由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

別役実論ノート その3(象・下)

2020年07月09日 | 
眞鍋卓嗣演出「象」ボリショイドラマ劇場2018年

メインテキスト:『別役実戯曲集 マッチ売りの少女/象』(三一書房昭和44年)

Ⅲ ジタバタすること/しないこと
 「象」には三人の被爆者が登場する。
 〈病人〉とその甥らしき〈男〉と、彼らが入院している病院の〈看護婦〉。対話、というより多くの場合むしろモノローグの交錯、は主に前二者の間で交わされる。

 他の登場人物をざっと紹介すると、
 〈病人〉の〈妻〉。太りすぎが怖ろしくて家で一人で泣いていると〈病人〉からは言われ、台所わきの部屋で電気をつけずに寝ていたと〈男〉には言われる。このように語られる範囲での彼女の人物像は、別役実の発表された最初の戯曲「AとBと一人の女」中の、登場しない〈一人の女〉を思わせる。第二幕(「象」は全三幕)で〈病人〉との関係が耐えられず、実家に帰ってしまう。
 〈医者〉。インターホーンで〈病人〉たちの話を盗み聞きしているらしい。「打ちとけて話をしてみようじゃないか」などと言って、〈病人〉に敵意を持たれる。
 〈通行人1〉。なぜか〈妻〉に近づいて、手伝いを申し出る。他に、第二幕の全く独立したエピソード中で、〈通行人2〉を無理やり「決闘」に引き込んで、殴り殺してしまう。
 以上のメンバーが〈病人〉を取り巻く不安定な世界を構成する。

 舞台にはまずコーモリ傘を持った〈男〉が登場し、詩的な隠喩に満ちた長いプロロゴス(序詞)を語る。こういう部分の科白は戯曲では詩のように分かち書きされている。
 「みんさん、こんばんは。/私は、いわばお月様です」「あるいは……。あるいは、おさかなです。/いわば淋しいおさかな」「もう一つの方向へ……/私の涙の流れる方向へ……。/暗い深いところへ……」
 舞台上にベッドに横たわっている〈病人〉と、かたわらでおにぎりを食べている〈妻〉が現れ、次に〈医者〉が担架に乗せた死体を運んで舞台を横切り、最後に〈妻〉が帰るまで、〈男〉のモノローグは続く。
 〈妻〉と入れ替わりに登場する〈看護婦〉は、舞台前面の〈男〉に直接語りかけて、病院への道筋を教え、ついでに注意を与える。「それから、もし患者さんがどなたかに声をかけましても、お相手をなさいません様に。あなたの足音を聞いているのです。きっと耳を澄ましておりますから……」

 これで〈男〉はようやく〈病人〉のもとにたどりつく。とりとめのない話が交わされてから、〈病人〉は語り始める。
 原水爆禁止大会でシャツを脱ぎ捨てたとき、人々は熱狂的な拍手をするだろうと思っていたのに、みなシュンとしていた。それが言わば彼の転落の始まりだった。
 それ以前の、後に「あの街」と呼ばれることになる場所で、ケロイドを見せたときの思い出。

 そうさ、あれも最初は嫌な仕事じゃなかった。
 俺は見物人にヒロシマの、あの時に様子を話してやったり、一寸気の利いた冗談を言って笑わせたり、カメラの為に新しいポーズを考えたりしたもんだ。
 俺がシャツを脱いで見物に背中を向けると、一斉に、ホオッと云う様なため息が聞こえる。
 それは悪くなかったよ。
 それに俺は、あの、シャッターのカシャリと落ちる軽い音も好きだった。俺が一寸背中の筋肉を動かす度に、それがカシャリ、カシャリと鳴るんだよ。
 実に、何と云うか折目正しい感じでね……。
 そうだ、あれはいつだったかなあ。一度小さな女の子がお母さんと一緒に見に来てね。その子が、俺の背中のケロイドをさわってみたいと云ってきかないのだよ。
 ははは、おかしな子だったねえ。
 俺もうつるものでもないからと思って、さわらせてやったのさ。
 おそるおそる手を伸ばしてね、一寸さわってすぐひっこめたよ。
 可愛い子だった……。

 ホオッというため息、折目正しいシャッターの音、おそるおそる差し出される小さな手。これらが〈病人〉にとって貴重だったのは、ひそやかでも確実さをもって世界のほうから彼へと送られてきた信号だったからである。それに触れている限り〈病人〉もまた、世界とのつながりが感じられて、安定していられた。
 しかしあるときそれは、「目の前からスウッと黒い波が引いて」いくように、遠ざかってしまう。

 (暗く)あの原水爆禁止大会があってからいけなかった。
 俺は気が付いたんだよ。
 奴等が本当は何を見たがっているのかと云う事をね。
 眼を見るんだ。
 俺の目を……。
 背中のケロイドよりも俺の眼をのぞきこもうとするんだよ。
 俺がシャツを着始めると奴等はじっと穴があく程俺の眼を探ろうとするんだ、わかるかい。

 作中、「原水爆禁止大会」や「ヒロシマ」などの固有名が出てくるのはここだけ。だからこそ、我々は思い巡らす。これらについて、どれほど多くの言論が費やされてきたことか。さらに、どれほどの言葉が、被爆者救済のために使われたことか。それはもちろん、必要なことであったろうし、有効でもあったろう。

 しかし〈病人〉の求めるものはそこにはない。彼はあるとき、まったく唐突に、原爆という、個人の身の丈をはるかに超える巨大なものに生身で出会ってしまった。そのため、普通の日常は奪われてしまった。
 第一幕二場で、一場に引き続いておにぎりを食べている〈妻〉に向って、「お前には計画ってものがないんだよ」と、正しい食べ方について長々と講釈を垂れる割合と有名な場面【例えば、山崎哲が「うお伝説」(昭和57)で引用してる。】があるが、これは、今や遠いものになってしまった日常性への〈病人〉のこだわりを示している。別役劇では同じモチーフは、「一軒の家 一本の木 一人の息子」(昭和52)などに繰り返されている。

 日常はもどってこないし、救済もされない。そこで〈病人〉は、巨大なものから受けた聖痕を曝し、それでも一人の人間として生きてきたし、これからもそうしなければならない事情そのものを、人々の前に提出しようとする。これが、時間が経つにつれて、あからさまに難しくなる。
 原子爆弾が人類最大の厄災であることが広く知られるようになればなるほど、人々はそこでひとつの「芸」が行われたなどとは信じず、隠された「意図」を探ろうとするから。ずれはどんどん大きくなり、〈病人〉の焦りは募る。ついには、人々と自分との間に憎しみがあるのだと思いみなし、「あの街」行って殺されることさえ夢想する。「情熱的に生きたいのさ」と彼は言う。

 それに対して、第二幕で発症し、同じ病室へ運び込まれた〈男〉には、そんな彼の空回りがよく見える。「つまり、誰もが野心的であるとは限らないし、全ての敗残者が悲壮であるとは限らない。往々にして人はさり気ない」と冒頭のト書きに記されている彼は、さり気なく生きること、それができなければさり気なく死ぬことを望んでいる。

 僕もそう考えたけれども、もう誰も僕達を殺してくれる人なんかいないんです。本当ですよ。
 「ケロイドが、伝染(うつ)るといけないから」なんて云う人が居ますか?
 誰もそんなこと云いやしない。誰も云いやしませんよ。そうじゃなくて、いいですか、これは本当の話ですが、原爆症の男の人とでなければ、結婚しないという娘さんがいるんですよ。当りまえのきれいな娘さんなんです。それからケロイドのある女のひととでなければいやだっていう男の人も居るんだそうですよ。
 現に、ここでこの間まで働いていた看護婦さんは、そういった男の人にもらわれていったんです。
 ねえ、それじゃまるで僕達は愛し合ってるみたいじゃありませんか?
 そうでしょう。僕達を殺したり、僕達の悪口を言ったりするのは禁じられているんです。そう云うシクミになっているんですよ。だからみんなニコニコしています。愛しているみたいなんです。

 かつて〈病人〉を迎えた熱狂はもうない。日常の側からひそやかに送られてきた信号も。「ケロイドが伝染る」なんぞという誤解ないし心ない言葉も、露骨な反感さえ、ない。これらは正負いずれの方向にもせよ、人間の自然の感情から出た、〈病人〉のケロイド、というかそれを積極的に見せる行為への反応だった。
 それにひきかえ、被災者を見たら必ずお気の毒と思え、などと決められた、言わば制度化された優しさの中には、彼の情念に対応するものは何もない。

 〈病人〉はそれを理解しないか、理解しないふりをする。長い入院生活でろくに歩けなくなっているのに、「あの街」へ、ゴザとオリーブ油を載せたリアカーを引いていくのだと言い出す。行って、カミソリで体を傷つけて血を流してでも、自分がどんなに一所懸命か、見てもらうのだ、と。

