4 新学力観こそ元凶だ(夏木智)
問題は、これまでの教育に比べてもっとよい教育があるかということだからね。つまり、これまでの「詰め込み教育」より、「新学力観に基づく教育」の方がいいかという話だ。これは肝心の所だから、少し詳しく論じよう。下の例を見てくれ。格好の例とは言えないが、それぞれのことについていくつかのことは分かる。
それぞれの方針を、私なりに解釈して、2通りの指導を考えよう。【以下の式で2は2乗を示します】
2次方程式、x2+4x-3=0をとけという問題にしてみよう。
①「詰め込み教育」だとこうなる。
「解の公式というものがあって
からa=1、b=4、c=-3
だから代入してx=-2±√7となる。
わかったかな。では、いくつか練習問題を解いてみよう」
②次は「新学力観教育」だ。
「さあどうやったら、この方程式は解けるだろうか、はい、○○君、順に数を当てはめてみる? なるほど、いい考えだね、やってみようか。まず1はどうかな、だめか、-1は、うまくいかないねえ。どうしてかな、そうだね、解が整数とは限らないものね、じゃあ、どうしたらいいだろうか。因数分解? そう、前はそれでうまくいったけど、解が整数でないと因数分解はどうかな、手が上がらないね。じゃあ、少しグループに分かれて研究してみよう(教員ここで見回る)。
はい、それじゃ、みんな注目して、**グループが面白い考え方をしているので、聞いてみよう。
なるほどxのかわりにX-pを代入したんだ。
するとXの係数は-2p+4になる。
そこで、p=2とおくと、
方程式はX2+4-8-3=0で、X2=7。
これを解いてX=±√7、x=X-2だから x=±√7-2と分かるというわけだ。
なーるほど、みんなの意見はどうだい。そうだね、いつでもX-pを代入すればいいのかという疑問があるね。他の方程式を試してみようか。もちろん他のやり方でも、試してみる人はやってみて」
解の公式の証明
まず、「詰め込み教育」だが、ここでは、生徒の考える部分はあまりない。もちろん、解の公式の成り立ちについて教員は説明するのだが、なるほどと感心することはあっても、それ以上のことは考えないだろう。その代わり、説明は短時間で済み、しかも、とても分かりやすい。だれでも、どんな問題にも直ぐに取り組めて、短時間で答を出せるようになるだろう。「画一的」だ。だれもが同じ作業に取り組むことになる。
では、「新学力観教育」ではどうか。ここでは、生徒が自分の頭で考えることが要求されている。そこには、意外な発見というおもしろさもあるかも知れない。だが、その一方で失うものも多い。
まず、「詰め込み」と比べて、とても時間がかかると言うことだ。これだけの言葉を使って、まだ、解の公式にさえたどり着いていない。この分では一〇倍くらいの時間がかかるだろう。
さらに大きい問題は、このやり方では,授業は優秀な一部の生徒だけを相手にすることになってしまうだろう。いろいろな解法の発見から、この後期待される「解の公式」という「一般化」まで、優秀な頭脳であれば興味深くたどってくれるかも知れないが、凡庸な頭の持ち主には、結局「見ているだけ」で終わってしまう公算が強い。彼らにまで参加させるとしたら、さらに膨大な時間が必要だ。
で、どうなるかといえば、普通の頭の持ち主は、このあと、二次方程式が出てきたときには、常に「解の公式」を使うことになるのだが、詰め込み教育でなら可能だった練習の時間がなくなっているぶん、スムーズにも正確にも解けない可能性が高い。このやりかたは、確かに「画一的」でないが、それは、実は格差を生み出すということに他ならないのだ。
つまり、平凡な才能にとっては「つめこみ」は、つまらなくて機械的だが、問題を解く力を与えてくれる。「新学力観教育」は、おぼろげながら解の公式の生まれる筋道を教えてくれるが、それを使いこなすことができないということになる。
さて、われわれは、どちらに価値を見いだすか。ここで、もう一度、学校教育の意義を考えてみて欲しい。子どもたちはなんのために学校へ通っているのか。それは、授業を楽しむためではない。大人になったとき、学んだことがその人の人生に役に立つ、そういうことを学ぶために来ているのだ。
それでは、「新学力観教育」は何を与えてくれるだろう。「自ら学ぶ力」? ナンセンスだ。少なくとも普通の頭の持ち主にとって、二次方程式の解の求めかたを工夫してうまくいかなかったという体験をしたからって、いったいどういう風に自ら学ぶ力がついたと言うんだい。そういう経験を持てば、いろんな場面でどういう知恵が出てくるというのだ。
失うものがないならそれでもいい。しかし、その代わり解の公式がうまく使えないとしたらどうなる? 数学は積み重ねだ。次の問題の授業では、二次方程式の解を求めるのに解の公式を使う。解の公式がうまく使えないものが、次の問題を考えるときに、どうやって自ら工夫できるというのだ? 子どもたちの能力も時間も限られている。
我々は、何もかも手に入れることはできないのだ。我々は選ばなくてはいけないのだ。自ら学ぶ力などという当てにならないものか、それとも、形式的であっても実際に問題を解き、そして次の問題に取り組める力か。
答は、明らかなように思う。そもそも、我々は、数学のような「学問」とは何かと言うことをもう一度思い出さなくてはならないと思うよ。
学問とは、これまで積み重ねてきた、問題をとく知恵を体系化して分かり易く、次世代に伝え、またそこから新しいものを生み出すものなのだ。先人が苦労して時間をかけて考えてきたものを、後生は学ぶことで短時間で身につけることができるわけだ。だからこそ学ぶ価値があるんだろう。
たとえば「解の公式」というのはまさにその学なんだ。それは、ただの知識ではない。意味を知って、使って、問題を解いてこそ価値のあるものなんだ。それができることを「学力」と呼ぶべきだと私は思うよ。
もちろん、丸暗記ではない方がいい。しかし、自分で発見しなければなんて、ナンセンスだ。そんなことは、ある程度一通り「学問」を学び終わって、一通り平凡な問題が解けるようになってからでいい。何度も言うが、そうやって時間を節約することこそ学ぶ価値なんだから。
別の言い方をすれば、昔の限られたすぐれた者達だけが解けた問題を、公式のおかげで凡庸な頭の持ち主でも解けてしまうことこそ、数学の価値だと言ってもいい。そう考えれば、「新学力観教育」よりも「詰め込み教育」のほうが、大多数の子どもたちにとってまだはるかに価値があるのは明らかだと思うよ。まして、小学校や中学校ではね。
それなのに、強引に新学力観教育を始めてしまったことが、最大の失敗だった。聞いた話では、始まったばかりの頃、小学校では、これからはドリルのような反復練習はしてはいけないという時代があったらしい(学校にもよるとは思うけど)。二,三年して、テスト的な学力ががた落ちして、これはたいへんだとドリルが始まったり宿題を出し始まったりしたという話だ。
要するに、授業では問題解決、学力は宿題と塾でという非効率教育はそのころ始まったのだ。こうして不満がたまっていたところへ、さらに「ゆとり」がとどめを刺したと言うところだね。「総合学習の時間」は、まさしくこの新学力観の延長上にあるものだ。
高校の数学教師の立場から言うと、ゆとりの新学習指導要領(平成十一年版)は、実は、前の指導要領よりいい部分がたくさんあるんだ。新学力観が始まってすぐの頃の教科書は、問題解決的なことを重視するもので、「現地調達式」という方法でつくられていた。本来は、数学は積み重ね方式といって、やさしいことから難しいことへという順で教えた方が、わかりやすい。しかし、この方式では、やさしいことを学んでいる間は、それになんの意味があるのかわかりにくい。
そこで文科省は、まず目標の問題を提示して、その問題を解くために必要なものは何かを考え、その必要なものを学ぶという形で教科書を作った。学ぶ意味が分かるようにという意図だ。
だが、これは、ひどく分かりにくいものだった。なぜなら、数学で学んでいるのは単に「知識」ではなく、「考え方」「概念」「技能」といったものだからだ。解の公式を学ぶことは、二次方程式の問題が出たら答を出すやり方を学んだのではない。そうではなく、二次方程式という概念を学び、もし、ある種の問題が、二次方程式に帰着されるならば、そこから答を出せるということを学んだのだ。
それが、心にすんなりしまわれ、いつでも引き出せるようになるまでには、時間と訓練がいる。その状況があれば、二次方程式を使う応用問題は簡単に感じられるだろう。しかし、まず、応用問題があって、それを定式化すると、こういう方程式ができるね、こういう方程式はどうやって解いたらいいだろう、などという順序でやっていたら、最初の問題はとても深遠で難しく感じられてしまう。順序よく学んでいれば学べたものが、逆順にされたためにとうとう分からないと言うことにもなる。
なにしろ、数学Ⅰの教科書が確か2次関数から始まっていたんだ。関数はもっとも苦手な分野なのにね。もちろん、そのまま正直に教えたところは少ないと思うけど。とても評判の悪い教科書で、この前の改訂で三割削減されたのはひどいけど、教える中身はまた元に戻って、前よりはずっと分かりやすくなったんだ。少しは反省したんだなと思ったけど。
【平成26年度の改定で中学に解の公式が復活した。しかし、その定着度はゆとりの前とは桁違いだ。今の学校はやっぱりドリルということを嫌っているようだ。】
余談が長くなりすぎたかもしれないけど、要するに、「学力低下」の引き金を弾いたのは「新学力観」という一種の妄想だということはわかったと思う。この時は同時にいくつかの評価に関する妄想も導入された。
一つは絶対評価だ。これについては説明の必要はないと思う。観点別評価というものも導入された。これはたとえば、授業に対する「関心・意欲・態度」を評価しようというもので、つまらない授業でも面白いフリをして参加できるかということを評価の対象としようというナンセンスだ。
こうしたやり方が、それまで現場で積み重ねてきた、「学力をつけるための指導」のノウハウをいわば破壊した。少なくとも数学についてはそうだ。
私の考えではそれまで国際学力調査で好成績をとっていたのは、現場の教育が世界的に見て優れていたものだったからだ。それは一朝にしてなったものではなく、職人の技術のように、努力の積み重ねによって出来上がってきたものなのだ。
ここでいう学力は「知識量」のことじゃないよ。英語だってそうだろうけど、知識があれば問題が解けるわけじゃない。公式を教えれば、公式が使えるようになるだろうというのは大きな間違いだ。公式を使いこなすには、それなりの「理解」が必要だ。そういう「理解」を引き出すためには証明が必要なこともあるし、適切な説明、うまい例が必要なこともある。そういうことを含めて何をどのくらいどのように教えるかという点で、技術だといっているんだ。
時代といえば時代なんだろうけれども、昔は教員の自主的な研究会などというものがけっこうあった。しかし、今は、官製研修ばかりだ。教育書が全く売れなくなったという話も聞く。これまで「わかる」ことを目標に授業をしてきたのに、これからは「わからないことを考える」ことを目標に授業をやれといわれるのだもの。おろかな管理職に「とにかくおれのいうことを聞け」とゴリ押しされたら、とにかく従う以外の方法はないよね。意欲などうまれるはずもない。そもそも、以前よりはるかに無駄な仕事が増えて、暇がないしね。
こうしてせっかくのノウハウを新学力観が台無しにした。フィンランドが教員を大事にして一位をとったのと対照的に、教員を虐めて順位を下げた理由といったら図式的すぎるかな。
いずれにしても、学力(というのは、さっきいった意味で、問題を解く力のことだけど)をつけるのはそんなに簡単なことではないということをきちんと理解せずに、「学力は世界トップクラスだけど」なんて当たり前に得られているものと勘違いして、「もっと応用力を」なんて、まるで教員たちが何もしていないかのように、「教育改革」を強引に押し進めた結果が、今の非効率な「ゆとり無し教育」につながってしまっているんだ。
学力というのは、知識量でもなければ、その反対にあるように思える「考える力」でもない。その中間にある「ある程度既知の問題を解く力」のことだ。易しい問題が解けるようになることで、難しい問題も解けるようになる、その場合の「易しい問題を解ける力」が学力で、それこそ、社会が求めているものだ。
少なくとも、「考える力」などというものは、その学力の延長にあるもので、「考える力」だけをまず育てようなんておかしな話なのだ。問題を解く力という意味での学力が落ちたかといえば、解ける問題の範囲は狭まったが、ある範囲に限っては落ちてはいないだろうと思う。
落ちてはいないが、前より多くの労働を払って少ない学力を得ると言う貧乏な状態におかれていることが不幸だと思うし、そこをこそ改革すべきだ。再生会議の案は「解ける問題の範囲を広げるよう労働を増やせ」というものだから、この点から言うと「言語道断」だということはわかるだろう。
やるべきことははっきりしている。「新学力観」の排除だ。「総合学習」をただちにやめ、観点別評価もやめる。
「授業時間を確保します、宿題も出さなくて結構です。免許の更新もしなくていいです。なるだけ負担は減らしますから、その代わり、教員のみなさんは授業を充実させて、受験に対応できるような学力をつけてあげてください」
と、宣言するのが最善の方法だと思うよ。
教員の私がこんなことを言うと、我田引水のようにとる人が多いんだろうね。結局、現場のことを知らないで、けしからんといばりちらす、そういう経営者が、教育を滅ぼしているんだと言うことがわからないんだね。悲しいことに。