河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その六 飛鳥 ―― ちぬの道

2022年02月03日 | 歴史

 毎年8月23日は喜志村の川面の地蔵盆だ。川面には「隣組」とは別に、町内が中脇・東脇・西脇・北脇に分けられ、一年ごとに地蔵盆の世話をするしきたりになっていた。

 神社仏閣の多くは東西かあるいは南向きに建てられている。したがって地蔵さんの祠の多くも東西南向きに建てられているのだが、川面の地蔵さんは北向きだ。「北向き地蔵」と呼ばれ、珍しいので御利益が多いことで知られている。川面の地蔵がなぜ北向きなのかは、後で述べるとして、この年の地蔵盆は春やんの住んでいる「脇」が当番だった。

 

 夏の暑い盛り、昼の3時頃、当番の脇にあたっている家々から人々が会所に集まって来る。しかし、全員が時間通りに集まることはめったになかった。脇には「年行司」という年番が一人いて、その人が中心になって動くのだが、まだ若い人が年行司にあたっていると、たいがい年長者が胴ををとる。

 「時間やけれども、まだ皆そろってないし、なんちゅうても暑いわい。カゲラ(日陰)が出来てから行こか」

 春やんが、脇の連中に指し図すると、わいわいがやがやと世間話が始まりだす。そして、4時頃になってようやく全員が集まる。

 「ほなら、そろそろ行こか」

 春やんの一声で皆が動き出す。倉庫から道具を出してテーラー(三輪の貨物車)に積み、地蔵堂に運んでいく。女の人は地蔵堂の掃除やお供え物の準備をし、男性は提灯をつる。途中に一回休憩が入り、大人たちはまた世間話をしだす。

 ここからが私たち子供の出番で、鉦をカーン、カンとたたきながら町内を回るのが仕事だった。日頃なら「じゃかわしわい」と怒られるのだが、この時ばかりは家々の人から「ごくろさん」とねぎらわれ、地蔵堂に戻って来ると駄菓子をもらえるのだから、けっこう楽しい仕事だった。

 話によると、昔、この日はモンビ(働くと笑われる日)で、朝から村中が集まり、かやくご飯を炊き、煮染めものを作り、一日中わいわいと騒いでいたという。

 鉦たたきから帰ってきて、おきまりの駄菓子をもらう。地蔵盆の準備はすっかり出来ていて、ほこらの前には果物やお菓子のお供え物が山のように積まれ、周囲には、子供の名前が書かれた提灯が吊られている。灯がともるにはまだ早いが、村人がお供え物(お菓子かお金)を持って次々とやって来ていた。

 私は、一旦家に帰って夕ご飯を食べ、小遣い50円をもらい、友達を誘って再び地蔵さんへ出かけた。子供会がまだなかったので、川面には模擬店がなかったが、すぐ近くにある桜井町の地蔵さんには夜店が数軒出ていた。綿菓子を食べ、金魚すくいをし、川面の地蔵さんに戻って来た。

 お供え物の受け付けのテントの中に当番のおっさん連中が何人か座り、春やんが、湯飲みで酒を飲みながら大きな声で話していた。

 「日本で一番最初に出来た国道はどこか知ってるか?」

 「そら、竹内街道やろ!」

 「それが素人のアカサカノヨハフケテというやっちゃ。ええか、日本で一番古い国道は、今わしらの目の前にあるこの道や。考えてみいな、竹内街道は太子から北へぐるっと曲がってるがな、なんで曲がらなあかんねん。真っ直ぐいかんかいな。その方が道造るのも楽やし、わかりやすいがな。それに太子から真西にこんもりとした小山がある。喜志の宮さん、つまり美具久留御魂神社や。ここに参らんかいな。石川を渡って川面のこの道を通り、喜志の宮さんに突き当たる。お参りをして、二の鳥居から巡礼街道を北に通って、変電所の所で西に向き、平尾の峠を越えて難波の宮へ行く。あるいは、そのまま真っ直ぐ行って泉州に出る。これが一番古い国道じゃい。昔は大阪湾を「ちぬの海」と言うてたさかいに、この道を『ちぬの道』というねん」

 おっさん連中が一様に感心して、春やんの周りに集まって来た。春やんはますます意気盛んに、大化改新とか、石川麻呂とか、わけのわからぬことを話している。そのうち勢い余って地面に置いていた一升瓶を蹴とばしてしまった。一升瓶はごろごろと転がり、溝にガシャンと落ちた。春やんはそれを見て、歌舞伎俳優のようにミエをきり大声で言った。

