稲の品種改良が進んだために、田植えの時期も五月の下旬と早くなった。かつては、六月の中旬が盛期だった。
五月に入ると「田ごしらえ」が始まる。溝や畦道を除草し、田を耕やし、水持ちの良い一角に「苗代」を造って籾(もみ)を蒔いた。一か月ほどすると、稲が20センチほどに育って植えごろとなる。田に水が入れられ「マンガン(代掻き)」が始まる。今は耕運機だが、昔は牛馬に鋤鍬(すきくわ)を引かせて田を耕したので、「馬鍬(まくわ)」がなまって「マンガン」と春やんに教えてもらった。田植えの開始は「大安」か「一粒万倍の日」とされていた。運悪く日が合わないときは、前日に数株を植えて「苗祀り」をし、翌日に田植えをした。
田植えは、稲刈りとともに家族総出の行事だった。我が家は人手が足りないので、毎年、上の方(河南町や羽曳野の飛鳥など)からテッタイ(手伝い)のおばさんが五人やってきた。一日に一人あたり五畝(約500㎡)を植えるのが約束で、我が家の五反(約5000㎡)の田を植えるには、五人で二日がかりだった。
一日目は土曜日だったので、学校が終わり、昼食を終えて兄と二人で田に行った。午前中に我々がすべきことはされていたので、これという仕事はなかった。二日目は朝から借り出された。
八時くらいに行くと、すでにテッタイのおばさんたちは来ていて、あぜ道に座ってにぎやかに話をしていた。父母は、田の東西に分かれて「田植え縄」を張っている。八寸(約25㎝)おきに白い布で印の付けられたシュロ縄を張って、最初の一筋が真直ぐになるようにする。私たちは父に命じられて、南北に別れて垂直に田植え縄を張った。それが終わるとオバサンたちの登場となった。
直角に交わった一辺に、八寸ずつ赤い印の書かれた田植え定規(さし)を当て、目印にそって苗を三本ずつ四筋植えると後ろに下がり、今度は田植え縄を横目に印にそって植えていく。その狂いのない手さばきを見ていると、後ろから、
「どないや、しっかりと田植え縄を張ったら、後は縦横ともに真直ぐいくやろ。これを『筋が通る』と言うのや」
クワを担いでのっそりと立っていたのは春やんだった。そばにいた父が、
「今年は、世話いらずのサタニで、ええ年に当たったなあ」と春やんに言った。
「サタニ」というのは「沙汰人(さたにん)」のことで、毎年交代して水門の開け閉めなどの水利の係りをする役目だ。田植え時分、ことに水の少ないときは水の取り合いが起こる。上の田から順に、水路に堰(せき)をして水を入れていくのが原則だった。これが守られている限りは、それほどもめ事にはならない。しかし、段取りが合わなかった時に、上の田に水を入れている堰を無断ではずして、自分の田に水を入れたがために大喧嘩になることもあった。そんな時、沙汰人が出てきて判決(沙汰)を下すのだ。沙汰人に逆らうことはご法度(はっと)で、けっこう権限のある役目だった。 その年は雨が多く、水路に堰をしても上から流れるくらいに水が豊富だったのりで、沙汰人の仕事も少なく「世話要らず」だった。
「いやいや、それでも昨日は、下の方に行くと水はチョロチョロで、へっこん田(水路から離れている田)の奴が上の田の堰を取りに行っとったから、わしがどやしつけたら、びびりあがっとったわ!」
「おっちゃん、偉いんやなあ」と私が言うと、
「そりゃそうや。昔は沙汰人というと村の代表みたいなもんや。喜志でもめごとがあると、村々の沙汰人が集まって話し合いをしたそうや。村会議員か裁判官みたいなもんやなあ。まあ、喜志はまとまりがあるので、今までそんなに沙汰人もしんどいことはなかったけど・・・」
そう春やんが言いかけて、ズボンのポケットからワンカップを取り出し、シュパーンと蓋を開けてチビリと酒を飲んだ。植え終わった後の青田の上をつばめが飛んでいく。それを目で追いながら、今度はごくりとひと飲みして話し出した。
――鎌倉に幕府が開かれて数十年たったときのことや。平和であった喜志の荘園に、なんと地頭がやってきたんや。「泣くこと地頭には勝てぬ」と言われた、あの地頭や。幕府公認のヤーサンみたいなもんで、土地は勝手に横取りするは、税金は勝手に取り立てよるわとやりたい放題あった。
