河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十六 室町――【番外編】

2022年02月23日 | 歴史

 ある日、春やんから聞いた話だ。

 喜志の宮さん(美具久留御魂神社)の一の鳥居の国道(旧170号線=東高野街道)沿いに、茶店があったの知ってるやろ。あの茶店は古くて、昔は、宮さんにお参りに来る人のための接待所、休憩場あった。「お旅の茶屋」というていた室町時代の話や。

 宮さんの方から黒染めの衣を着た坊さんが一人、茶屋にやって来た。坊さんといっても、頭の毛はもじゃもじゃで、無精ひげをはやしたお坊さんや。

 「しばし休ませていただきます」と言って、茶屋の前の床几(しょうぎ)に座る。

 「へいへい、ごゆっくり」と茶屋のおやじが茶を持って来る。

 そのお茶を飲んでいると、太子の方から、紺の青の小素襖(こすおう)に、烏帽子(えぼし)をかぶった若者が一人、茶屋にやって来た。舟木一夫か橋幸夫のような、なかなかの男前や。

 お坊さんがその若者を見るなり、

 「おお、三郎やないかいな」

 若者もお坊さんを見て、

 「あっ、和尚様!」

 「久しぶりじゃのう」

 「このような所にどうして?」

 「知っての通り、せんだってからの戦(いくさ=応仁の乱)で京の都は荒れ放題。わしの寺も焼けてしもうた」

 「えっ、父上の墓は?」

 「本堂から離れた所にあったがゆえに大丈夫や」

 「それを聞き安堵いたしました。こうして和尚とお会いできたのも父上のお導きでございましょう」

 「そうじゃのう、悪いこともあれば良いこともある。災い(禍)わざわいは、福の裏返しにすぎず、福と禍は一筋の縄のごとしということじゃ」

 そんな話をしていると、鳥居の下で猟師と坊主(ぼうず)が言い争いを始めた。和尚が近づいていき、猟師に「どうされました?」とたずねると、

 「へい、今日は仏事があるゆえに、猟師は鳥居をくぐってはならんと・・・」

 そばの立札を見ると、「皮を身につけた者、立ち入るべからず」とある。それを見た和尚が坊主に向かって、

 「釈迦(しゃか)といういたづらものが世にいでて多くの人を迷わすかな。皮をきたものが入れるのならば、お寺の太鼓を捨ててしまわれよ! 太鼓にも皮が張ってあるであろう! ナムサン!」

 大声で恫喝(どうかつ)したので、坊主はたじたじになって逃げて行った。礼を言う猟師に和尚が、

 「太鼓だけにバチがあたった」

そう言って茶屋に戻って来た。三郎が、

 「昔からの頓智は健在ですね! 老いてもなお初心忘るるべからずですね」

 「いやいや、釈迦の教えを笠にきて偉そうにする輩が増えてきた。南無釈迦じゃ 娑婆(しゃば)じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃというが愚かじゃ!」

 「稽古は強かれ、情識(偉そうな心)はなかれとなりですね」

 「ほほう、三郎、だいぶ稽古の腕も上がったようじゃのう」

 「いえいえ、まだまだ父には及びませんが、家にあらず。継ぐをもて家とす(家の芸を継いでこそ家が残る)、ということがようやくわかってきました」

 「それだけでもたいしたものじゃ。時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になお遠ざかる心なり(若い時の美しさを自分の魅力だと思っていると、本当のの自分の魅力にたどりつけない)」

 「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず(思いもかけないところに芸の花がある)」

 「そうじゃ。それで、これからどこへ?」

 「はい、千早へご先祖を偲びにまいります」

 「おお、わしもそうじゃ」

 そう言って、二人は高野街道を南に向かったそうや。

【補筆】

 楠正成公の系図は十六通りほどあるそうです。春やんは次の系図を作って話をしていたのです。

 春やんの話に出てきた和尚はテレビでおなじみの一休さん(一休宗純)です。

楠正成の孫の正儀(まさのり)の次男正澄(まさずみ)の三女が、第百代後小松天皇の官女になり、天皇の寵愛を受けて生まれたのが一休さんです。北朝側の追ってから逃れるために六歳で出家させられます。そして、81歳の時、京都の大徳寺の住職に命じられます。しかし、おりしも応仁の乱のまっただ中で、大徳寺は焼かれてしまいます。そこで、乱からの避難、寺の再建のために、一休さんは大坂の堺へ来ていました。

 正月気分で人々が浮かれている中を、竿の先に人間のドクロ(しゃれこうべ)を刺して、

  門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

と歌って歩いたのもその頃です。漫画のイメージとはかなり違う反骨精神旺盛な坊さんでした。

 一方の若者は能楽を大成した世阿弥(ぜあみ)です。楠正成の妹が、伊賀の服部氏に嫁ぎ、世阿弥の父の観阿弥(かんあみ)が生まれます。子の世阿弥が生まれた31歳の時に、名張市小波田(おばた)で猿楽座(後の観世座)をたちあげます。やがて、観世父子が能を演じ、将軍足利義満に認められます。52歳で病死し、葬られたのが一休さんが和尚となる大徳寺なのです。

 その後、家を継いだ世阿弥が能楽を完成させていきます。

 ※二人が千早に向かったのはご先祖(楠正成)を偲ぶためでした。

 ※赤字部分は二人が残した有名な言葉です。

 このように書くと、春やんの話はいかにもありそうな話なのですが、一休さんが生まれた時(1394年)、世阿弥は31歳でした。つまり、一休さんより世阿弥の方が年上ということです。世阿弥が亡くなった時(1443年)、一休さんはまだ49歳です。春やんの話は年齢が逆転しています。【番外編】としたのは、そのためです。

 美男子だった世阿弥、肖像画の一休宗純のイメージで逆転してしまったのでしょう。

※神社と寺は相反するイメージがありますが、明治時代までは神仏習合(神道と仏教の一体化)の思想で、もちつもたれつの関係でした。神社のそばに寺が、よくあるのはそのためです。喜志の宮には、室町時代に十三の寺があったといいます。「神仏習合ぬきで、歴史を考えたらあかんで」が、春やんの口癖でした。

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