 「ああ、わしとしたことが、身の一升(一生)の不覚じゃ」

 

【補説】

 『日本書紀』の推古天皇の条に「飛鳥から難波へと続く大道を造った」という記事があり、これが竹ノ内街道で、太子町から山沿いに北に進み、春日、古市を通り、堺から難波へ続きます。

 しかし、春やんの説は、太子から真西に進み川面・桜井の村中を通り、宮の美具久留御魂神社で北に巡礼街道を通り、西に折れて平尾峠を越えて美原町に抜ける「渟道(ちぬのみち)」が元の竹ノ内街道であると言うのです。

 『富田林市史』に、平尾峠から堺・泉州へ抜ける「ちぬの道」の説明が書かれているので、春やんはそれを読んでいたのかもしれません(図は『富田林市史』より引用・加工)。『富田林市史』には、大化の改新のきっかけとなった乙巳の変で中大兄皇子に荷担し、後に告げ口によって死に追いやられた蘇我倉山田石川麻呂が、このちぬの道を通って逃げたのではとあります。 

 蘇我倉山田石川麻呂という長ったらしい名前ですが、「蘇我石川麻呂」が姓名で、倉山田・石川は本拠としていた所です。太子町にある山田・石川とともに、桜井市の山田を本拠としていました。何度も述べている「東西対称」です。

 石川麻呂は蘇我馬子の血筋をひく家系で、蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子を本家とすると、その別家にあたります。645年の乙巳の変では、蝦夷を殺害せんとする中大兄皇子・藤原鎌足側につきます。乙巳の変は本家をうっとうしく思っていた別家の反抗(権力争い)でもあったわけです。 

 その功あって、大化の改心では右大臣のポストを与えられます。内大臣・左大臣につぐナンバー3の地位です。大化5年(649年)三月、左大臣の阿部臣内麻呂が病死すると、政治の権力は右大臣の石川麻呂に移ります。再び蘇我氏が権力を持つのか・・・と孝徳天皇や中大兄皇子は石川麻呂をけむたく思います。それにつけ込んだのが石川麻呂の異母弟の蘇我日向(ひむか)です。日向は孝徳天皇に、石川麻呂があんたらを暗殺しようとしていると告げ口をします。怒った中大兄は難波の宅にいる石川麻呂に使いを送り、事の真偽を尋ねさせます。しかし、石川麻呂は「返事は直接天皇に申し述べる」と即答を避けます。嘘でもいいから「そんなことおまへん」と言えばよかったのですが、そこは河内のおっさんのばか正直さでした。石川麻呂はますます怪しまれ、天皇は難波の宮にいる石川麻呂に討伐の兵を送ります。無実の罪の石川麻呂は命からがら難波から逃げのびます。

 竹ノ内街道を通り穴虫峠を越えれば飛鳥に近いのですが、それでは必ず追手が来ると思い、石川麻呂は、わざわざ遠い「ちぬの道」に馬を走らせました。今で言えば、中央環状線の丹南から、309号線を南にとり、堺市美原区の平尾に行きつきます。そこから、「ちぬの道」に入ります。東に平尾峠を越え、喜志村にたどり着き、美具久留御魂神社に無事を祈ります。そして、道を真っ直ぐ東にとり、喜志の桜井・川面の地蔵堂あたりにさしかかります。そこは石川谷の中位段丘の端にあたり、はるか二上山の麓の太子まで見渡せます。

 おりしも春の夜明け、二上の山の端がうっすらと朱に染まっています。その山を越えれば我が家です。石川麻呂は暁の空をながめながら考えます。

 ――太子では、今、石川麻呂が発願した仏陀寺の建設に長男の興志が携わっている。そこで、兵を立て直し、憎き日向に一太刀あびせてやろう――。

 石川麻呂はちぬの道をゆっくりと駒を進めます。石川麻呂にとっては本拠地同然。親切な村人が食べ物を供してくれます。朝日にきらめく石川を渡り、太子の磯長谷にたどり着きました。

 予想通り、長男の興志が兵を集めていました。父の冤罪を知る興志は、朝廷との戦いを主張します。しかし、その数、わずか数十人・・・。

 弥生三月の末、桜の花が咲き始めた頃でした。造成中の寺の礎石に腰をおろして考えます。

 ――わしをこのような眼にわせたのは、日向ではなく、孝徳天皇と中大兄の策略ではなかろうか。いや、帝に限ってそのようなことはなかろう。いや・・・、しかし・・・。とはいえ、もはや多勢に無勢、大王を恨むまい。これも乙巳の変の報い。人を恨めば、いずれ自分が恨まれる。かくなるうえは潔く散って、身の潔白をはらそう。これも我が身一生の不徳のいたすところじゃ。もはやこれまで――。

 桜の花びらがひとひら、ゆっくりと散っていきました。

無実の罪を背負った石川麻呂は、ここで自害して果てるのです。

 地蔵さんの前で一升瓶を蹴とばした春やんは、こんな話をしていたのだと思います。

※石川麻呂は、桜井市の山田寺の金堂の前で討たれたという説があります。しかし、春やんはこう考えていたのではと想像してまとめました。太子町の磯長にある仏陀寺に、石川麻呂の墓と言い伝えられているものが今も残っています。

※厳密には太子町の山田から西が「ちぬの道」です。「ちぬの海」と呼ばれていた大阪湾につながっています。「ちぬの道=竹ノ内街道」としたのは、酒に酔った春やんの脚色です。

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その五 古墳時代 ―― 出雲鎮石

2022年02月03日 | 歴史

 今でも夢に見ることがある――。

 一日のうちほとんどを布団の中で過ごしていたヒー婆(曾祖母)がいた。機嫌の良いときは、枕もとの布団の下にしまってある財布から小遣いをくれたり、セロハンの袋の中の氷砂糖をくれたりした。

 ある日、氷砂糖をねだろうと、ヒー婆の枕もとへ行くと、すやすやとよく眠っている。一つくらいならええやろ・・・。私は、布団をそっとめくり、角砂糖の袋を引っ張り出した。その時、セロハンの音がパリッと鳴った。同時に、ヒー婆の目がパチリと開いた。日頃はニコニコと笑っている目が、鬼のようにつりあがっていったく。私は、恐ろしくなって逃げた。ヒー婆は、すくっと起き上がり、傍にあった和裁で使う1尺8寸5分(約70.3cm)の竹尺を手に持って、逃げる私を追いかけてきた。

 私は庭に飛び出す。ヒー婆は人食い婆のごとき形相で、寝巻の裾をかき乱して追いかけてくる。そして、家の裏に祀ってあるお稲荷さんの祠の前に私を追い詰めた。しゃがんで小さくなっている私に、ヒー婆は、「お稲荷さんに謝れ。謝れへんかったら、これじゃぞ!」と竹尺を振り上げた。

 ここで、たいがい目が覚める――。

 幼いころの罪悪感。小さな罪悪感をいくつも経験して、子どもは大人になっていく。

 

 私が小学校2年生の冬、ヒー婆が亡くなった。九十歳をこえていた。

 我が家は門徒(浄土真宗)で、四十九日の忌明けまで、毎夜、親戚や近所の人が集まってお勤めをするのが慣わしだった。坊さんは来ずに、お参りに来た人が代わるがわる導師をつとめて、「正信偈」というお経を皆で唱和する。

 その日は、一杯ひっかけて来たのか、ご機嫌の春やんが「今日は、わしがやるわ」と導師をつとめた。仏壇の前に座り、チーン、チーンと鐘を鳴らして、「キミョームリョウジュニョウラーイ、ナームフカシーギーコー、ホーゾーボーサツインニンジー、ザイセージーザイオーブッショー・・・」と経を読みだした。

 読むというより唄うといった方がよい。まだ、ろくに漢字の読めなかった私には演歌のようにしか聞こえなかった。実際、導師をつとめる人によって、村田英雄調であったり三波治夫調であったり、微妙に節がちがった。唄い終わるまで20分前後はかかった。お勤めが終わると、お茶が出て、しばし賑わった後、夜のことゆえ、「ほな、お疲れやろうから」と一人、二人と帰って行って、仏間はシーンと静まりかえった。

 しかし、その日は、オトンと春やん、他にオッサンが三、四人残っていて、話がはずんだ。

 ――帰命無量寿如来南無不可思議光法蔵菩薩因位時在世自在王仏所――

 毎夜、勤めているお経の意味はなんなのだうと言う話だった。結局、詳しく説明できる人は誰もなく、「ナマンダブと言うてたら極楽へ行けるんや」で終わった。しかし、そのあとで、春やんが、出荷組合(野菜を共同で出荷する村ごとの集まり)の秋旅行で行く、出雲大社の話をし出して、変わったお経を唱えた。

  ――たまものしずし、いずもびとまつるまたねのうましかがみ、おしはふるおんかみ、そこたからみたからのぬし、やまかわのみくくるみたま、しずかけるうましおおかみ、そこたからみたからのぬしなり (玉菨鎭石出雲人祭眞種之甘美鏡押羽振甘美御神底寶御寶主山河之水泳御魂靜挂甘美御神底寶御寶主也)――

 「おい、皆、知ってるか? このお経の解釈によっては、喜志の宮さん(美具久留御魂神社)は、縁結びで有名な出雲大社と同じくらいに大きな神社なんやで!」

 春やんは、そう言って、話を続けたのだが、私は、ここで、眠ってしまった。

【補筆】

 ヒー婆の十七回忌の法事がありました。私は大学生になっていました。その法事の仕上げ(食事)のとき、年老いた春やんの席に酒を次に行き、小学生のときに眠気眼で聞いた「玉菨鎭石(たまもしずし)」のお経の意味をたずねました。やせ衰えて、しゃべることが億劫になっていたのか、老体に酔いがまわっていたのでしょうか、ごくかいつまんだ説明でした。わかったのは、あれはお経ではなく、神さんからのお告げ(神託)だということだけでした。春やんも気にかかっていたのでしょう。二、三日後、新聞のチラシの裏にメモしたものを持って、説明に来てくれました。以下は、そのメモをもとにまとめたものです。

◆喜志の宮さん(美具久留御魂神社)の社伝に、――崇神天皇の十年、支子の茅原(かやはら=喜志の古名)に大蛇が多く出没し、人々はとても恐れたので、天皇は自ら御幣を捧げて支子の森にお上りになり、大蛇の巣窟(すみか)をご覧になって、「これは大国主神の荒ぶる御魂のせいだ。ねんごろろにおまつりせよ」とおっしゃって、まつらせられた――とある。

 大蛇というのは、河の反乱、水害のことで、崇神天皇が喜志あたりの水害を治め、その災いを起こした大国主神(大国主命)の荒魂を祭神として、喜志の宮さんにまつらさせたということだ。

 第十代崇神天皇は実在した可能性がある最初の天皇で、夢枕に現れた大物主神(一説に大国主神の和魂)のお告げに従い、大物主神の子の大多田根子を河内の国から探し出して、本拠地の奈良県桜井市に、大物主神をまつらせている。現在の大神神社(三輪神社)である。

 「荒ぶる御魂」とは、 神にも人間と同じく、荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)の善悪二つの側面があり、疫病や天変地異は荒魂の怒りが影響したもので、逆に、天地の恵みや人の幸福は和魂によるものという古代の考え方である。そこで、人々は荒魂を鎮めまつり、和魂を敬いまつった。つまり、

  喜志の宮 = 大国主神の荒魂を鎮めまつる

  三輪神社 = 大国主神の和魂を敬いまつる 

 ということになる。「その四」で述べた「東西対称」がここにもある。

◆ここからが、春やんが言った「おい、皆、知ってるか? このお経の解釈によっては、喜志の宮さん(美具久留御魂神社)は、縁結びで有名な出雲大社と同じくらいに大きな神社なんやで!」の本題になる。

 社伝は次のように続く ――丹波国の氷上の氷香戸辺の幼児が神がかりをし、「玉菨鎭石。出雲人祭、眞種之甘美鏡。押羽振甘美御神、底寶御寶主。山河之水泳御魂。靜挂甘美御神、底寶御寶主也」と神託(お告げ)があった。それを地方官が、皇太子(のちの垂仁天皇)に報告したのを、天皇がお聞きになって、家来をを遣わして河内国支子に祀らせ、美具久留御魂神社と御名を称え祀られた。

 このお告げは、出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)であり、水泳御魂大神(ミククルミタマノオオカミ)である」と、美具久留御魂大神のご神体を明らかにされたのである――。

 子どもが神かがかりして言った神託を理解するためには、日本書紀にある次の話を頭に入れておく必要がある。

 ――大和をほぼ統一した崇神天皇が、「武日照命が天から持参した出雲大社に収めてある神宝を見たい」とおっしゃって、家来を出雲に遣わされた。この時、神宝を管理していた出雲のフルネというのが筑紫国に行って留守だったので、弟のイイイリネが自分の判断で神宝を天皇に奉った。

