河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その十五中編 南北朝 ―― あてまげの溝 

2022年02月20日 | 歴史

【春やんの空手チョップ】

  次の週の金曜日。例によって夜の8時前に駄菓子屋へ行った。噂を聞いたのだろうか、二、三十人は集まっていた。プロレス中継で盛り上がった後、テレビの前に座布団が敷かれ、春やんが座らされた。

 「春やん、こないだの続きや。しっかり頼むで」

 「あわてな慌てな」

 そう言って春やん、いつもの通りワンカップ取り出し、シュカーンと良い音をさせ、舌なめづりしてから、ゴクリと一口飲んで、グルリと皆を見渡し、

 「どこまで話したんかいなあ?」

 「赤坂城を落とされた楠公が、次に北条軍に空手チョップを浴びせると、定吉に言うた秘策からや!」

 「ああ、そやそや」

 二口目をゴクリと飲んで、春やんが話し出した。

 

  「楠公さんの秘策とは、今いる家の前の道に溝(用水路)があるなあ。あれおかしいと思たことないか?」 

 首をかしげて皆が考えだした。すると、春やんが、

 「地蔵さんの西には、溝はどっちにある?」

 「南、左側や」と誰かが言う。

 「ほな、地蔵さんを東に過ぎたら、どっちや?」

 「そら、右側やがな」と別の誰かが言う。

 「ほやろ、四つ辻すぎたらどっちや?」

 「あっ、左側や!」

 「そしたら、この家の前は?」

 「えっ、右側やがな!」 

 頭の中で確認してみると、春やんの言うとおり、ほんの150メートルほどの間で、溝が三カ所ジクザクになっている。

★ 

 「これが楠公さんが授けた秘策や!」

 そう言って春やん、ニタニタして、チビリチビリと飲み出した。皆はなんのことかわからず、考え込んでいる。 

 「富田林(地内町のこと)に、『あてまげの道』というのがあるの知ってるか?」

 このとき地内町はそれほど有名ではなかったので、誰も知らない。

 「紙と鉛筆を貸してんか」

 おくさんが、電話機の所から持ってきた。それに春やんが何か書いて、まえに広げた。

 「どや、この道に敵が攻めてきたらどうなる? 道がグイチ(互い違い)になっとるから、立ち止まるやろ。そこを守り手が隠れていたらやられるやろ。桜井の地蔵さんの所の道もこうなってるやろ」

 再び紙に図を書いた。

 「なるほどなあ。あてまげの道になっとるがな」と誰かが感心した。そして、

 「ほんなら溝はどういうことやねん?」

 「道の真ん中に溝があったら通られへんやろ。しかも、坂の途中に三カ所や。まあ言うたら『あてまげの溝』やなあ」

 ドヤ顔の春やんに、眼鏡をかけたサラリーマンをしているおっちゃんが、

 「こんなん40センチほどの溝や、すぐ越えられるのとちがいますか?」

 春やんがにやりと笑って、「そこにはまだ秘策があるのやがな!」

 出た、春やんの空手チョップが! 「続きはまた来週」と言うのではと気が気でなかったが、春やんは立て板に水のように話し出した。 

 ――時は元弘二年(1332年)の9月のこと、後醍醐天皇の子の護良親王(もりながしんのう)が吉野に錦の御旗を揚げると、これに呼応するかのごとく、大楠公(楠正成)は金剛山に菊水の紋を翻えした。10月には、背後の紀伊の国隅田荘を攻撃。帰りぎわに天野山金剛寺で戦勝を願うと、11月に金剛山の千早城で挙兵する。12月には、赤坂城を奪い返し、攻めてきた尾藤弾正左衛門というのを太子の叡福寺で討ち破った。

 その太子からの帰り道、川面の浜(石川の岸辺)に現れたのは、「黒韋威矢筈札胴丸(くろかわおどしやはずざねどうまる)」という鎧に身を固めた大楠公。お迎えしたのは喜志城の城主畠山正高。その後ろでやんやの歓声を上げるのは、喜志の在郷衆数十人。大楠公が、

 「皆はん、ごくろはんでおます」と皆をねぎらう。

 いかめしい格好はしていても、河内のオッサンだけは抜け切れない。後ろでひれ伏す定吉を見つけて。

 「おお、定やん、例の件はうまいこと行ってるか?」

 「へい、殿様や喜志の村衆に手伝ってもらって手はず通りに」

 「おお、よっしゃ、よっしゃ!」

 笑みを浮かべて大楠公、金峯九厘(きんぷくりん)の鞍おいたる馬にまたがり、喜志城へと向かう。二重櫓の大手門をくぐると西の丸、中の門をくぐって三の丸、葛城門から二の丸へ、金剛門から三層の天守がそびえる本丸へと入った――。

 「えらいごっつい城あったんやなあ」と皆が感心する。

 ――さあそれからや。年が明けた元弘三年1月5日、河内天見で紀州軍を討ち、野田の地頭や河内守護代、和泉守護を討ち破り、近隣村々の地頭どもを追いはらう。それから堺へと進み、四天王寺に陣を敷いて、都の強敵六波羅軍をも返り討ちや――。

 「おおー」と歓声が上がる。隣にいたオバサンは拍手している。泣いているオッサンもいた。力道山でも、大鵬でも、巨人軍や月光仮面でもなく、南河内のヒーローは楠木正成だったんだと思った。

 春やんの座っている前を見ると、空のワンカップが二つ、店の奥さんが気をきかせて出してくれたビール瓶が一つころがっている。

 春やん、そのビール瓶を鉛筆でチーンとたたき、

 「ほな、続きはまた来週」

 ゲッ! ここで、春やん必殺技の空手チョップかいな。

           後編へ続きます

【補説】

  春やんが話した「あてまげの溝」は、そのときまで誰も気づいていませんでした。現在もそのまま残っています。富田林地内町が出来たのは室町時代ですから、「あてまげの道」はそれに先立つものです。

 大楠公の進行過程は歴史書の通りです。再度、挙兵後は破竹の勢いでした。最初に紀伊国を攻めるのは、金剛山の警護を任せていた紀伊の御家人を楽にさせるためでした。背後を固めた上で、湯浅定仏(じょうぶつ)が守っていた赤坂城を奪い返します。その後、中高野街道、下高野街道を掌握し、四天王寺へと進みます。やがて来るであろう北条軍の進路を抑(おさ)えたのです。太子町の叡福寺の戦いも竹ノ内峠を抑えるためです。

 春やんが話した大楠公の鎧「黒韋威矢筈札胴丸」は、奈良の春日大社に大楠公が奉納したもので、現在は国宝になっています。

 壮大な喜志城の話は誇張で、実際は砦のようなものです。しかし、立て板に水のごとく話されたので、大阪城のような城に感じました。

※スケッチは鶴島さんのものです。

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