河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その三 古墳時代 ―― コンクノタイコウ

2022年02月01日 | 歴史

 私が小さい頃の遊び場は大和川の支流石川だった。喜志には都会のように公園と呼ばれるものはなかった。今でもない。だから寒い冬であろうが、石川が私たちの遊び場だった。

 昭和30年代の終わり頃、「2B弾」という花火が流行った。花火といっても火を噴くものではなく、爆竹のような爆発音と破壊力が売りだった。一本がタバコほどの大きさで、先に燐が付いていた。それをマッチ箱でこすると、着火して黄色い煙を出し、5秒ほどして爆発するのだ。それを地面に埋めたり、ビンの中に入れたりして破壊力を楽しんでいた。時にはカエルの尻に突っ込んだりもしていた。

 火を着けてから「イーチ、ニーイ」と数えて「サン」ぐらいで投げると、うまく空中で爆発した。時には「ニー」ぐらいで爆発する不良品があって、手を怪我したというような事件があったため、二、三週間もすると、学校から禁止令が出るのが毎年のことだった。だから、けっこう後ろめたい遊びだった。

 二月の冷たい風が吹く日だった。

 町内の悪ガキ数人で、石川に架かる河南橋の下流の川原で遊んでいた。今は整備されているが、その頃はまだ一面の草原だった。石川の「ヤブタの堰(西浦井關)」から曳いた、川幅二メートルほどの用水路をはさんで、2B弾を投げ合って戦争ごっこをしていた。『コンバット』というアメリカの戦争ドラマが人気の頃だった。

 火を付けて投げると、2B弾は黄色い煙の尾を引き、パーンと爆発する。

 「あーっ、やられた!」

 一人がふざけて死んだまねをして倒れた。わーと歓声があがる。それからしばらくしてのことだった。

 友達が倒れたあたりの草原がバチバチと燃え出した。死んだふりをしながら、ふざけて持っていたマッチで火を着けたのだ。それが、おりからの風にあおられて、ものすごい勢いで燃え広がり出した。皆は血相を変え、落ちている棒切れを拾い、火をたたいて消しにかかった。しかし、火は勢いを増すばかりで、いっこうに消えない。襲い来る自分たちの背丈ほどの炎を、必死で棒でたたいた。

 十分ほど格闘しただろうか。用水路に遮られて、火はようやく下火になった。みんなほっと息をついて顔を見合わせた。草の燃えた灰が汗にこびりつき、顔は真っ黒だ。河南橋の上を見ると、四、五人のオッサンが、橋の欄干に頬づえをつき、笑いながら我々を見ていた。 今だったらすぐに消防車が来て、あとでこっぴどく叱られるのだが、その頃はのんびりとしていた。

 「どんならんなあ、ええかげんにしとかんと学校の先生に言うぞ!」

 そう言ってオッサンたちは行ってしまった。一人残っていたのが春やんだった。

 「おい、おまえら知っとるか?」

 春やんは橋の上から堤防を横切って河原に下りてきた。

 「おまえら、そんな遊びしてんと、この用水路を下って行ってみ。どこへ行くと思う?」

 一キロほど下流の広瀬(羽曳野市)あたりまでは下って行ったことがあったが、そこからどこへ通じているかは誰も知らなかった。春やんが、ゆっくりと話し出した。

 ――この用水路は千五百年ほど前に造られたやつや。ずうっと下って行ったら、古市(羽曳野市)の応神天皇陵という、昔の天皇さんの墓まで行くねん。古市には古墳がようさんある。その古墳の堀を造るために掘られたのがこの用水路や。それだけやなしに、ようさんの田畑に恵の水をもたらした『コンクノタイコウ』という溝や。 

 それほどの溝やから大切にされたはずや。それだけに、この溝がある喜志は重要な所なんや! せやさかいに、昔は、この川面に溝を守る偉い役人がいたはずや。その役人の子孫がおまえらや。そない思うて、もう悪いことしたらあかんぞ。コンクノタイコウがあったのが、おまえらが今燃やした所や!――

 そう言って、春やんは行ってしまった。

 天皇陵も古墳もなんのことかわからなかったが、春やんのやんわりとした説教から、我々の目の前を流れている小川が、「コンクノタイコウ」という、何か重要な小川あることを知った。

【補説】

 『日本書紀』の中の仁徳天皇の記事に「掘大溝於感玖、乃引石河水而潤上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦四處郊原、以墾之得四萬餘頃之田(大きな溝を感玖に掘る。石川の水を引いて、四カ所の荒原を潤し、四万頃の田を得た)」とあります。「感玖(こんく)」とは、かつての石川郡あたり、今の富田林から羽曳野市古市あたりを指した呼び名です。富田林の東部にある古刹龍泉寺に咸古神社があります。近くには、「こんく」がなまった「寛弘寺/かんこうじ」の地名が残っています。龍泉、佐備、甘南備一帯を治めていた古代豪族である紺口県主(こんくのあがたぬし)から生まれた地名です。