 筑紫から帰ってこれを知ったフルネは、「自分の帰国を待たずに神宝を勝手に献上するとは何事だ」と弟を責めた。その怒りは数年たっても収まらず、ついに謀略で弟を殺してしまう。

「このごろ、止屋(やむや)の淵に菨(あさざ)が生い茂っているそうだ。一緒に見に行かないか」

そう言って、弟を誘い出した。淵のほとりに着いて、兄が弟に、

「なんと清らかな水だ。どうだ、一緒に水浴びをしないか?」

 そう言って、二人で水浴びをした。兄は先に陸にあがって、弟の刀を、あらかじめ自分の刀とそっくりに作っておいた木刀とすりかえた。そして、弟が陸に上がったのをみはからい、弟の刀を抜いて切りかかった。弟はびっくりして、兄の刀を手にとったものの、木刀である。抜くに抜けず、とうとう、弟のイイイリネは、兄のフルネに斬り殺されてしまった。

 イイイリネの弟と子供は、このことを朝廷に訴えた。それを知った天皇は、軍隊を出してフルネを討伐した。それ以後、出雲の人たちはは朝廷の怒りを恐れて、出雲大神(大国主神)をまつらなくなった――。

 出雲の神宝は崇神天皇の手にある。そこへ丹波の国の子どもに例の神託(神のお告げ)がある。――玉菨鎭石出雲人祭眞種之甘美鏡押羽振甘美御神底寶御寶主山河之水泳御魂靜挂甘美御神底寶御寶主也――。

 『日本書紀』には、これを聞いた崇神天皇は「則勅之使祭(則ち之に勅して祭らしむ=すぐに皇太子に勅命をだしてまつらせた)」とある。どこに神宝をまつらせたのかは書かれていない。丹波国の氷上の氷香戸辺の幼児の神託の解釈がカギになる。

◆江戸時代の本居宣長は「すべての意は、神宝の至極長なる鏡と玉とを以って、出雲臣これをまつるべしとなり」と解釈している。しかし、社殿の解釈は「このお告げは、出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)であり、水泳御魂大神(ミククルミタマノオオカミ)であると、美具久留御魂大神のご神体を明らかにされたのである」とまったく逆の解釈である。

 多くの学者は、本居宣長の解釈にしたがって、冒頭の「玉菨鎭石出雲人祭眞種之甘美鏡」を、「玉のごとく美しい菨(藻)の中に鎮む石を、出雲人よ祭れ。本来の美しき鏡を」としている。しかし、これは日本語の語順で読んだ解釈である。

 春やんは「日本書紀は漢文で書かれてる。漢文の語順で読まんと、ほんまの意味はわからん!」と断言した。漢文の文法は「S+V+О+C」、つまり「主語+述語+目的語+補語」で、述語が前にくる。レ点や一二点の返り点をつけて読むのはそのためだ。「SはОをCに(~て・~より)Vする(Vだ)」と訓読みする。春やんのメモは、漢文で読んだものだった。

 これを漢文読みすると、

 玉菨鎭石なる出雲人、眞種之甘美鏡を祭る。

 押羽振甘美御神こそ山河之水泳御魂によって底寶の御寶の主なり。

 靜挂甘美御神こそ底寶の御寶の主也。

 となり、「水を制御できる力をもった神(山河之水泳御魂)が、神宝の主だ」ということになる。

 

 春やんのもう一つのメモは、

★ 

 大胆にも、一行目の後に、逆接の接続詞「しかし」を入れている。漢文では、文脈から逆接の接続詞を入れることは多々あるという。漢文読みすると、

 玉菨鎭石なる出雲人、眞種之甘美鏡を祭れども、

 押羽振甘美御神なる底寶の御寶の主こそ河之水泳御魂なり。

 靜挂甘美御神こそ底寶の御寶の主也。

 となり、「勢いがあるだけではなく、世の中を静かめる力をもった、美具久留御魂の大神が神宝の主だ」ということになる。

 ※社伝は「押羽振甘美御神=靜挂甘美御神(大国主神)=山河之水泳御魂(和爾神)」としている。

 

 美具久留御魂神社の社号の古くは、和邇宮(わにのみや)・河内大社ともいった。神社参拝の作法は「二礼二拍手一礼」が一般的だが、美具久留御魂神社は「「二礼四拍手一礼」で、出雲大社と同じである。

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