たまりかねた喜志の村々から、沙汰人が集まって寄り合いをする。これは訴えを起こすしかないと決まり、当時の河内の守護、今で言う警察署長に訴えた。ところが返事がいっこうにない。二度三度と訴状を送るがやっぱりない。
そこで、訴状はどうなったのかと守護の館に行った。ちょびひげをはやした門番が「それあったら一番の窓口へ行っとくなはれ」。一番の窓口へ行くと「二番の窓口へ」とたらい回しや。あげくは「そんな訴状は届いてません。もう一っぺん出しとくなはれ」とぬかしよる。それもそのはず、地頭の親分が河内の守護の役を奪いとってた。
さあえらいことになった。このままいったら喜志の村は地頭に乗っ取られる。再び沙汰人の寄り合いや。ああやこうやと話し合った末に、京の都のだんなに相談しよう・・・ということになった。
かつての喜志は、藤原道長直轄で「殿下の渡り領」といわれた荘園。このときは三条家という公家さんの持ち物になってた。あまり権力はもってなかったんやが、三条のだんなの所に訴状を持って行つた。
三条のだんなは気のええ人で、「えらいことになっとるなあ、よっしゃ、分家の兄貴に頼んでみるわ」ということになった。
分家の兄貴というのは西園寺(藤原)公経(きみつね)という人で、初代幕府将軍源頼朝とは大親友や。
分家の兄貴も気のええ人で、「わかりました、息子に頼んどきます」と言う。
この息子というのは、娘婿で九条道家という時の摂政。まあ総理大臣みたいなもんや。
この息子も気のええ人で、「よっしゃ任しといとくなはれ。息子に頼んどきます」と、また、息子の登場や。この息子の息子というのが、なんと鎌倉幕府四代将軍の九条頼経あったんやがな。そこへ喜志村の訴状がとどけられた。
すぐさま、あの憎き地頭、河内守護の三浦義村にお灸がすえられ、喜志の村にも平和が戻った。おまけに、その後、三浦義村は幕府に滅ぼされる始末になったというこっちゃ――。
沙汰人という大きな仕事の途中だったのか、これだけの話を春やんはワンカップ一杯で話すと、ツバメが飛び交う中を鍬を背にして歩いて行きました。
【補説】
春やんの話に出てきた人の系図です。
頼朝の死後、二代頼家、三代実朝と将軍がたちますが、朝廷か北条氏によって殺されてしまいます。そこで、頼朝の妻の政子は京から三寅(後の四代将軍の頼経)を呼び寄せます。その後二年して、後鳥羽上皇が承久の乱(1221年)を起こします。天下分け目の関ヶ原と同じような東西を二分する勢力争いでした。しかし、幕府方のすばやい対応で、すぐさま鎮圧されてしまいます。朝廷方の荘園は幕府に没収され、幕府が命じた地頭が派遣されます。三条家の荘園であった喜志の荘園に来たのもその地頭の一人です。それまでの地頭とは違い、自分の土地を持つことや、税の免除が許された地頭です(新補地頭)。この権威を盾にして「泣くこと地頭には勝てぬ」と言われる地頭の横暴がきわまっていったのです。
春やんの話に出てきた地頭もこの新補地頭か、承久の乱の後に置かれた河内守護職の三浦義村(相模の領主)の御家人(家来)だったのでょう。
当時の民部省(警察庁兼最高裁判所)の民部卿(長官)であった広橋経光の日記の中に「支子の御庄の沙汰人、沙弥定西(しゃみじょうさい)、謹んで言上す」という訴状が残されています(「富田林市史」)。内容は、伊勢神宮の式年遷宮の費用の徴収があった中に、荒れ地となって収穫の出来ない田地の分と、地頭が取り上げた田地の分が含まれていたので、「その分に関しては費用をは払う必要がない」という訴えです。また、「地頭が税金を払わないどころか、年貢を集めるのを邪魔しにくる」という訴えも書かれています。
春やんの話はこの訴状を元にしたものです。訴状には日付けや地頭の名、宛名が無く、細かいことは春やんの作り話です。しかし、上の家系図のようにつじつまは合っています。
喜志の荘園はこの五十年後に、三条実任という公家に譲り渡されます。また、喜志荘のお隣の石川荘(石川源氏が在地領主)は九条家の荘園で、このあたりは公家方と縁の濃い場所です。ちなみに、河内守護の三浦義村が滅ばされるのはこの二十年後で、北条氏の他氏排斥によるものです。
その北条氏と戦うのが楠木正成です。
※摂関というと平安時代だけではなく、便宜上江戸時代まで続きます。それを代々受け継ぐのが「五摂家」です。道長から九条と近衛に、その後、一条・二条、鷹司が加わっていきます。