由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

反知性主義的教育改革を駁す・夏木智氏との対話 その6(最終回)

2016年08月20日 | 教育


6 ゆとり時代からこっち(由紀草一)
 さて、尽きない議論が尽くせないでいるうちに、平成14年度から、臨教審の個性化・自由化路線を過激に押し進めた「ゆとり教育」の実施となった。ところがこれは、教育再生会議よりもっと早く、翌年の15年、高校まで完全実施になった年に実質見直されることになった。
 こんなことでは子どもは勉強しなくなるんじゃないか、という可能性への憂慮が高まったからだ。この年に実施されたPISAのテストの結果は、詳細はほとんど誰も知らなくても、この可能性を裏付けるものだとされた。
 それで、この年の十月、中教審が文科大臣の諮問に答える形で「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」という答申を出している。その第二章は、「新学習指導要領のねらいの一層の実現を図るための具体的な課題等」と名づけられていて、あくまでも「ゆとり教育路線を変更するのではなく、その本当の意図を明確にする」んだというタテマエなんだが、ここで「学習指導要領の基準性の明確化」がうたわれている。
 指導要領は「最低基準」なんであって、これを越えたことを教師が教えることを妨げるものでないってこと。だから、円周率は必ずしも「およそ3」と教えなければならないわけではなくて、3・14と教えてもいい。数学に多いいわゆる「はどめ規定」、例えば「数学Ⅰでは二重根号をはず計算は扱わない」というやつにしても、

これら……は,学習指導要領に示された内容をすべての児童生徒に指導するに当たっての範囲や程度を明確にしたり,学習指導が網羅的・羅列的にならないようにしたりするための規定である。したがって,各学校において,必要に応じ児童生徒の実態等を踏まえて個性を生かす教育を行う場合には,この規定にかかわらず学習指導要領に示されていない内容を指導することも可能なものである。ところが,その趣旨についての周知が不十分であるため,適切な指導がなされていない状況も見られる。

のだそうだ。「おい、ちょっと待てよ」と言いたくならない? 周知が不十分も何も、そんな趣旨説明、いったいいつあったんだ?
 こんな三百代言ふうのやりかたではあったけれど、学習内容を減らす、という側面でのゆとり教育はこのときもう死んだんだ。ただ、授業時間数が増えるわけじゃないから、夏木さんの言うように、宿題などで補わなくちゃならなくなった状況が生じたがね。
 そればかりじゃない。「詰め込み教育」だって、決して否定されていたわけじゃないんだと言うんだから、驚くじゃないか。今次の指導要領改訂のために一月に出た中教審答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」は、右の十五年の答申をかなり忠実に踏襲しているんだが、こんな文章がある。

教育については、『ゆとり』か『詰め込み』かといった二項対立で議論がなされやすい。しかし、変化の激しい時代を担う子どもたちには、この二項対立を乗り越え、あえて、基礎的・基本的な知識・技能の習得とこれらを活用する思考力・判断力・表現力等をいわば車の両輪として相互に関連させながら伸ばしていくことが求められている。

 いやはや、すばらしい。基本的な知識はもちろん大事だ。それはしっかり教え込め。しかし、これからの時代ではそれだけでは不足だ(って、それだけで十分な時代って今まであったの?)、思考力も判断力も表現力も課題発見能力も問題解決能力も自ら学ぶ力も必要だ。これらすべてをひっくるめて、今後は「確かな学力」と呼ぶ。教師はこれを、子ども一人一人の「個性を生かす」形で、身につけさせるようにしなくちゃいけない……。
 正に、「言うだけなら簡単だよ」の見本だね。
 学校に期待されているのはまだこれで終わりではない。総合的学習の時間では何を狙うのかというと、指導要領では「各教科間にまたがった総合的な知見」「地域でのボランティア活動や勤労体験を通して主体的に学ぶ姿勢」「国際感覚」などが挙げられている。これらを通じて「生きる力」を獲得しろとね。
 まさにデパートなみになんでもあり、と言いたいが、もちろんそういうわけにはいかない。すばらしい総合的学習の時間の実践例というのは、すぐに有名になるくらい少ない、と考えた方がいい。たいていは芋掘りをやったり一日店員をやったり、ただ図書館から本を借りてきて生徒に読ませて終わり、なんだよね。
 それにしたって、それ相当の準備と後始末の手間がかかるから、同じ教師として、馬鹿にしたような口は決してきけない。「立派なお題目の割には、やることはいたって地味だなあ」と、生徒や親から思われるのはとても気の毒だ。現実は、誰でも、できることしかやれない、という平凡至極なところにいつも落ちつくものなんだ。
 これらすべてをひっくるめて、「ゆとり教育」というのは、本当に親からも生徒からも教師からもゆとりを奪うやり方だったんだよね。何よりも感情の分野で。
 「創造性」だの「国際性」だの、正体ははっきりしないがいかにもよさそうには見える言葉をチラつかせて、「これからの時代はこういうのが必要ですよ。これがないと遅れてしまいますよ」と、漠然とした希望と裏腹な不安を煽って、子ども、よりも実際は親を、駆り立てようとするところなんか、巷の能力開発なんとかセミナーとか教材屋そっくりのやり口だ。
 ゆとりというか、余裕というか、おおらかさか、そういったものが決定的に欠けている。もちろん文科省はありあまるほどの善意でそうしてるんだろう。しかし、結果は同じ事だ。

 さてそこで、このような「ゆとり教育」が見直されるということで、指導要領も改訂されたんだが、それでどうなったかな?
 多くの小中高で、早い段階で、先取りで授業時間は増やした。ただし、原則土曜日休業は崩さないという上の方針だから(なぜかはわからない)、夏休みなど長期休業日のうち何日かを授業日にしたり、それでも足りないと思えるから、ふだんの日の授業時間が延びている。七時間目を週に二~三日設定したりしてね。その分明らかに週日は大変なわけだが、ただ授業時間はもどってきた分だけ、宿題などは軽減されるだろうか?
 そうはならなかった場合のほうが多いようだ。だって、教師にしてみりゃこわいもの。前の年より宿題を減らして、テストの平均点が落ちたりしてごらんよ。それは宿題を減らしたせいかどうかはわからないとしても、校長や親からはきっとそう見られて、自分は不熱心な教師というレッテルを貼られるんじゃないか? そう思ったら、よほどの自信家か鈍感な教師じゃなかったら、宿題を減らすことなんてできなくなるよ。まして今は単年度で、デジタルに教員が評価される時代だからね。
 それは要するに教師が臆病なだけで、政府とは関係ないんじゃないか、と言われれば、そうかも知れない。しかし「あんたに言われたくないよ」ってかね、少なくとも教育行政担当者には、そんなふうに教師を非難する資格はないと思うよ。ゆとり教育を完全に否定するでもなく、そのうえにどんどんやることを重ねてきたんだから。これから先は夏木さんが言ったことの繰り返しになるが、せめて、
「ゆとり教育路線や新学力観は全くまちがいでした。だから総合的学習の時間も観点別評価も廃止して、ついでに教員の評価も廃止して、一から出直します」
と言ってくれてからなら、そういうお小言も聞くけどね。
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