中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

二つあった大井宿庄屋(旧中山道を歩く 223)

2011年01月08日 11時12分54秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(大井宿 庄屋 古山家。ひしや資料館)

(大井宿 3)
大井宿本陣を右折した所に、大井宿の庄屋 古山家が
「中山道ひし屋資料館」として残っているので入る。

ひし屋は、江戸時代に代々大井宿の庄屋を勤めた旧家で、
酒造業を兼ねた商家でもあった。
入った先が土間になっており、囲炉裏が目に付く。
この囲炉裏は家屋改修後に移動されたもので、
以前は台所の部屋にあった様だ。
座敷など各部屋に工夫がこらされており、
客間の店座敷、中座敷、奥座敷と段階を踏み、
顧客層により案内される場所が違ったようである。
座敷ごとに欄間の飾り、ふすまの形や模様が異なり、
客層に合わせ差をつけてある。

店座敷は商談、寄り合いに使われ、中座敷は二間幅の床の間付きで、
奥座敷は書院、床の間、床脇が付いており、手入れされた庭に面している。
奥の店蔵は現在は展示室になっている。

各部屋に渡って、一つ一つ丁寧にガイドし下さったご夫人に感謝する。
「ひし屋資料館」を出て道路を進むと大井橋に出てしまった。
大井宿は枡形が六個あって、大井橋が最後の枡形になると、
案内書にあったので、道を間違ったことに気が付いた。


(ボクが間違った古い家並みの街道)

大井橋のところで雨が降ってきた。
橋のたもとにあるお店の前で雨宿りしていると、
土地の見知らぬおじさんが、
「中山道を歩いているのですか?
大井宿は中山道でも珍しく枡形が六つあります。
まっすぐ行くと家数は少なくて町は発展しないが、
この街道を六ヶ所に折れば、
人家は六倍に増え、街が賑やかになる。そんな意図で作られたのですよ。
一番が延寿院、二番が本陣、三番が角屋(旅籠)、四番が市神神社、
五番が白木改め番所、六番目がここ大井橋」と間違いもあったが、
随分詳しく教えてくださった。

間違いは枡形の意味で、
本来枡形は、本当は上方から敵に攻められた時、
一挙に攻め上れないよう曲がり角をつけて防御するためのものであった。

また、大井橋は川の中央に切り石の島を置き、
大橋と子橋で渡していたと言う。
これも外敵防御のためであろう。

間違いに気づいたので、
説明してくださったおじさんにお礼を言って、
枡形を逆に歩いた。
「ひし屋資料館」を出た先の曲がり角には、
「中山道 枡形」の案内があるのをボクが見落としたためであると判った。
その曲がり角は、曲がった先にも中山道の案内があり、
先を覘くと「神社の鳥居」が奥に見える。


(奥に見える鳥居)

第三の枡形を曲がって奥の鳥居を見ながら進むと、
中ほどの左手に「大井村庄屋 古屋家」の案内がある。
先ほどの「ひし屋資料館」も庄屋で古山家であるが、
どんな関係なのか疑問が残った。
帰京してから恵那市教育委員会に問い合わせをすると、
次のように回答があった。
(同じ時期に、庄屋が二軒あったようです。
古屋家と古山家とどんな関係があったか解りません。)
と言うことであった。
同じ宿場内に二人の庄屋がいたら、
仕事はどのように配分していたのだろうか?
隔月ごとに仕事を交代していたのか、
あるいは仕事の分担を決めて、持分が分かれていたのか?
気になる所である。


(大井橋には木曽海道69次之浮世絵が張り出してある)


(恵那駅からの通り「中央通り」の交差点)

大井橋を渡って、しばらく歩くとJR恵那駅からの通り、
「中央通り」と交差する。
左へ行くと「中山道広重美術館」で、
ここには中山道69次の浮世絵があることで有名である。
恵那市の繁華街を抜けて、なおも直進する。
中野村に入り庄屋の家のあるところで、
雨が本格的になって、
あたりが暗くなってきたので、

本日は終わりにすることにし、宿泊ホテルに向う。
本日の歩行数42226歩。距離にして約25km。


(恵那市の中山道道路上の案内)






最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
4万2000歩!驚きました。 (salasala)
2011-01-13 23:14:55
4万2000歩!驚きました。
大井橋は面白そうな橋。
枡形の街道は、お城の門に入るまでの通路がまっすぐ作られてないのと同じ訳のようですね。
返信する

コメントを投稿