夏至から数えて十一日目を半夏生(ハンゲショウ)という。今の暦でいうと7月2日頃にあたる。田植えの終期にあたり、骨休め的な日でモンビ(働くと笑われる日)になっていた。
主婦も家事を楽にできるように、この日は、小麦ともち米まぜた「アカネコ」という餅をついた。つきあげた餅をそのまま大きさの鉢に入れ、キナコ砂糖をまぶして食べた。また、この日からは、ヒノツジ(昼寝)が許された。
ヒノツジが許されるのは、9月1日の「八朔(はっさく=旧暦8月1日)」までで、以降は夜なべをしなければならなかったという。大人にとって9月1日は、けっこう切ない日だったのだ。しかし、我々子供にとっては、九月の一日から三日まで、河南町の大ヶ塚で八朔市が開かれるので楽しみな日だった。

二学期の始業式が終わると、300円ほどの小遣いをもらい、友達とハッサクに出かけた。川面から大ヶ塚までは3キロほど。金剛バスが出ていたが、50円ほどのお金がもったいないので、めったにバスに乗ることはなかった。
河南橋を東に渡り、石川の堤防を南に、首吊り小屋と呼ばれた気味の悪い農小屋の前を駆け足で通り抜ける。後は、色づき始めた稲穂と、大きな葉を広げた里芋畑の中の農道を通り、大ヶ塚に着く。子供の脚で一時間半ほどだったろうか。
三百メートル四方の小さな村の、入り組んだ細い通りに、何百軒もの露店が軒を連ねていた。テキ屋さんの掟があるのか、ほとんどが毎年決まった所に店を出していた。時には、何かの事情で店が出せなかったのだろう。いつもと違う露天が出ていて、それを見つけるのも楽しみだった。
その年の発見は「おばけ屋敷」だった。それまでめったに店の出ていなかった空き地に、ムシロで囲んだ大きな小屋が建てられ、口上師がマイクでがなりたてていた。
「はいはいはいはい、娯楽の殿堂お化け屋敷、出てくるオバケはお花はん。はい、お花はんやーい!」
その声で、小屋の前に作られたろくろく首がニョロニョロと伸びた。それだけ見ていても飽きなかった。だから、私も友達も誰もお化け屋敷に入らなかった。10円、20円で遊べる時に、40円という入場料は高すぎると皆は思っていた。
しかし、次の日、学校では、お化け屋敷は怖かったとかの話で盛り上がっていた。怖くて、あるいは、お金をけちって入らなかったのだと思われているようで私はしゃくだった。そこで、次の日、意を決して友達と一緒に入った。怖かった。
その日のハッサクからの帰り道だった。金魚すくいの袋をさげて、来たときと同じ道を帰る。夕焼け近い、黄と緑の畑中の道を急ぎ足で帰る。後ろからチリンチリンと自転車のベルが鳴る。春やんだった。

みんな遊び疲れて黙っている。すると、春やんは自転車から降りて、私たちと一緒に歩き出す。そして、話をしだす。ハッサクのこと、みんなが怖がっている首吊り小屋のこと。みんなが、春やんの言葉に注目しだす。お化け屋敷を見た後だけに、みんなの顔がこわばっている。
「アッハッハ、嘘や嘘や。しかし、これから話するのはほんまやぞ!」
ハッサクのお寺の前の関東だき屋で一杯飲んでいたのだろう、上機嫌の春やんが話し出した。
「おい、おまえら、学校へ行く時に新道(美原太子線)通らんと、桜井の村中を通ってるやろ。その時、コモリからナガキへ行くまでの畑の中に井戸があるのを知っとるか?」
みどりのおばさんの立っている府道を通って通学するようにと決められていたので、みんなドキリとした。
「なんで、あんな所に井戸があるか、知っとるか?」
何の変哲もない、丸石で囲まれた野井戸だったが、そのいわれを誰も知らなかった。
春やんが続けた。その時の春やんの話し方には不思議な響きがあった。
いつもとは違う、酔っているような酔っていないような。お経のような、俄の口上のような。へんな節をつけて春やんが話し出した。それをそのままに記す。出来れば、声に出してよんでいただきたい。

