河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十二後半 鎌倉 ―― 願わくば 

2022年02月14日 | 歴史

 【大深の西行桜】 

 この話の続きは、高校生になってから聞きました。前と同じく桜の花が咲いている頃でした。春やんは、桜を見ると西行法師のことを思い出すようです。

 前に記したように、喜志地区には桜の木が少なく、我が家にも桜の木はありませんでした。その日は、真っ赤に咲き誇る椿の木の下で、ほろ酔い気分で、春やんが話し出しました。私が高校生ということもあったのか、赤い椿の花の下であったためなのか・・・、ちょっと色っぽい話でした。

 ――西行法師というのは、二十三歳で出家するのやが、それまでは武士で、平清盛とは同い年で顔なじみ。時の関白の藤原頼長も日記に「ええ男や」と書いているぐらいやから、若いときからその才能は認められていたし名も知れていた。おまけに腕も立つし男前ときてるがな。

 それが世を捨てて出家した。どうやら女関係が盛んあったようで、鳥羽院の中宮の侍賢門院璋子との恋路ゆえであったというなあ・・・。しかし、身分が違うために叶わぬ恋。そこで、世をはかなんで出家した。このときは妻娘もあって、出家の時は、よりすがる愛児を蹴たおして行ったという。それから、吉野・大峰・奥羽と旅をするのやが、31歳の時に高野山へとやって来て、三十数年の間、と修行を積む。

 実は、京の都で捨てた妻と娘が、捨てられたすぐ後に、高野山の麓の天野の里(現在の和歌山県かつらぎ町)にやってきて住んでいたんやなあ・・・。奇遇というよりは、打ち合わせしとったんやろう・・・。内緒で、何度となく逢瀬は重ねてた。人間の業(ごう)の深さや。まあ、それだけに、あんな人間的な歌が歌えたんやろう。

 1177年にこの妻が亡くなると、娘を残して、こんどは伊勢の二見が浦へと行く。その翌年に平清盛が後白河法皇を幽閉して、源平の合戦の始まりや。富士川の戦で平家は敗走、翌年、清盛が亡くなる。それをみこして、木曾から義仲が進軍し、京に入って、平家は都落ちをするのやなあ・・・。一の谷、屋島と戦が続き、壇ノ浦でとうとう平家は滅亡。その大手柄が源義経や。ところが、その人望の大きさが兄の源頼朝にとっては脅威となって、1186年、義経討伐の命令が下る。そのときに、頼朝が呼び出したのが西行法師や。

 名も知れ、才も有り、僧侶ゆえに東大寺勧進の砂金集めという大義名分もある。おまけに西行は奥州藤原氏の親戚にもあたる。何の疑いも持たれようもない。そこで頼朝は西行に、義経を保護するであろう藤原氏を偵察に行ってこいというわけや。

 奥州での努めも無事に果たした西行法師、都に帰って来たが、気になるのは和歌山の天野の里に残した娘のことや・・・。そこで西行、東高野街道を南へと急いだ。そのときに、喜志の交差点で例の事件に出くわした。

 西行法師に助けてもらったあの女、歳のころは三十五前後のの女ざかり。夫を源平の戦で亡くして、今は一人者や・・・。対する西行も、七十歳になったとはいえ、浮名を流した男前。この道その道、あの道だけはやめられへん。

 目の前に女ざかりで、品があって、美しい女がいる。西行の手が女の膝にそっと伸びていく・・・。今にも触れんとしたそのとき、女がするりと膝を引いて言った。

 「あの世にて逢うこともがな、うつ蝉の、この世にては逢わず。三世過ぎて後、天に花咲く如月(きさらぎ)に、人間(じんかん)絶えし西の方、弥陀の浄土で我を待つべし・・・あなかしこあなかしこ

 えらい難しいこと言いよった。はてその意味はと思いを巡らし・・・、さすがは西行法師、この謎を解きよった。

 「あの世にて逢うこともがなうつ蝉の」というのは、「夫はあの世にいったがゆえに、今の私は逢うことも叶わぬ、蝉の抜け殻のようなはかない身です」という意味や。

 「この世にては逢わず」」は、夫との操を守るために、今はあなたとは合い添えません。「三世過ぎて後」は、夫が亡くなり三年過ぎてから。

 「天に花咲くきさらぎの」・・・花が咲き乱れる如月の春に、「人間絶えし西の方弥陀の浄土で我を待つべし」・・・人里はなれた山奥の阿弥陀仏をまつったお寺でお待ち下さい。

