し寄せていることも分かった。
皆が状況を把握し始めた頃、今度は自分たちはどうなるのだろうと言う考えが出始めた。ネットを見るとJR私鉄の全線が不通となっている。ただこの時は、何時間後には復旧するだろうと僕はもちろん皆思っていた。
ただ僕は歩いて帰ろうと思った。職場である東陽町から家がある川崎までならギリギリ歩けるんじゃないかという思いと、災害時の街並みを見ておこうという思い、電車がないということがどれほど大変なことなのかを身を持って経験しておこうと思ったからだ。
そして定時のチャイムが鳴り、僕は立ち上がった。今日中に帰るという目標を達成するために。
つづく