【謎の木札】
寒い日が続いたせいで、新学期が始まっても、まだ桜の花が残り、盛んに花びらが散っていた。とはいえ、喜志地区には桜の木があまりない。「屋敷に桜の木を植えるな」という「掟」のようなものがあったからだ。その他にも「屋敷に実物(果樹)を植えるな。実が落ちる(身が落ちぶれる)から」とか、「屋敷に藤の花を植えるな」というのがあった。
私が成人してから、ある時、一才藤というフジの苗木を買って、上等の植木鉢に植えた。翌日の朝、植木鉢にフジの苗木はなかった。母が裏の溝に捨ててしまったのだ。
「何するねん」と食ってかかった私に、
「フジは、不治の病につながるから植えたらあかんのや!」と、母は言いはなった。
私は「不治」ではなく「不死」と考えたらいいではないかと言い返したものの、
「親が不治の病になってもええんか!」と、がんとしてひかなかった。
後年、寺の御縁さん〈和尚さん〉から「『門徒もの知らず』というのは、知識が無いということではなく、迷信を信じないということや」と聞いたことがある。果樹や藤の掟は、いくら考えても迷信である。ただし、桜は虫がつきやすいうえに、落ち葉で近所に迷惑をかけるという生活的な理由があるので、納得できなくもない。
毎年、4月の11日と12日は「太子参り(たいっさん)」の日だ。「春ごと(春の祭事)」になっていて、「物日(もんび」で、仕事をしてはならない日だった。春の農事を始める前の一休みという意味があったのだろう。家々では、餅をついて神仏に供え、太子町にある叡福寺にお参りした。
中学校に上がったばかりのほやほやの時、友達三人と太子参りをした。「いつまでも小学生みたいに露店を冷やかすのもそろそろかっこ悪いなあ」と、少しは大人になっていた。
雲ゆきがあやしくなったので、早々に帰り、河南橋のそばの友達の家の前で、新しい学校の話をしていた。しばらくたった頃に、自転車の音をさせて、小雨の中を春やんがやってきた。私たちを見つけて、
「おお、太子参り行ったんか? おまえらも早々に帰って来たんかいな。わしといっしょや。どや、これ食べるか?」
自転車の前かごにある新聞紙の包みから、ヒノキの葉っぱが見えてい。開ける前から川ガニ(モクズガニを蒸したもの)だとわかった。喜志地区の縁日に、川ガニは付き物で、正月は天神さん(道明寺天満宮)の山門の階段の下、太子参りも山門の下、秋祭りは二の鳥居の入口と、決まった場所で売っていた。生臭いものなので、境内は遠慮していたのだろう。
私たちは一匹ずつもらった。春やんは残ったカニの重さを一匹ずつ確認し、重そうなのを選んで食べだした。「ようさん買うたるさかいに、じゃかまし言うな!」と啖呵をきって、一匹ずつ重さをみて、選んできたのだろう。蓋(甲羅)をあけると、春先とはいえ、どのカニにもけっこう赤い身が詰まっていた。
カニを食べている間は、口も手も忙しいので、静かなものなのだが、春やんは酒が入っているのか、例によって例の如くしゃべり出した。
「ええか、今からお前らにクイズだしたるさかいに、聞いときや」
そう言ってポケットからワンカップを取り出し、蓋を開けて、ちびりちびりと飲みながら話し出した。
――文治二年(1187年)、いい国つくろう鎌倉幕府の五年前。春の訪れがようやく感じられる如月(きさらぎ)の半ばごろ、新暦で言えば三月の下旬のことや。
喜志小学校の西側に細い道がある。あの道は東高野街道というて、京都から高野山へと通じる道や。当時の国道や。その東高野街道を、墨染めの衣に身をまとった、すでに齢は七十はすぎたとみえる一人の坊さんが、南へと急いでいた。小学校から西へちょっと曲がった、大深(おおけ)の交差点(現在は喜志交差点)、駐在所のあるあたりにさしかかったときや・・・。
向こうの方から一人のお女中。年のころなら三十・・・三十五・・・、いや、四十・・・、まあ、歳はどうでもええ! 黄ちりめんに鹿の子模様の着物を着た、色白でなかなかのべっぴんさんが、大きなイカケ(竹かご)に、白い綿の実をいっぱい入れたのを手に持ってやってきた。
坊さんの姿を見て立ち止まり、うやうやしく頭を下げる。昔の女は皆、奥ゆかしかった。
坊さんも合掌をし、軽く振り向き行き違う。そのときに、ちらりと見たお女中のなんと麗しきこと。
そう思ったときや。バラバラと飛び出してきたふんどし姿の男が数人。刀を抜いてその女を取り囲んだ。
「おい、手に持っている綿をよこさんかい!」
「何をご無体な、この綿は・・・」
「黙ってよこさんと、この綿だけではなしに、おのれの腹わたもいてまうぞ!」
「河内源氏の方とお見受けいたします。どうぞお許しくださいませ」――
春やん、ここでワンカップをごくりと飲んで、フーッと大きく息をし、勧進帳の弁慶よろしく、首で大きく見得をきり、
――♪それ、つらつらおもんみれば、鎌倉幕府を開きたる、頼朝ならびに哀れ弟九朗判官義経も、元を正せば喜志村の東の方なる通法寺、頼信、頼義、義家と、三代続いて名を轟かす、河内源氏の末孫なり――。
春やん、いきんで言うもんやさかいに、ワンカップの酒があたりに飛び散って我々の目に入り、みんな目をしくしくさせながら聞いていた。
――女が今にも押し倒されようとするその時、さきほどの坊さんが両手を大きく開いて中に割って入った。
「しばし待たれえ!」
「なんじゃい! 旅のくそ坊主やないかい! じゃまをしたらおのれもいてこますぞ!」
この坊さん、元は侍かとみえて、腰のすわった物言い、しぐさ。本来ならば右に左に投げ捨てたいところやが、七十歳ちかい老体や。懐(ふところ)から通行手形のような木札を取り出した。
「なんじゃい、そんな木札一枚でこの場を去れと言うのか」
男が一人、木札をへし割ろうと近づき、木札を見てびっくりし、その場にハハーッとひれ伏した。何事かと他の男どもも寄って来て、木札を見るなり、同じくハハーッ!