南都は奈良の平城京、北都は京都の平安京に今しも都を移らんとする、光仁4年(793年)の、夏の日照りの炎天下。
一人の僧侶が桜井(桜井町)の、村のはずれにやって来た。
黒の法衣はぼろぼろなれど、姿形は清らかで、年の頃なら二十歳も半ば、よごれ感じぬ歩きぶり。
喉の渇きに耐えかねて、水を請わんと一軒の、畑中の家に立ち寄った。
中より出てきた一人の老婆、僧侶の姿を見てとると、両手合わして伏し拝む。
「申し訳ござらぬが、水を一杯ほどこしてもらえぬでしょうか」
僧侶の言葉にこの老婆、奥に入って水瓶を、のぞいて見たが残りはわずか。
「わずかに残っておりますが、お坊さまに、あのように汚れた水を施すわけにはまいりませぬ。きれいな水を汲んで参りますゆえ、今しばらくお待ちくだされ」
言って老婆は外へ出た。半時たっても帰らぬ老婆。どうしたことかとこの僧侶、表の方へと出てみると、畑の中のあぜ道を、よたりよたりとさっきの老婆。両手に桶を持ちながら、一人よたりと歩み来る。
僧侶は老婆に駆け寄って、老婆の桶を手に取った。
「これはこれは、どういたしました?」
「こないだ口からの日照りで、小川の水も干上がって、ほれ、そのとおり……」
老婆が指差す畑中の、井戸の中をばのぞいて見ると、水は干上がり、中で蛙がのびて昼寝しとる。
「毎日、毎日、ここから三町(600㍍)ほど行った、石川の水を汲んでいるのでございます」
「それはそれは、難渋されてることでしょう」
「一人住まいの年寄りゆえに、十分なお持てなしはできぬけど、どうぞこの水飲んでくだされ、お坊さま!」
おのれのことはかえりみず、人のためをば思いたる、老婆の心のありがたや。若き僧侶は手を合わせ、清き流れの石川の、桶の中なる水を飲む。それからしばらく、僧侶は桶の前ににひざまづき、
オン ボウジシッタ ボダハダヤミ(私は菩提心を発揮する)
金剛合掌、菩提の心を七へん唱えたあとで、井戸へ桶をば持って行き、桶の水をば井戸へと注ぎ、
オン サンヤマ サトバン(仏の誓願を必ず成し遂げる)
法界定印を結びつつ、仏の誓願唱えると、あらあら不思議あら不思議。井戸の底よりこんこんと、水が湧きだし、寝てた蛙があわてて飛び出しよった!
やがて水は井戸よりあふれ、周りの田畑に浸みだすと、しなびた稲も立ち上がり、風にそよそよそよぎだす。
あっけにとられて腰抜かし倒れた老婆を両手でお越す。
「修業の途中の若僧なれど、これが私の恩返し」
言って立ち去るその姿こそ、
あれに見えるは桜井の井戸♪
お大師さんの恵みの井戸じゃ♪
日照りの時にも水が湧く♪
子守歌にも歌われた、高野山は金剛峰寺、真言密教広めたる、弘法大師空海の、若き頃の旅姿。
♪よっおほ、ほーいほーい♪♪
歌いながら春やんは、畑の中の畔道を、よたりよたりと歩いて行った。コンクリートで囲まれた肥溜めにはまるのではと心配したが、手前でぴたりと立ち止まり、里芋畑の大きな葉っぱに向かったかと思うと、ぶるぶると肩を震わした。
そのあと、ジョンジョロリンと、春やんのおっちゃんの恵みの水の音がした。
【補説】
旧国道170号線(東高野街道)の、美具久留御魂神社の一の鳥居から少し北に行った所に「桜井町聖徳太子恵みの井戸」というのがあります。聖徳太子がここまできて、馬の喉が渇いたので、鞭で地面を叩くと水が湧き出て、飲ますことが出来たといういわれのある井戸です。
それとは別に、桜井と川面の境あたりに「弘法大師恵の井戸」というのを伝え聞いていました。ここに書いたのは、その井戸のことです。
南河内は、聖徳太子ゆかりの叡福寺(太子町)や東高野街道があるので、あちこちに「恵みの井戸」があります。
弘法大師は774年、讃岐の国にお生まれになりました。18歳で大学(奈良朝公認の学問所)に合格、高級官吏としての道を約束されたのですが、仏教に心傾き、18歳の時、山林の中での孤独な修行の道を選ばれました。奈良時代の仏教は弓削の道鏡のように政治と結びつきが深く、本来の道からそれていたのです。真の仏教を目指したいという思いがあったのでしょう。
その後は、四国や大和の山林の中で修行し、801年の31歳の時に遣唐使として中国に渡り、日本に帰ってきて、高野山で真言宗を開かれます。
「桜井町弘法大師恵みの井戸」は、794年、ナクヨ鶯平安京に都が移った弘法大師25歳頃です。
吉野の金峰山寺、あるいは、大師と関連のある南河内の観心寺、高貴寺、弘河寺、天野山金剛寺などに錫留(逗留する)されていた頃だと思います。
※掲載したイラストは『下水分社にわか連喜楽座編 河内にわか(文化庁補助)』を編んだ時に、お世話になった川面町出身の鶴島輝雄さん(故人)のものです。貴重な絵を残していただき、厚く感謝申し上げます。
※古地図は江戸時代の『河内細見図』。「西尾市岩瀬文庫」のサイトから拝借しました。