(板橋宿の上宿と縁切り榎)
商店街をしばらく進むと、史跡「縁切り榎」の信号に出る。
信号の向こう右側に史跡「縁切り榎」、右手前に交番があり、
交番の角に「上宿」の石塔がある。
交番の裏手は小公園になっており、当時を思わせる常夜灯が
設置されているが、とってつけたような感じが否めない。
商店街をしばらく進むと、史跡「縁切り榎」の信号に出る。
信号の向こう右側に史跡「縁切り榎」、右手前に交番があり、
交番の角に「上宿」の石塔がある。
交番の裏手は小公園になっており、当時を思わせる常夜灯が
設置されているが、とってつけたような感じが否めない。
(交番と常夜灯のある小公園)
(交番横にある上宿の石柱)
街道は京都より下ってくるという考えであったので、
京都方面より「上宿」「仲宿」「平尾宿」の順になっている。
中山道板橋宿の案内によれば、
(江戸時代の五街道の一つである中山道は、
江戸と京都を結ぶ大動脈として、人々の往来や
物資の流通、文化の交流などを支えてきました。
板橋宿は中山道の第一番目の宿場であり、
その長さ十五町五十九間(約1.7km)でした。
天保十四年(1843)には、人口 2448人、
家数 573軒を数え、旅籠屋、料理屋や駕籠やなど、
さまざまな店舗が軒先を並べていました。
板橋宿は日本橋方面から、平尾宿、仲宿、上宿に分かれており、
石神井川にかかる板橋(板でできた橋)から
現在の環状七号線あたりまでが上宿でした。
(板橋区教育委員会)
(縁きり榎)
「縁切り榎」に戻るが、もとは、「榎(えのき)と槻(つき=けやき)」が繁っていたことから
「エンがツキる」といわれ、縁を切りたい人や悪縁を絶って
良縁を得たいという民間信仰が生まれた。
この前の通りを「岩の坂」と呼んで、
「エンツキ嫌な坂」と地元の人は呼ぶそうな。
皇女和宮の折は、榎のまわりを覆い、
見えないようにして通行した、といわれる。
しかし、和宮以前にも降嫁した皇女-五十宮(いそのみや)、樂宮(ささのみや)-は、
「縁切り榎」を避けて通行したので、
中山道の迂回路があることを考え合わせると、
皇女和宮も迂回したのではないかと、意見は二つに分かれる。
そこで迂回路を通ってみた。
なお、初代榎は、すでに枯れてしまったが、
幹の中が空洞になった初代榎の残骸が
旧中山道沿いの板橋観光センターに展示してある。
現在の榎は三代目の榎という。
悪縁を切りたい人はどうぞお参りを!
良縁を得たい人もお参りを!
(悪縁が切れるから)
皇女和宮も迂回したのではないかと、意見は二つに分かれる。
そこで迂回路を通ってみた。
なお、初代榎は、すでに枯れてしまったが、
幹の中が空洞になった初代榎の残骸が
旧中山道沿いの板橋観光センターに展示してある。
現在の榎は三代目の榎という。
悪縁を切りたい人はどうぞお参りを!
良縁を得たい人もお参りを!
(悪縁が切れるから)
良縁を得たい人もお参りを!
(悪縁が切れるから)
上の文はHIDEさんの案文、
それとも、そう言われてるのですか。
おもしろいですね。
「縁切り榎」の写真を撮ったり、
いわれを読んだり、トイレを借りたりしている間の数分間に
お参りに来た方は4人、全部男性でした。
最近は男性のほうが気が弱いのでしょうか?