河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十一後編 平安――八幡太郎は恐ろしや

2022年02月11日 | 歴史

【出る杭は打たれる】 

 朝食を済ませ、8時頃に家を出ようとすると、バリバリとテーラ〈耕うん期の後ろに荷台をつけた車〉の音を響かせて両親が帰って来た。向かいの家の杉の木の上で、カラスが一声鳴いた。

 あわただしく着替えをする両親の話し声の中に「春やんが死によった」という声が聞こえた。

「出る杭は打たれるけども、出る杭が正しいこともある」と、昨日、春やんの言った言葉が頭をよぎった。

 両親は慌ただしく着替えを済ますと、テーラに乗って市内にある病院へ出かけた。

 その日の稲刈りは必然的に中止なのだと思った。遠い親戚とはいえ、町内にいる親戚の不幸に仕事をしているのは村のもの笑いになる時代だった。私は、庭の真ん中にあった便所の西側に積み重ねたシバ(風呂の焚き付けに使う木)の上に座って、春やんが、今、眠っているであろう南の空をぼんやりと眺めていた。大きな椿の木の下で、日陰になってひんやりと寒かった。

 春やんが死んだ……、という実感はなかった。それより、人の死は偶然ではなく、何か重い必然のようなものがあるのだと思った。椿の木の下のアオキの木が早くも実をつけていた。血のように、やけに赤かった。

 どのくらいぼおっとしていたのだろうか。バリバリッとテーラの音がし、両親が帰って来た。庭の出入りばなにテーラを止めると、静かに家の中へ入っていった。私も、その後に続いて家の中へ入った。季節はずれのオハグロトンボが、真っ黒な羽をひらひらと動かしながら、前栽(せんざい)の榊の木の下で飛んでいた。

 親父が水道の水をコップに入れながら、

 「ナイフで刺された……と、聞いたから、こら死によったと思うたんやけど、運の強いオッサンやわい!」と、コップの水をグイグイと飲みながら叫ぶように言った。

 春やんは生きていた。私は、「死んだ」と聞いた時よりも、なぜか足がガクガクして、その場にへたるように座りこんだ。ポロリと一つだけ、ほっぺたに涙が流れたように思う。

 後で聞いた話によると、当時、春やんは町内会の代表として喜志地区のある役員をしていた。「わしは、そんな人(ニン)ではないわい」と、最初は役を辞退したのだが、他町とちょっとしたもめ事があって、ここは春やんでなければまとまらないということになって、不承不承に引き受けたそうだ。しかし、春やんはがんとして言い分を通し、かえってもめ事は大きくなっていた。

 にっちもさっちもゆかなくなって、相手方は、ある親分を中に入れて話をまとめようとしたらしい。普通ならば、長いものには巻かれろで落着するのだが、春やんは、筋を通した。間違いは間違いとして、がんとして受け付けず、逆にくってかかったのだ。

 昨夜、相手側との話し合いがあったのだが、まとまらず、「まあまあ……次回は」ということで、すこしばかりの酒が出て、お開きとなった。その帰り道、月明かりを頼りに、春やんが、ふらふらと歩いていると、後ろから、

 「おっさん、大丈夫か?」という声がした。春やんが振り向くと、

 「大きな顔さらすなよ!」という罵声がし、一人の若者がナイフを持って春やんに向かって来た。

 「なんじゃい!」と春やんが言うなり、男のもったナイフが春やんの腹を突き刺した。にぶい音がして、春やんはその場に倒れた。その音で男は確信したのか、あとも振り向かずに逃げ去った。 

 逃げ去る男に向かって、春やんは一声、

  「こら、忘れもんや。ナイフ、持って帰らんかい!」と叫び、腹に刺さったナイフを自分で抜いて、男に向かって投げつけた。その声を聞いた近隣の人が警察に通報し、春やんは病院に運ばれた。

 素面(しらふ)ならば死んでいたかもしれない。酒に酔ってふらふらとしていたために、ナイフは急所をはずれ、おまけに、当時流行のラメの腹巻きに入れていたプラスチックの煙草入れを突き抜いたおかげで、脇腹にわずか1センチほど刺さっただけだったという。

      

 二、三日後、母に連れられて病院へ行った。春やんが私を連れて来いといったらしい。六人部屋の病室に入ると、春やんが開口一番、

 「遅いやないけぇ! 明日、退院やがな!」と、患者とは思えない大きな声で言った。

 他の患者さんは、どういう話の成り行きになるのかと、クスクスと笑いながら私たちを眺めている。

 「よう来てくれた」と涙を流して私の手を握ってくれるのかと予想していたのに、。死にかけたんとちゃうんかいな、このおっさん……と、私は心の中で叫んだ。

 「人間、己の意地を通したらこないになるということやなあ……」

 おい、おい、「出る杭は打たれるけど、言うべきことは言わんとあかん」と言うたんは誰やねん……。もう一度、心の中で叫んだ。

 「あの八幡太郎義家も、出る杭は打たれるを、ようさん経験した。八幡太郎義家の気持ちが、ようわかる!」

 お母んの前でそんなん言うてもわからんやろと、ツッコミをいれたかった。八幡太郎は恐ろしや、と思った。 

 一通り話をすると、春やんは、息子の奥さんが買ってきたガラスの水差からごくりと水を飲んだ。春やんが酒ではなく、水を飲んで話をしをしたのは、これが最初で最後だった

【補足】

 八幡太郎源義家は、清和天皇の末裔(清和源氏)であるとともに、北面の武士として天皇の警護にあたったことから、戦前の教科書にはよくとりあげられています。

 しかし、弟義綱とのいさかいがあった後の十五年間ほどは表舞台には出てきません。義家の勢力拡大を恐れた朝廷が、弟義綱や平正盛(まさもり=平清盛の父)を重用する方針をとったためです。またしても、出る杭は打たれたのです。

 実は、春やんを見舞いに行ったとき、義家の晩年をながながと話しました。書こうと思ったのですが、かなり複雑なので、以下にまとめました。

 晩年、義家は長男の義宗が早死にしていたため、次男の義親(よしちか)を嫡男にします。しかし、義親は西国で反乱を起こし、義家の没後、平正盛に討たれます。

 三男の義国は関東で叔父の源義光一族と争ったため二人とも廃嫡されました。

 義家死後、後継者となったのは四男の義忠ですが暗殺されます。

 後を継いだのは次男義親の四男の為義(ひ孫)でしたが、問題を多く引き起こして朝廷から嫌われ、河内源氏の勢力は弱小化してしまいます。

 これを挽回したのが、為義の長男の義朝でした。しかし、平治の乱で壊滅してしまいます。

 ここからが、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の話です。義朝の三男・源頼朝によって義家は伝説化され、再び表舞台に登場するのです。

 現在は、河内源氏の菩提寺であった通法寺跡(図の右半分のみ)が残っています。境内に義家のお父さん頼義の墓があり、その南東の山の中に、義家と頼信の墓があります。

 小学校3年生の時の遠足コースで、小学校から通法寺まで歩かされました。

 「家から行った方が近いやん」とぼやいたのを覚えています。

※図は『河内名所図会』(国立国会図書館デジタル)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする