由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

反知性主義的教育改革を駁す・夏木智氏との対話 その5

2016年08月12日 | 教育

5 やる気を出させる可能性(夏木・由紀)
由紀 今の話はたいへん説得力があって、すぐに賛成したいところだ。ところが、教育言説の世界ではこれが当たり前になっていない。
 夏木さんの教育観はとてもオーソドックスなものと言っていいと思うが、それをなんとか転換させようとする勢力も昔からあってね。古くはルソーまで遡るだろう。教育学という学問は、「既存の知識を、説明と訓練によって次代に伝える」のが教育だという考えを、一変させるまではできなくても、少なくとも修正を加えるためにある、と言ってもいいくらいだ。
 つまり、上から押さえつけて勉強させるんじゃなくて、子どもの自発性を引き出して自ら学ぶように導こう、とか、型にはめるんじゃなくて、その子の個性を伸ばすようにしてやろう、云々ね。今でも「理想の教育」と言えば、だいたいはそういうイメージになるんじゃないかな。
 実際、夏木さんが挙げた二つの授業例のどっちでも、生徒が自発的に参加してくれるなら、それに越したことはないよね。最初のほうだったら、二次方程式を使った練習問題に嬉々として取り組むとか、二番目のほうだったら、二次方程式の原理に関することに、どんどん意見を出すとかね。教師として、そういうのに憧れない人はいない。
 反対に、生徒たちの大半か全員が、授業にいっさい興味を示さないとしたら、どういう授業をしようと問題じゃない。彼らは、二次方程式の解法も学ばなけりゃ、それを導き出すためのプロセスから思考訓練をするわけでもない。自分とは全く無関係と思える話がされているのを、じっと耐えて終業ベルが鳴るのを待っているか、終わる前に耐え切れなくなって授業を乱すか、どっちかになる。
 ところで、だいたいにおいて、前の状態は正に理想であって、教師の憧れの中にしかなくて、後のほうは現実に、かなり多くの学校でざらに見られることだ。すると、すべての前提は生徒たちの勉強への興味であり、「やる気」ではないか? そう思えてくるよね。また、それが間違いであるはずはない。
 問題は、生徒の「やる気」を引き出すことは絶望的に難しい、いつでも、どこでも、どんな生徒にも、「やる気」を持たせようというのは、おそらく不可能だというところだ。

夏木 「やる気が問題」という視点を打ち出したのが、まさしく「新学力観」の意味するところだね。私が言いたいことは、やる気が問題なのではなく、(たとえば、テストの)結果を問題にすべきだと言うことだ。
 そして、この場合、結果というのは、方程式が正確に素早く解けることを優先してかまわない。解き方を理解することはあったほうがよいが、それを自分で見つける必要はない、ということだ。もちろん限られた時間内でどちらかを選ぶしかないという前提のもとだが。
 肝心なことは、子どもにとって学校における勉強というのは、大人にとっての仕事のようなものだということだ。大人が仕事をするとき、誰もがやる気満々で取り組んではいないだろう。むしろ、つらいなあ、できれば別のことをしたいなあと思いながら、仕方なく取り組んでいるものが多いんじゃないかな。
 嫌々ながらも仕事に取り組む、それはなぜかと言えば、そうしないと給料がもらえないからだ。この場合、やるべき事をきちんとやってくれれば、給料は払われる。やる気があったかどうかというのは大して問題ではない。
 子どもにとっては、勉強それ自体にやる気を見いだすのは、多くの大人と同様難しい場合が多いだろうね。しかし、それでもいやいやながらも学校に来て授業に取り組む。それはなぜかと言えば、その仕事によって、学力という給料が支払われるからだ。それが短期的には、親からの賞賛、長期的には有名大学合格、いい職業という未来へつながると考えているからだ。
 勉強なんて、大人にとっての仕事と同様、その活動自体がおもしろいなんて事は滅多にないことだと思うよ。そういう意味ではやる気を引きだそうなんて発想自体が間違ってる。

