河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十五後編 南北朝 ―― あてまげの溝

2022年02月21日 | 歴史

【大楠公の空手チョップ】  

 「前半」から二週間、春休みが終わり新学期が始まっていた。桜がきれいな時期だったが、前に話したとおり、町内には桜の木はなかった。粟ヶ池の参道か喜志の宮さんに行けば美しく咲いているだろう。そんなことを考えながら夜の8時前に駄菓子屋に行った。前の週よりもさらに人が増えていた。「あてまげの溝」の秘策を皆が心待ちにしていた。

 プロレス中継が終わり、春やんがテレビの前に座って話し出した。

 「さあ、天王寺で京の六波羅軍(都を守る警備隊)を破った大楠公。そのまま押し進むかと思いきや、なんと、兵を引いて金剛山へ帰ってしもた。野球で言うたら、大楠公一人が巨人と戦っている間に、播磨国で阪神の赤松則村というのが巨人軍に反旗をひるがえした。奈良の吉野では後醍醐天皇の息子の護良親王(もりよししんのう)も巨人軍と戦う準備が出来ていた。こうなると全国の阪神ファンも挙兵するやろう。これに対して鎌倉の巨人軍も黙ってないやろうから、千早赤阪の城で迎え撃とうというわけや」

 ここで春やん、例のごとくワンカップを取り出し、シュカーンと開けて、ゴクリゴクリと飲み出した。

 「案の定、関東からの軍勢が京の都に集結した。その数なんと百万人や。こんなん攻めて来よったらどないする? 当時の喜志の人口は500人くらいや。そのうち半分は女や。関東軍百万は全員が男や。おタキさん、あんた百万人の男を相手できるか?」

 駄菓子屋のお婆ちゃんのおタキさんは、年甲斐もなく顔を赤らめた。春やんも酔ってきたのか顔が赤い。

 「ものの本には百万人とあるが、これは大げさや。まあ、よう見積もって七、八万やろ。これが大八車がすれ違えるくらいの細い道を来たら、長い行列できてしまう。そこで河内に通じる中高野街道(国道310号線)と下高野街道(309号線)、それと東高野街道の三つに軍勢を分けたんやなあ。東高野街道いうたら、そこの国道(旧170号線)や。ここを少なくとも三万人の男どもがやって来る。これあったら、おタキさん、相手できるやろ!」 

 「いややわー」と言うて、おタキのお婆ちゃんがますます赤くなった。

 「さあ、ここからが大楠公が定吉に授けたあてまげの溝の秘策や!」

 そう言って、包装紙の裏に書いた絵を、テレビの上からぶらさげた。

 「2月も半ばのことや、関東の軍勢三万人が東高野街道を下って来た。これを真っ先に発見できるのは北山城や。軍勢がやって来たと見るや、一筋の狼煙(のろし)が上がる。これを見た喜志の村々の威勢のいい男たちが、腰のワラ帯に鎌をさし、手には楠公さんに用意してもろた弓矢をたばさみ、川面に集まってくる。女、子どもは安全な所へ逃げ延びる。宮の城から、宮の僧兵と村人が出てきて粟ヶ池の土手に潜んだ」

 「喜志の者だけで三万人を相手にするのかいな。何人ぐらいいたんや?」

 「そやな、元気な男だけやから200人もいたらええとこか」と春やんは言い、ワンカップをゴクリと飲み干して空にすると、店の奥さんに目配せした。奥さんが、一升瓶と湯飲みを持って来て、酌をする。他のオッチャンたちにも湯飲みが配られ、店で売っているノシイカをアテに飲み出す。私たちにはバヤーリースオレンジが配られた。

 「春やん、えらい高くつく話やな」と店のダンナさんが言うと、

 「辛抱しとけ。これも喜志のためや」と言って、話し出した。

 ――関東の軍勢がお旅所に近づいて来た時、潜んでいた宮の衆が粟ヶ池の堰(せき)を一気に開けると、怒濤のごとく水が流れ出した。普段は、街道を横切る1メートルほどの溝に丸太を架けてるだけやが、この日は幅3メートル、深さ2メートルほどに広げてある。おまけに腐った丸太を架けてあったので、先頭の兵が知らずに乗ってドボンや。次から次に落ちて流されていく。

 そのとき、川面に集まった喜志の衆が「オオー」とときの声をあげた。中には「関東のアホンダラ」と叫ぶ者もいる。かぁっと頭にきた関東の軍勢が、川面の方へと押し寄せる。ところが、この日のために、溝を広げて深くして、土が水流で流れんように石垣で囲ってる。おまけに道の左右には竹槍の柵がしかけてあった。

 関東の軍勢が、一本道にうんかのごとく押し寄せて来た。そこへ第一弾の桜井の「あてまげの道」がある。急ブレーキをかけたが、後ろから次々と来るもんやから、将棋倒しで、勢いあまって前の草むらに落ちる。するとそこにも竹槍の柵や。次から次に竹槍の餌食で死体の山や。

 ようやく逃げ切った軍勢が、地蔵さんの方に向けて押し寄せてきた。すると、第二弾の「あてまげの溝」。この頃には粟ヶ池の堰は完全に開けきっているから、溝やなしに濁流になって、大蛇のごとくうねりくるってる。水流の当たる所には、水があふれ出さんように石垣を積んで、竹で編んだ網がかけてある。周りにはやっぱり竹槍や。

 急ブレーキかけたが、後ろから来る味方に押されてドブン。ドブン、ドブンと落ちて濁流に飲み込まれていく。ようやく乗り越えても、次の「あてまげの溝」があるから、50メートルほどの一本道に何千人が立ち往生した。そこへ、喜志城や中野城から駆けつけた楠の軍勢千人と喜志の衆が、雨あられのように矢を浴びせた。関東の軍勢は必死で逃げるが、次の「あてまげの溝」がある。ここでまた立ち往生して、弓矢の餌食や。あわてふためき後ろに逃げるが、宮城、北山城の兵が矢を浴びせた。関東の三万の軍勢は全滅や!――。

 「おおーっと」皆がよろこんだ。一人のおっちゃんが、

 「それでも前に進む者もいるやろ。もう、あてまげの溝はないで!」

 春やんが天下をとったように、「本物の川(石川)があるがな」

【補説】

 喜志地区の田んぼは、石川東部をのぞいて、ほとんどが粟ヶ池から水を引いています。粟ヶ池の水は、上流の富田林の川西あたりから引いているので、池に水を満々と蓄えることができます。 粟ヶ池の堰から川面へは河岸段丘で緩やかな下りです。川面内では二つの坂になっています。大雨の時に溝があふれないように、下に行くほど広く深くなっています。桜井の当て曲げの道も、不自然に曲がっていて、地車を曳いたときは苦労する所です。

 大雨が降り、粟ヶ池の堤防(美具久留御魂神社の参道)が決壊したとき、溝の水が道にあふれて、鯉や鮒が道ではねているのを捕まえたことがあります。それを知っている人たちは、誰も春やんの話をうたがいませんでした。喜志の村人が一つになって三万人の関東軍を破ったと信じてました。

『楠合戦註文』という本の中の、楠公さんの軍勢の中に「喜志党」というのがあります。

コメント
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