伯父の結婚式の日だった。秋祭りが終わってすぐのよく晴れた日だった。昼前に、白無垢に黒の留め袖を羽織った花嫁さんが、文金高島田もういういしく、ハイヤーで家にやって来た。
玄関で、女の人が空っぽの「たらい」を出す。花嫁さんはそれに形ばかりに片足を入れる。「桶(棺桶)に入るまでこの家にいます」という意味だ。
その後、仏壇の前に座って手を合わせ、赤い房のついた白い数珠を置き、線香をお供えしてご先祖へのあいさつをする。「嫁迎え」という行事で、私は初めて見る儀式で、結婚というものは不思議なものなのだと思った。この後、新郎新婦は神社へ行き、式を挙げた。
披露宴は我が家で行なわれた。部屋を仕切っていたガラス戸や襖がはずされると大広間になり、四、五十人は座れた。仲人さんに挟まれて、紫の座布団に新郎、新婦は赤の座布団にかしこまって座っている。一通りのあいさつが終わると、両家親族の固めの杯が交わされる。新郎側、新婦側と交互に杯が回される。「千鳥の杯」というのだそうだ。中学生の私も末席で苦い酒に舌をつけた。
儀式が終わると、司会者が、「ただ今より、新郎新婦は白浜温泉二泊三日の新婚旅行へと向かいますので失礼をさせていただきます。みなさまには、この後、ごゆっくりと酒宴を挙げていただきますよう」と言って、新郎新婦をうながす。わーっと喚声が起こり、新郎の幼なじみの数人が口々に「頑張れよ」と声をかける。なにを頑張るのか中学生の私にはわからなかった。
新郎新婦が腰をあげると、広間の真ん中の大黒柱にもたれかかっていた春やんが、大きな声で歌いだした。
「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出るからにゃ、手がらたてずにおられよか……」
ますますわけがわからない。
他の人も続いて歌いだして大合唱になった。その中を、二人は赤い顔をして退席していった。
二人がいなくなると、酒宴はますます陽気さを増し、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎになった。何ん本ものお銚子を盆に乗せて、女の人があわただしく動く。そのうち猥歌も飛び出してきたので、親戚のおばさんが、子供はここまでと、私たち子供に離れで遊んでくるように促した。
夕方近くなると、遠方の人から席をはずし出し、酒宴も静かになった。広間に行くと、近隣の親戚と村の人が十人ほど、春やんを囲んで酒を飲んでいた。
この年七月のアポロ11号の月面着陸の話だった。
「春やん、あれほんまやろか? 人間が月に行くやなんて?」
「そらわからんで、天下の副将軍の水戸光國の黄門さんが、日本全国を旅するんやさかいに!」
「そない言うたらそやなあ」
月と黄門さんがどこでどう結びつくのか……? みんなかなり酔っている。この年の八月にテレビで「水戸黄門」の第一話が放送されたので、オッサン連中には素直に結びついたのかもしれない。
「春やん、テレビの黄門さんは、そのうち川面にも来るんちゃうか?」
「そらわからんわい。しかし、黄門さんよりももっと偉い人が、昔、この川面に来てんねんぞ!」
「ええっ、そら誰やねん?」
「奈良時代の聖武天皇や!」
えらい話になってきた。春やんは、目をしくしくさせながら話しだした。
時は天平15年、地震が起こる、飢饉が起こる、そこへ悪い病気が大流行する。この時の天皇さんが聖武天皇。なんとかせねばというので、庶民のために大仏を立てて平和を祈願しようとした。今の奈良の大仏さんや。なかなか信心深い人やなあ。しかし、人間二つ良いとこはない。この聖武天皇は一代のうちに五回も都をかわってるねん。まずは平城京、次に恭仁(くに)京、そして難波京、紫香楽(しがらき)京、最後にまた平城京に戻ってくる。じっとしてるのが性に合わん人あったんやなあ……。
そやから、年に何回も行幸(みゆき)をしてる。ホルモン屋のミユキとちゃうで。天皇さんが旅に出ることや。普通は大勢の家来を連れて旅に出るのやが、なかなかの庶民思いのお方や、家来数人だけ連れてお忍びで旅に出るということもあったそうな。
時に天平16年一月のことや。恭仁京を都とするか、難波を都とするかどっちにしようかと迷っていた。そこで家来の者にたずねると、恭仁京という意見が大勢を占める。よし分かった、恭仁京にしよう、と決心をする。しかし、それでは難波に準備にやらせた家来どもに申しわけない、事情を説明せねばというので、家来の者数人を連れてお忍びで旅立った。
聖武天皇は大和の薬問屋のご隠居で聖衛門、息子の安積親王(あづみしんのう)と大臣の橘諸兄(たちばなのもろえ)はその手代という旅姿。後ろから影となってつき従うのは行基(ぎょうぎ)というお坊さん。この人は、大和の岡寺で法相宗の道照に帰依し、修行を積んで呪術にたけた人。その力で多くの信者を集め、庶民のために土木工事をし、お寺を建てていた。ところが、無許可の営業であったがために、勝手なことをするなと聖武天皇からにらまれていたんや。しかし、この時は、大仏を作って人々の平和を願おうとする聖武天皇の気持ちと意見が一致して、今は大仏建立のお金集めに苦心していた。後に大僧正にまでなる人や。
一行は、本来ならば大和川にそって竜田道を下るのやが、河内の荒れようがはなはだしいというので、下つ道を南にとり、飛鳥から横大路を西に、二上山の竹ノ内峠を越えて、やって来たのが喜志村や!