 あなかしこあなかしこ・・・というわけや。

 喜志の女は身持ちが固い。夫の喪に服した後の三年目に、もう一度お逢いしますので、西にある山奥の寺でお待ちください、というわけや。

 西行法師もお坊さんや、無闇なことは出来ない。深くうなづき、合掌して一首、

  願わくば花の下にて春死なむその如月の望月のころ

 願いが叶うのであれば、花のように美しいあなたとともに死んでみたいもの……。あなたの言う如月(旧暦2月)の望月(満月)のころに、と歌ったあとに、

 「せめてそれまで、あなたの身代わりとして、あなたが今日、男どもに襲われた時に持っていた、そこに有る 綿を私に売ってくれませんか?(売るか?)」と女にたずねた。

 それに対して、女が歌を一首、

 石川のきしべで逢いし鮎にこそうるかといへるわたは有りけれ

 それを聞いて西行法師は女に別れを告げ、東高野街道を南へ、和歌山の天野の里へ行き、娘の安否を確認すると、今度は東高野街道を京の都へ。喜志の女には見向きもせずに嵯峨へ行き、歌の整理を済ませた。そして三年たった文治五年(1189)の如月に、約束どおり喜志に来て女と再会。人里はなれた葛城山の麓にある、弥陀のまつられた広川寺で二人仲良く暮らし、一年後の如月の満月の日に、「願わくば」の歌の通りに、桜の下でその生涯を閉じた。

 女が住んでいた屋敷に植えてあった桜は、喜志でも数少ない桜でもあったので、「大深の西行桜」というて、花が咲く頃を春ゴト(休日)にし、葛(クズ)で作った桜餅を持って、その桜の木の下に集まって花見を楽しんだということや・・・あなかしこあなかしこ。

 そう言いながら、春やん、椿の花を一枝折り、

 ♪旅の衣は篠懸(すずかけ)の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしおるらん。♪時しも頃は如月(きさらぎ)の・・・と謡いながら帰って行きました。

 

【補説】

 女が歌った「 石川のきしべで逢いし鮎にこそうるかといへるわたは有りけれ」の歌には「きし」「うるか」「わた」が掛詞(かけことば=駄洒落)になっています。

 次のような二通りの解釈が可能です。

①石川の流れる喜志でお逢いした鮎=あなたにこそ、売ることの出来る綿があります。(あなたの意のままになりますよ)

②石川の岸辺に群れる鮎には、これぞウルカ(鮎の腸を醗酵させた珍味)といえるきれいな腹わたがあります(私の腹は決まっています)

 どちらにせよ〈あなたとともに生きていきたい〉という意思をあらわしています。

※「願わくば花の下にて春しなむその如月の望月のころ」の和歌の「如月の望月のころ」は、旧暦の2月の中旬頃で、お釈迦さんの命日をさしています。新暦では3月の中旬から下旬。本来は悟りを開いたような歌ですが、春やんのおっちゃんは、色っぽい歌に解釈していました。人間らしい歌を詠んだ西行から考えると、春やんの解釈が正解だと思います。「花」は桜のことですが、染井吉野ではなく山桜です。

 大正十五年に発刊された『郷土史の研究』(南河内東部教育会 編)では、「願わくば・・・」の歌は写真のように「同じくは・・・」となっています。

 自らの死を感じ「同じことならば・いっそのこと」「花のもとにて=喜志の女が看取るもとで」死んでいきたい。そんなふうにも解釈できます。

※「大深(おおけ)」は現在の喜志町です。喜志駅の東ロータリーを真っすぐ東へ200メートルほど行った所に、「大深」と書かれたバス停があります。このの話を聞いた時、登下校の際に大深の村の中を通って、桜の咲いている家を探した記憶があります。よく考えれば九百年も前のことで、「大深の西行桜」はもはや有ろうはずもありませんでした。昔は立派な西行桜があったのでしょう。当時の喜志村の名物は桜餅だったそうです。

コメント
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