「なにとぞこの場はお許しを・・・えらいすんまへんでした!」
そう言うなり、男どもは、ほうほうのていで逃げて行きよった。
くだんの女が、「どうも危ない所をお助けくださいましてありがとうございました。名のある御坊とお見受けいたします。お礼のしるしにお茶でもいっぷく・・・」
女に連れられやって来たのがこざっぱりとした草の庵(いおり)。百姓女と思いきや、何か事情のある女よと思いつつ、言われるままに坊さんが家の中に入る。床の間の横に小さな仏壇、位牌が一つ置いてある。この坊さん、その仏壇の前へ正座して、両手合わせて無言の読経・・・。
「先年の戦(いくさ)で亡くなりました、わが夫でございます・・・」
着物の袂(たもと)で涙をふく。その姿の奥ゆかしさは、侍の奥方ゆえかと坊さんはようやく納得した。
「さようでございましたか・・・それはそれは・・・」
女の方へ向きなおそうとした時、ふと外に目をやると、桜の花がちらほらと咲き出している。それを見て坊さんが、
「心なき身にもあわれは知られけり・・・」とつぶやいた。
この言葉を聞いて、女は、さてはと思い、桜の花によって来た一匹の蝶々を指差して、
「蝶なれば二つか四つも舞うべきに、一つ舞うとはこれは半なり」
これに対して坊さんが、
「一羽にて千鳥と言える名もあれば、一つ舞うとも蝶は蝶なり」と返した――
歌舞伎の女形のようにしゃべる春やん。みんなくすくす笑った。それで頭にきたのか、春やんがきっと目を見開いて、
――おいおい、おまえらこの歌の意味わかってんのかいな?
坊さんが「私のような無理解な人間でも、なんとなくもののあわれを感じます」と和歌の上の句を詠んできたのに対して、女が、
「丁なら二匹か四匹の偶数のはずやのに、一匹しかいてないのは半ですね」と下の句を返した。
丁半ばくちというのがあって、さいころの目が偶数なら「丁」、奇数なら「半」というのや。
女がみごとな下の句を返してきたので、坊さんも負けてられん。
「一羽でも千鳥(ちどり)という名もあるから、一匹でも丁です」と歌を返したのやなあ・・・。
さあ、ここからや! お坊さんの、あまりの返歌の巧みさにこの女、はっと両手でひざを打ち、
「もしやあなた様は・・・鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ・・・」
「いえいえ、御覧の通りの心なき身の旅の僧でございます・・・」
さあここでや、おまえらこの坊さんが誰かわかるか――?
春やんがやっとクイズを出してきた。えらい長いクイズやなあと、みんなぽかんとしている。春やんはポケットから二本目を取り出して、シュカーンと蓋を開け、グビリと飲んで続けた。
――この喜志に来る前まで、坊さんは、奥州におったんや。ヨーロッパと違うぞ。奥州、つまり、東北、平泉に行っとんたんや。平泉といえば藤原三代、金色堂を造った藤原氏に、東大寺の大仏を造りなおすための勧進に行ってたんや。しかし、それは表向き、実は鎌倉幕府初代将軍源頼朝のたのみで、弟の義経が頼って行くであろう藤原氏の偵察、スパイにに行ってたんやがな。
さっき、坊さんが取り出した木札には、奥州に行く前、鎌倉に寄った時に、頼朝から頂戴したものや。
この木札には、「天下御免 頼朝」と書かれてあった。元を正せば頼朝は河内源氏の末裔やが、この時には日本全国にいる源氏の棟梁や。その頼朝の名が書いてあるんやさかいに、そこらあたりの源氏のチンピラはひとたまりもない!――
酔いがまわってきたのか、春やんの目が、いつものようにしくしくし出した。
――さあ、さっきのクイズの答えやが・・・、中学生なったばかりではわからんかもしれんな。知らんかったら教えたろ、西行法師というて、日本で一番歌のうまい人や。歌いうても森進一とちがうぞ。和歌のことや、わかるか? さっきの話の中のお女中は、西行法師であることに気付いていた。
女が「もしやあなた様は・・・鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ・・・」と言ったのは、坊さんが最初に言った「心なき身にもあわれは知られけり」という和歌の下の句や。
心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ (百人一首)
いつか勉強するはずやから覚えておけ。西行法師は、葛城山の麓、河南町にある広川寺で死なはった人や。
願わくば花の下(もと)にて春死なんその如月の望月のころ ・・・ちゅうやっちゃ!――
と、からになったワンカップの瓶ををカニの爪でチーンとたたくと、春やんのおっちゃんもチーンして、こくりこくりと寝てしまった。
後半に続きます
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