陽もとっぷりと暮れてきた。どこぞで宿を……と思うのやが、この時の喜志は、聞きしにもまさる荒れようで宿屋が無かった。
そこで、橘諸兄が言うには「川面の隣に桜井という村がございます。ここに私の知り合いの桜井田部連犬(さくらいのたべのむらじいぬ)という豪族がおります。私の母、つまり天皇の奥様の光明皇后様の母でもある県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)とは遠縁にあたります。快く泊めてくれることでしょう」。
諸兄が行基に目配せをする。行基がすっと姿を消す。先乗りしてこいということやなあ……。
一行が桜井田部の館へ向かおうとしたその時や。十数人のならず者が草むらから飛び出して、周りを取り囲んだ。
「身ぐるみ脱いで置いていかんかい!」
さっきも言うたように、飢饉が続いて人々の気持ちもすさんでいたんやなあ。諸百が聖武天皇の盾となって、「おいおい、この方を……」と言おうとすると、聖武が「待て待て、まずはこらしめてあげなさい」と言う。さあこっからチャンチャンバラバラチャンバラバラや。諸兄と安積親王が次から次へと盗賊をやっつけていく。
あと数人という時や、盗賊の頭領(かしら)が、ご老公の後ろから斬りかかろうとした。ご老公危うし! その時、ひゅるひゅると風車が飛んできて頭領の手にブスッと刺さった。忍者のように行基が飛び出してきて、頭領をやっけてしもた。風車の弥七みたいなもんやなあ。
しばらくすると、桜井田部連も騒ぎに気づいてやって来た。聖武天皇、もうよかろうと杖をトンとつく。それを合図に諸兄が、風呂敷でつつんだ柳行李の中から木箱を取りだした。大和の置き薬が置いていくあの箱や。その箱をかかげて、「ひかえ、ひかえ! この方をどなたと心得る。天の下をしらしめす帝、聖武天皇なるぞ。一同の者、頭が高い!」
盗賊も桜井田部も何のことじゃと置き薬の箱を見た。普通はダルマのマークや。「寝てもすぐに起きる」というマークなんやが、ここはそんなんと違う。なんちゅうても天皇さんや。菊の御紋がドーンと付いたあるがな。これを見て皆はびっくりや。その場にハハッーとひれ伏した。
「天下を乱す極悪人め。その身柄、桜井田部連に預ける。厳しき沙汰あるまで神妙にいたせ」
天皇の言葉に盗賊はハハーと地べたに頭をひっけた、……というこっちや!
※
身振り手振りよろしく、春やんは話すものだから、膳の上はぐちゃぐちゃで、銚子はひっくり返り、畳の上は酒びたしだ。
「春やん、それほんまかいな?」
「ほんまもほんま、ほんまちよこじゃ。この後、大阪側の荒れようがあまりにもひどいことに気づいた聖武天皇は、恭仁京に都をおくことをやめて、急に大阪の難波を都にした。それと、この時に安積親王は溝に足を突っ込んでくじいたんや。それで、一人だけ恭仁京に帰るんやが、諸兄のライバル、政敵の藤原仲麻呂に・・・」
と、言いかけて春やんは、うっと言葉につまった。
それもそのはず、安積親王は暗殺されていたのだ。嫁入りに死ぬ話はゲンが悪かった。
【補説】
春やんは酔っぱらっていたので、酔いに任せた作り話だと思っていたのですが、後で調べてみると、あながちウソでもないようです。
『続日本記』天平16年(729年)に、恭仁京に都を置こうと決めたあと、聖武天皇は難波に行幸しています。その時、「桜井頓宮」という言葉が出ています。頓宮(とんぐう)とは、天皇が旅で泊まる場所です。つまり、聖武天皇は「桜井」という所で泊まったということです。
枚岡市の桜井と富田林の桜井町の二説があるのですが、奈良から大阪に来る近道は竜田を通る道なので、枚岡市説が有力です。
しかし、聖武天皇の皇后の光明子(こうみゅうし)と、左大臣の橘諸兄の母である橘三千代(たちばなのみちよ)の実家は羽曳野の古市なのです。また、聖武天皇に協力して大仏造立に尽力した僧行基(そうぎょうぎ)の父も羽曳野の古市の人なのです(育ったのは、母方の堺市の家原寺。通い婚だったのでしょう)。
また、桜井田部連犬という人も実際に存在し、橘三千代の元の名字の「犬養」と関連があります(天皇が猟に出るときの猟犬を飼育していたようです)。
以上からも、竹ノ内峠を越え、喜志村の桜井町で頓宮し(宿泊)、皇后の母方の実家の古市に寄り、難波へおもむいたというのも考えられるコースなのです。
桜井の頓宮で安積親王は「脚病(かっけ)」によって恭仁京に帰ったとあります。そして次の日死んでいます。政敵の藤原仲麻呂の暗殺であっただろうと言われています。春やんの話に出てくる盗賊は、仲麻呂の刺客だったのです。
また、難波に着いた聖武天皇は、難波京を都にすることを橘諸兄に急きょ宣言させています。
春やんの話、案外本当だったのかもしれません。
橘諸兄は後に美具久留御魂神社に縁起三巻を奉納しています。南河内と縁の深い人です。
「大和の薬問屋のご隠居」というのは、皇后の光明子が自ら薬草を植え、庶民に薬を分け与えた施薬院を建てたことからの連想なのでしょうが、これはちょっとこじつけぽい……。