 〈男〉にとってこんな厭わしいことはない。そんなことをすれば〈病人〉と人々の間のズレが、それこそ原爆並みに巨大化するだけではないか。

病人 (前略)
 俺はね、知ってるんだ。分かったんだ。
 今日行かなければ、きっと、もう行く日がないよ。そうだろう。
 今日だけははってでも行かなければならない。
 ね、お前、行かしておくれ。
 俺はね、決心したんだ。行こうって。この事が判るかい。(ベッドをおりる)
男 (同じくベッドをおりて)叔父さんはっきりして下さい。
 いいですか、もう僕達は何もしてはいけないんです。何をしてもいけないんです。何かをするってことはとても悪いことなんです。どんなに辛くても黙ってじっと寝ていなければいけないんですよ。
 (後略)

 あくまで出て行こうとする〈病人〉に〈男〉がむしゃぶりつて、〈病人〉はあっさり死んでしまう。
 全登場人物がボンヤリ現れ、〈妻〉の依頼で〈通行人1〉が用意したリヤカーに〈病人〉の死体を乗せて運び出す。行く先は、「あの街」。コーモリ傘を広げた〈男〉以外は、それについて行く。

 開幕の時と同じような、ただしずっと短い〈男〉のモノローグで、劇は終わる。「何故、拍手をしないんです。/叔父は、そう思ってたんですがね。拍手をするだろうって……」

 以上で私は、この戯曲の主筋を紹介して、分析した。他に、脇筋がいくつかある。その中で、第三の被爆者〈看護婦〉について触れておこう。
 彼女は〈病人〉とは全くからまない。〈男〉と短い会話を交わし。舞台奥を横切り、あとは〈男〉が話題にするだけ。
 第一幕では、丈夫な百姓と結婚して子どもを産むのだと言う。第二幕では、その子は生まれてすぐに死んでしまったと言われる。これでもう〈看護婦〉は登場しない。第三幕、〈医者〉は彼女は結婚などしなかった、すぐ先の病室で寝ている、と〈男〉に言う。しかし〈病人〉によると、一度は病院から裸足で走って出て行ったが、連れ戻されたのだそうだ。

 〈看護婦〉が子どもを産んだ話は、嘘だったのかも知れない。それでも彼女は、〈病人〉と同様に、戦おうとしている。
 被爆者が普通人の生活を取り戻し、「ケロイドのある女のひととでなければいやだ」などとは言わない男と結婚し、さりげなく、子どもを産み、その子が育っていく。その過程こそ「それら(原爆の)結果として表現された様々なもの」を「究極に於て拒否する」(「ヒロシマについての方法」前出)だろう。
 成功した人はたくさんいるだろう。が、失敗した場合には……。もがき、あがき、「手足をバタバタさせる」(「それからその次へ」前出)のだろうか。別役は、劇の中であえてそうさせて、その向こうに、彼らが全人生を賭けて耐えねばならなかった特異な時間を間接的に見据えようとする。このようにして、「見る」試みは、ヒロシマへの鎮魂の歌にもなるのである。

【作品後に現れた主な関連事項の内二つを挙げておきます。
(1) 別役実は「マクシミリアン博士の微笑」(昭和42年、初演も同じ)で、もう一度ケロイドを取り上げた。『別役実第三戯曲集 そよそよ族の叛乱』に収録されているが、タイトルに「三場」と記されているのに、二場までしかない、たぶん未完成作。『別役実第二戯曲集 不思議の国のアリス』の「あとがき」には、「上演後大幅な書直し計画をたてたまま手がつかず、そのままになっている」とあり、その後改稿されることはなかった。また、別役実がヒロシマを題材としたのもこれが最後になった。
 内容は、被爆した子ども達のケロイドを手術で隠してやりながら、彼らにヒロシマの「あの時」のことを語らせようとする、マクシミリアン博士(舞台には登場しない)の意図をめぐって、〈助手〉、自身被爆者である〈看護婦〉、それに〈子供〉の三者が葛藤するさまを描いている。ヒロシマの「語り難さ」は「象」よりストレートに出ているが、反面ずっと生硬なディアレクティークで進行し、別役劇としては珍しいぐらい「近代劇」に近い印象が持たれる。

(2) 〈男〉のモノローグ中にちりばめられている詩的なイメージのうち、「淋しいおさかな」は、最初の童話集のタイトルになった(三一書房昭和48)。しかしそれより、戯曲「スパイものがたり」(昭和44年、初演は翌年。『第二戯曲集』所収)のスパイのほうが重要である。自分は「とめどなく怪しい大きなバケモノを、宇宙にブラ下げるための小さなピン」だと言うスパイは、紛れもなく〈病人〉の後継者だが、彼自身が「おさかな」になぞらえられていることは、最後の場で巨大な釣り糸が空から降りてくることでわかる。彼は寂しさのあまり思い出の地球を買収して食べてしまった挙句、電信柱を登って釣り糸の方向へと昇天する。】
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