 「感玖の大溝(タイコウ・おおみぞ・おおうなで)」は、羽曳野にある日本武尊陵、応神天皇陵、仲哀天皇陵などの堀を造るため、あるいは灌漑用水としてひかれた溝と言われています。その取水口が喜志村の川面の河南橋の近くにある「ヤブタの堰」であると、秋山日出雄氏の調査でわかったのは昭和39年です。かつて、河南橋上流には大きな淵があり、効率的に取水できる場所であったのでしょう。

 現在、川面付近の大溝はコンクリートで囲まれていますが、下流には昔のままのところがあります。近鉄南大阪線で古市駅を過ぎ、喜志駅に向かう途中、羽曳野市西浦の第二阪奈道路の高架の下に、昔の名残を見ることができます(唐臼井路と呼ばれています)。

 ※事件があった河原は、今は石川河川公園になっています。私が、ええ歳になって、子供会の会長をした時に、このコンクノタイコウの近くで盆踊り大会をしました。その準備で草刈りをし、集めた草に火を付けて燃やしていました。しばらくは時間がかかるだろうと、町の会館で弁当を食べていた時に、けたたましい消防車のサイレンの音がしました。数秒とたたないうちに、仲間が「火事や!」と飛び込んできました。慌てて河原へ行くと、刈った草に火を付けたのが草原に燃え移り、風にあおられて、大きな火柱になって南方へ燃え広がっています。子どもの頃のあの事件をふと思い出しました。

 消防車のお陰で火は消し止められましたが、消防団やら壮年会の責任者が警察署に呼び出されました。子供会の会長は関わるなということで、私は難を逃れましたが。

 ※図は、「日本書紀に記された感玖の大溝の比定地について」 (原秀禎『立命館文學』vol.553)より引用。

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その四 古墳時代 ―― 太陽の道

2022年02月01日 | 歴史

 高校二年生の二学期の中間試験の真っ最中だった。苦手な日本史の試験を明日に控えて、私は離れの自室で試験勉強をしていた。そのとき、庭に面した部屋の窓を誰かがコツコツとたたいた。窓を開けると春やんがのっぺりと顔を出した。

 「お父ん、居るか」

 「居てへんで、まだ田いえ(田畑)や」

 「お母んは」

 「田いえ」

 春やんは「ほおっ」とため息をもらし、続けて「ああ・・・」と嘆息した。

 私は「ややこしい話」で相談に来やはったとすぐに思った。というのは、このころ、春やんは隠居して、一人息子に家を譲っていたのだが、その息子さんというのがけっこうな遊び好きで、何度か息子さんの嫁はんが、私の父母に相談に来ているのを知っていたからだ。村の中でも「飲む打つ買う」の三道楽は、春やんの息子さんだという噂がたっていた。そして、その後には「やっぱり血は争えんなあ」という言葉が付いた。

 窓の外の春やんが口を大きくあけ、舌なめずりして、

 「まあ、おまえでもええわ」

 おいおい何んでやねん。とっさに春やんとの五十年ほどの歳の差を感じた。そんなもん、俺に相談してどないするねん。それよりも、明日の試験に出る、千五百年前の古墳時代にあった出来事、いや、明日の日本史の問題を教えてくれと逆に相談したかった。

 春やんが、外に出て来いというふうに、中指を一本上下に動かして手招きした。私は、しぶしぶ外に出た。ランニングシャツの上に「じんべさん」を着た、暑いのか寒いのかわからない格好をした春やんは、目で合図をして、私を前栽の庭石に座らせ、仁王のような格好で前に立ち、ゴジラのように私を見下ろしながら、ぼそりとつぶやいた。

 「わしは情けない・・・」

 ああ、始まったと思った。これから息子はんの、わけも分からぬ愚痴を聞かねばならぬのかと憂鬱になった。

 「みんな間違うとる!」

 今、逆らっては話を長引かすだけだと感じた私は、「そやそや」と相づちをうちながら、「せやけど、息子はんも、仕事は一生懸命してるんとちゃうか?」と慰めた。すると、春やんは血相を変えて、

 「あほんだら! 息子のことはどうでもええわい。こないだのテレビや。テレビのこと言うてんのじゃ!」

 国語の試験に出た「虻蜂取らず」ということわざを思い出した。春やんが話し出した。

 

 「こないだの『知られざる古代』というNHKの番組や。北緯34度32分という線の上に、伊勢神宮や大神神社(みわじんじゃ)、二上山や大鳥神社(堺市)などが並んでるというやっちゃ。34度12分というのは秋分の日に太陽が真上を通る線やねん。知ってるやろ?」

 魚熊という名の日本史の先生が、そのことを授業のマクラに話したのを思い出した。、さも自分が経験したかのように、聖徳太子も秀吉があたかも友達であるかのようにしゃべるのが、はなもちならなくて、イヤな教師だったが、そのときは、あの岩熊が神様のように思えた。

 「ああ、知ってるがな! 古代の測量技術のすごさ、というか不思議さ、それどころか太陽信仰から、箸墓古墳は卑弥呼の墓に違いない(とまでは言ってなかったが)と説明できるというやつやろ」と、私は岩熊から聞いたままを答えた。

 「おお、よう知ってるやないか!」

 春やんに、ようやく笑みが生まれた。と、思うやいなや、立て板に水でまくしたててきた。

 ――実はわしもあれとよく似たこと考えてたんや。しかし、34度32分という緯度の線上にあるというのは気がつかなんだ。わしが考えたのは、大神神社のある三輪山、藤原宮を囲む大和三山の一番北側にある耳成山、それと二上山を結ぶ線や。どれも神聖な山や。南北に二、三キロはずれるけど、奈良盆地に立って見たら、ほぼ一直線上にある。しかも、三輪山から真東に行くと伊勢神宮がある。これが昔のやつらには不思議あったんや。そやからこの線の上に「横大路」という大きな道を造った。ええか、こっからが問題や・・・。東に真っ直ぐ道を伸ばしたら西にも伸ばさんかい。それが人情というもんじゃい。二上山から真っ直ぐ西に線を伸ばしたら、こんもりとした山があるやろ――

 私はとっさに「喜志の宮さんとちゃうか」と答えた。

 「そや、喜志の宮さんや、つまり美具久留御魂神社やがな!」

 そういいながら春やんは、落ちていた棒切れで地面に書き出した。

 

 【西】 ▲美具久留御魂神社--▲聖徳太子廟--▲二上山--▲耳成山--▲三輪神社 【東】

           ( ? 王朝)            (大和王朝)

 

 「ええか。三輪神社や耳成山あたりには、大和王朝がある。ほんなら・・・」

 しばらく間をおいて、春やんがおそろしいことを言い出した。

 

 「実は、この二上山と美具久留御魂神社の間にある平地にも王朝を造らんかいな。その平地というのは・・・喜志やがな、喜志王朝や! ところがや、どうしたはずみか、ちょっとずれて、羽曳野・堺に行ってしもた。河内王朝や・・・。

 世の中というのはうまいこといかんもんや。わしもこの年で息子のために何でこないに悩まんならんのかと思うと情けないわ・・・。ところで、おまえ、うちの息子のことどない思う?」

 えっ、ここから本題の「ややこしい話」に入るんかいな!!

 

【補説】

 NHKテレビの「知られざる古代 謎の北緯34度32分をいく」という番組の元になったのは、小川光三という人の『大和の原像――古代の祭と崇神王朝』という著書です。これに感銘を受けたNHKのディレクター水谷慶一さんが番組の内容を書物に書き、世に広まりました。

 北緯34度12分というのは、春秋のお彼岸の日に、太陽が真東から昇り、真西に沈みます。そこで、奈良県の飛鳥地方には、彼岸に「日迎え」「日送り」という行事があったそうです。早朝に弁当を持って家を出て、東にあるお宮、つまり、大神神社(三輪神社)に参拝して日の出を迎え、それから太陽の進むままに西に歩いていき行き、当麻寺へお参りして、西願浄土を願います。神仏習合の見本のような行事です。

 喜志に、この行事はありません。東にあるのは聖徳太子の陵墓がある叡福寺で、西は美具久留御魂神社で、東西が逆になるからです。飛鳥と喜志は、二上山をはさんで東西対称になっているのです。ただ、喜志でも、彼岸に限らぬ日々の生活の中で、朝日に向かって柏手をうち、夕日に向かって南無阿弥陀仏を唱えている人をよく見かけました。

 「太陽の道」の線上に美具久留御魂神社もあるという春やんの説は新鮮でした。そこで、日本史の副読本や地図で調べると、三輪神社の拝殿は西を向き、美具久留御魂神社の拝殿は東を向いている。付近の地名を調べると、美具久留御魂神社のある喜志は、かつて喜志の茅原(かやはら)と呼ばれ、一の鳥居があるあたりは桜井という地名。三輪神社の西側にも茅原という地名があり、その一帯は桜井だということです。意図的に東西対称したのではないでしょうか。

 春やんの「太陽の道――喜志王朝」説は案外、的を得ているのかもしれません。

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