河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

その九後編 平安 ―― 川面の北向き地蔵

2022年02月08日 | 歴史

【藤原道長の精進落とし】

「さあ、大峰山の山上参りは、なんで女が来たらあかんか知ってるか?」

 みんな黙っている。春やんが湯呑みの酒をぐいと飲んで話し出した。

 

 女が来たらあかんのは、若いやつらが「精進落とし」や「陽気参り」に行くためとちゃうで。男は女を守らんとあかんからや。そのためには男は強くないとあかん。その修業が山上参りや。そこに女がいたら修業の邪魔になるということや。

 しかし、男にとって女は必要やねんぞ。今から千年ほど前の平安時代のことや。

 我々が住んでる川面は、藤原道長という人が治めていた「岐子(きし)荘」という荘園あったんや。この藤原道長という人は摂政という位にあった。今でいう総理大臣みたいなもんや。そんな偉い人の荘園やから伎子荘は「殿下の渡り領」という、総理大臣がお渡りになる、見に来るほど格の高い荘園あったんや。さあ、そんな道長も自分の力で摂政になったんとちごうて、女の力で摂政にならはったんや。

 この道長には四人の娘がいた。その長女の彰子(しょうし)という娘はんを一条天皇の嫁はんにやったんや。嫁にいったら天皇さんとの間に子供ができるわなあ。これがまた、次の天皇になる。その天皇さんにまた自分の娘、つまり彰子の妹を嫁にやるわけや。それでまた、子ができて次の天皇になる。ほんでまた、妹を嫁にやる。子どもができる。天皇になる。つまり、永遠に天皇さんの親戚になるわけや。それもおじいちゃんと孫の関係やから強いわなあ。それで何十年もの間、天皇に代わって実権を握ったというわけや。

 とはいえ、生身の人間である限りは歳をとると体が衰えてくる。この道長も六十歳近くなってくるとめっきり弱ってきた。さあそうなると願うのは死んでから極楽へ行くことや。そこでこの藤原道長、高野山へ願をかけに行かはったんや。京都から南に奈良、吉野を通って高野山へ行く、帰りはその当時出来たばかりの東高野街道を通る。喜志小学校の横手にあるあの細い道や。あれが「おたふく(当時にあったパン屋)」で、国道(旧170号)とまじわるのが東高野街道や。

 藤原道長は、高野山からの帰り道、橋本から紀見峠を超え、河内長野を通って、やって来たんが喜志の荘園や、川面・桜井・大深・宮・平・木戸山のそれぞれの村人が、摂政殿下のお渡りやと、街道添いにひれ伏している。そこに金銀ちりばめた立派な輿(こし)に乗った道長の、お供の者数百人を従えた行列がやって来る。

 喜志の宮さん(美具久留御魂神社)の鳥居の前に来ると、道長は輿の窓をすっと開けて、宮さんに向けて手を合わせた。その時や、見目うるわしき輝くような娘が一人、道長の目にとまった。これが、川面に住んでたお玉という十七の娘で、喜志の村中でも評判のべっぴんさんや。

 道長は家来の者に目配せをする。あの女を都に連れて行きたいということや。まあ歳はとってもコッチの方は「雀百まで踊り忘れず」というやつやなあ。いわば、藤原道長の「精進落とし」や。

 摂政殿下に逆らうわけにはいかん。お玉はきれいなベベ(着物)を着せてもろて都へと連れていかれた。

 村の者は玉の輿ともてはやすが、お玉のオトンとオカンは嘆き悲しんだ。それから毎日毎日泣いて暮らしたんや。

 一方、お玉は道長のおめかけさんになって何不自由なく暮らしている。そこへ、嘆き悲しんでいる父母のうわさが入ってきた。

 私のことをそこまで気にかけておられるとは、おいたわしや。

 お玉は、だんなの道長にお願いをして、地蔵菩薩の仏像をを一つ作ってもらい、それを、父母のもとに届けさせた。私の代わりと思って拝んで達者で暮らしてください……、ということやなあ。

 もろた父母は、その地蔵をお玉の身代わりと思い、川面のはずれに南向け置いて、自分たちは毎日、北向き、つまりお玉のいる都の方を拝んで、それからは幸せに暮らしたということや。

 それから何十年、この父母は二人仲良く苦しむこともなく息をひきとった。これも地蔵さんのご利益や。しかし、その次の日からや……。

 夜の遅うに村人が地蔵堂のそばを通ると、しくしくと泣き声が聞こえる。誰かいるのかと探してみるが誰もいてない。

 次の日も、しくしくしく……

 また、次の日もしくしくしく……

 不思議に思った村人がほこらに集まり、地蔵さんを見てみると、目に涙のあとが残ってるやないかいな! お玉の父母が死んでからは、地蔵堂にお参りして世話をする者もなくなったから、地蔵さんが怒ったはるのにちがいない、そう思った村人は、お坊さんを呼んでお経をあげてもろうた。

 お経が終わり、しーんと静まりかえると、お堂の中から、

 「北向きにしてくだされ。北向きにしてくだされ」

と声がした。みなびっくりして飛び跳ねたがな。

 お玉の父母の娘を思う気持ちが地蔵さんに乗り移ったにちがいない。父母が生きている間は、南向きの地蔵さんを拝んでいたが、二人が死んだあとは、北の都にいる娘のお玉を見守りたい、都のある北を向いていたいということあったんや。

 それから村人は地蔵堂を新たに北向きに造り、地蔵さんをおまつりしなおした。すると、それからは泣き声がぴたりととまったということや。

 それどころか、川面の地蔵さんにお参りすると、喜び事が多くなるというんで、誰言うとなく「喜多向き地蔵」と呼んで盛大におまつりしたというこっちや。

                   

 話が終わると、「さあ、寝よか」と春やんが言った。

 「ちょっと待ちいな。女中さんがまだふとん敷いてくれてないがな」と私が言うと、

 「あほんだら、女を頼ってどないすんねん。おまえらが皆の分を敷かんかいな」

 「そやかて、ようさん敷かなあかんがな」

 「親孝行する言うたん誰やねん。もっぺん谷のぞきするか?」

 そう言われて、皆でぶつぶつ言いながら布団を敷いた。

 しばらくすると、「お玉さん」の話など存ぜぬという顔で、精進落としをした若い人たちが、口笛を吹きながら帰って来た。

【補説】

 天皇の外戚(おじいちゃん)として、摂政・関白となり、政治の実験を握るのが「摂関政治」です。その絶頂期をつくったのが藤原道長です。

 その足がかりとして道長は999年にまだ12歳の長女の彰子を一条天皇の女御(にょうご)として嫁にやります。次の年の1000年、彰子は晴れて「中宮(皇后)」となります。以後、道長は京都近辺の神社仏閣に参詣しだします。この時点の参詣は娘の彰子に男の子が産まれることを願っての参詣です。

 1008年、願いかなって敦成親王が生まれます。この人が8年後に後一条天皇になると、すぐに彰子の妹を嫁にやります。そして生まれた子供が後に後朱雀天皇となります。当時は「通い婚」という習慣があり、女親の家で婿とその子供の世話をするというしきたりでした。つまり、娘婿の天皇と孫の生計のすべてを親の道長が持ったのです。それだけに、おじいちゃんの発言力は絶大になりました。

 1016年、道長は、わずか8歳の後一条天皇の代わりの摂政になって、政治の実験が握ります。そして、一年後、摂政の地位を長男の頼道に譲り、出家してしまいます。引き際のきれいさというよりは、頂点に立つまでに、政界から追いやった藤原伊持(これもち)や菅原道真の怨念をおそれ、自らの極楽往生を願ってのことでした。

     この世をば我が世ぞと思う望月の欠けたることもなしと思えば

  (わいが生きてた時は毎日が満月、月でもわしの思うとおりになりよったわい)

 すべてが思い通りになった道長にも死の影が忍び寄ります。道長54歳の時でした。道長は「岐子荘」を娘の中宮彰子に譲ります。そして1023年、極楽往生を願う道長は、病をおして二週間近い高野山参詣の旅にでます。都を旅立ったのが10月17日、喜志の秋祭りの日でした。そして高野山を参詣し、10月27日に、喜志を通りかかります。春やんの話はその時のものだと思います。

 このとき、道長は東高野街道を北へ向かい、京に帰るのですが、途中道明寺に立ち寄ったという記録があります。藤原氏がのけ者にした(他氏排斥)菅原道真ゆかりの地を訪れたのです。

 地蔵信仰が広まり出すのは平安時代です。ただし、この時は貴族中心で、一般庶民に地蔵信仰(石地蔵)が広まるのは鎌倉・室町の時代だと言われています。したがって、「お玉」の父母がいただいた地蔵菩薩は、道長拝領のものですから、安物の石ではなく、木像であったのだと考えられます。現在、川面にある石の地蔵菩薩は、木が朽ちたためにその後に作り代えられたものなのでしょう。

 「天子は南面する」の中国の習慣で、日本の神社仏閣は北を向くことはありません。ほとんどが東西南を向いています。それは地蔵尊の祠(ほこら)も同様です。「北向き地蔵」は大阪でもほんの10件ほどです。珍しいだけに、御利益が多いと言われています。

 にもかかわらず、川面の北向き地蔵尊の賽銭を盗む輩がいると聞きます。

 春やんの話を聞かせたかった、としみじみ思います。

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