由紀 もう少し考えを進めると、「やる気=自発性」を「引き出す」ということ自体パラドクシカルだよね。外からの働きかけによって心の中に湧いてくる自発性っていったい何? それ以前に、「自発的に、あることを学ぶ」こと、「知識欲」と言っていいものは、すべての人間に生まれたときから普遍的に備わっているものなのか、それとも社会が個人に押しつけることによって初めて出てくるものなのか。これに完全に答えることなど絶対にできないだろう。
 もちろん教師はそんなものに抽象的に悩んでいる暇はない。毎日の授業の中で、「今日も生徒たちは授業中退屈しきっていたな。どうすればいいかなあ」と悩んだり、「今日の授業はみんな食いつきがよかったな。この調子を持続できたらなあ」と前向きな気持ちになったり、の繰り返しだ。ここに「やる気」をめぐるアポリアが現実的にかつ鮮明に現れているわけだが、教師にできるのは、迷いながらルーティーンワークとしての授業をこなしていくことだけだ。

夏木 その通り。実は、さっき例にあげた結果とプロセスは必ずしも二律背反ではない。問題によって、与えられた時間によって、生徒のレベルによって、教員側が可能な範囲で両立を図ってきたものなのだ。
 これは、さっき言ったようにいわば教育の職人技のようなもので、長年の蓄積によって磨かれてきたものだ。にもかかわらず、そういうものにいっさいの尊敬を払わずに、何も知らないくせに自分たちは正しいと思っている連中が見事に破壊しようとしているわけだ。

由紀 それも不思議はない。昔から教育学の世界で議論されていることも、政府の教育政策も、こういうこととはなんの関係もない。現実になされている教育より、「可能性としての教育」を美しく歌うことを第一の使命としている。そんなの絵に描いた餅に過ぎないのだけれど、なんといっても政府の施策は、学者の意見とは違って、現実に学校や授業のあり方を変えようとする構えのものだから、こちらにはいくらか興味を持たざるを得ないし、また興味を惹くような装いをしている。
 我が国で、現在まで続く教育改革の理念の大本を公的に打ち出したのは臨教審(昭和五十九~六十二)だと言っていいだろう。教育の個性化・自由化がここで声高に叫ばれた。その背景には、公共事業の民営化やら規制緩和をよしとするいわゆる新自由主義の政治・経済思想がある、とも言われるが、ここではそんなに話を広げる必要はない。
 とりあえず、教育では子どもの個性を伸ばすことが大事だとか、学校の枠組みはもっと自由なものであってもいいはずだ、と言われると、なんとなく、とてもいいことが提唱されたような気になった人もいたんだ。自分の子どもの成績が悪いのは、これまでの学校の教え方が悪いからであって、もっと子どもの個性にあった教え方をしてくれたら、もっと学力が伸びるんじゃないか、とか。選択教科が増えれば、いやな教科を学ばなくてすんで、もっと学校が楽しくなるんじゃなかろうか、とかね。
 こういうのはただの幻想だったことは、ほとんどの場合すぐに明らかになったと思うんだが、ただ、可能性までは否定しきれないからねえ。一方、教師の中でも特に良心的な人は、生徒が興味をもってくれないのは、自分の授業の工夫が足りないせいだろう、と考えて悩んだりする。その可能性も、そりゃ、否定できない。そのうちに、こういう工夫で生徒たちの興味をひいてすばらしい成果を挙げることができました、という実践報告も多数出てくるから、可能性は単なる可能性ではなくなったような気にもなる。
 ただ、それならいっそのこと、その実践報告がかなりの部分、あるいは完全に、インチキである可能性も考慮に入れておいたほうがいいと思うんだが。可能性の議論って、こんなふうに、きりがないんだよ。

夏木 教育実践のことについては「誰が学校を殺したか」で詳しく議論したから、繰り返さないけど、一言で言えば、よくて自己満足、悪ければ自己中心のなんの意味もないあだ花にすぎないよね。


コメント
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