(英泉画浮世絵「板橋之駅」の中央が平尾の一里塚)
(やっと板橋宿へ)第三日目(2004年4月1日)
(近藤勇と亀の子たわし)
国道17号を渡り、元の旧中山道を行くと、
「亀の子たわし」を発案した会社西尾商店の前を通る。
ずいぶん歴史を感じさせる建物である。
「たわし」とは、「束子」と漢字で書くということを
ここで知った。
(亀の子たわし本舗)
明治40年(1907)初代西尾正左衛門の発明。
商っていた履物の泥を落とす玄関マットに使うシュロの
モールを、妻が折り曲げて使っているのをみて、
ひらめいた。水に縁があり、形が亀に似ているところから
「亀の子束子」と名づけ、大ヒット現在に至る。
話がそれたが、旧中山道をさらに進む。特段お伝えする史跡も無い。
この辺りは染井の植木商や種苗商が並んでいた地域である。
やがて、埼京線板橋駅の踏み切りにでるが、
その手前50mほどのところに左に折れると、滝野川通りの桜並木にでる。
右側が板橋駅東口。左手に新撰組局長 近藤勇と
土方歳三と連記したお墓がある。
この辺りは処刑場があった場所で、近藤勇が処刑された。
生き残りの永倉新八が、函館で死んだ土方歳三、他すべての
隊士を供養する意味をかねて近藤・土方両名の名による
お墓を立てた。
(土方歳三と近藤勇連名のお墓)
なお、処刑された近藤勇は、
首実験のため首を京都まで運び出され、
胴体はその日のうちに身内のものが引き取り、
調布の龍源寺にあると言う。
中山道に戻った所に一里塚があり、
ここから板橋宿に入って行く。
板橋宿は、三つの宿場からなって居り、
日本橋方面から、平尾宿―仲宿ー上宿となって居る。
つまり、ここから平尾宿である。
少し行くと踏切を越え、
JR埼京線の板橋駅西口を左に見て、
さらに進むと国道17号に交差する。
その手前の右側に、板橋警察署平尾交番があり、
交番のお巡りさんに
「どうして平尾交番と言うのですか?」と訊くと、
「町名は残っていないが、昔、平尾町と言っていたので、
平尾派出所というのです。」との回答を得た。
平尾宿の名残となっているのは、この交番と
後に出てくる日曜寺の幟を立てる石塔にしかない。
(平尾交番)
その交番の前から17号の斜め向こうを見ると、
旧中山道板橋宿の看板が見える。
17号を少し下ったところに信号があるので渡る。
(旧中山道板橋宿入り口)
ついこの間まで新撰組をやっていたので 近藤勇の処刑場所と聞くと 感慨深いものがありますね。
それにしても首実検のために 京都まで運ばれて首って。。。その後どうなったんだろう?
亀の子束子、約100年、ほとんど変わってないですよね。